不信仰と信仰

 「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。
 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。」(ローマ3:3-4)

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 上の引用に「不真実」とあるのは、注釈によれば「不信仰」という別訳があるとのこと。

 不信仰な者にとっては、「神は真実な方である」どころか自分にとって神などいない。
 己の力のみを信じる無頼な者たち。
 しかし彼らの力や存在を計る基準はいったいなんであろう。
 それはおそらく、他人との相対性なのだろう。
 他人より仕事ができるか、他人より金持ちか、他人よりもてるかなど。
 そうすると、この不信仰な者たちは、絶えず他人との比較の中でのみ、自分の存在感を得たり、あるいは失ったりする。いつも不安定な中にある。
 
 神の真実の中にいる者は、神-イエス-私という構造の中にいる。
 この構造には、神という絶対的な存在があり、私たちはその絶対的な存在に連なっている。
 神にかしずくことで初めて得られる平安があり、無頼な者たちが私たちに何か仕掛けてきても、私たちの魂の平安が揺らぐことはない。
 信仰のある人にとって、常に神は真実である。

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心の割礼

 「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(ローマ2:28-29)

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 信仰とは、文字(すなわち律法)を守ろうと行うことそれ自体ではない。
 信仰は、行いを他人に見せびらかすための格好付けでもなければ、ましてや、仲間意識を形成するためのジャーゴンでもない。

 「心の割礼」とは、神から与えられて信じさせられることを指す。有無をも言わさず信じさせられる。
 すなわち、信仰とは人間の行いや努力によって到達するようなものではなく、神の主権によっていただくものであり、これを恵みという。
 この恵みに預かるためには、まずは律法によって罪深さに気付き罪に苦しみ、この罪から救われたいと飢え渇くことが大前提であることはいうまでもない。
 言い換えると、私たちは律法によってのみ信仰に追い込まれるのである。

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[一版]2009年 8月22日
[二版]2014年 2月 1日
[三版]2019年 8月18日(本日)

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「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか」

 「もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、
 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、
 また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、
 どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。
 姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。
 律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。」(ローマ2:17-23)

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 パウロの放つ嫌み。

 律法は素晴らしいものだと少なからぬ人々が思っている。私もその一人だ。
 なにしろこの律法は、天の御父が与えてくださったのだ。
 しかしパウロが嫌みを言っている人々は、「律法を持つことに安んじ」てしまっている。
 律法を奉じている俺は他の奴らよりもエラい、と。
 このような人が、「盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師」になりたがる。

 しかし、これこそ、盲人が盲人を導くことに他ならない。
 「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか」、これが全てである。
 律法は、自分の救いのための養育係(参/ガラテヤ3:24)なのであるから、もっぱら自分に適用するためのものである。
 そのことに気付かないと、盲人を導く盲人はたやすく増殖してしまう。

 さらに言えば、律法は自分自身を裁く。
 この律法によって初めて、自分が神の御前に罪を犯していることを悟らざるを得なくなる。
 ここが救いのはじまりであり、律法の養育係たる所以である。
 この罪から脱するべく律法を遵守しようとしても、どうしてもできない。
 そうこうして、その人は極刑に相当する重罪人として十字架に死ぬ。
 これが、イエスが切り開いた死と復活という救いの道であり、死んだ後三日目によみがえる。
 そのとき、この罪人は、罪人でありながら罪はないとみなされ、御父が和解して下さる。

 だから、律法を他人に押しつけるというのは、まったくもって大きな誤りである。
 律法は、他人を裁くためのルールブックなどではない。
 自分に課して初めて、律法は意味を持つ。
 以上のことは律法に限ったことではなく、聖書全体についていえることである。
 なぜなら、聖書では御父-御子-私の関係が全てだからである(参/ヨハネ17章)。

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[一版]2015年 1月25日
[二版]2019年 8月17日(本日)

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死んだ日々と生まれ変わった日々

 「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
 彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」(ローマ1:28-32)

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 「彼らが神を知ろうとしたがらない」とあるので、無神論者は大昔からいたということなのだろう。
 しかし彼らは「死罪に当たる」のであり、そのことを彼ら自身知っているという。
 では、ここでいう死罪とは何であろうか。
 それは神を知ることがなく、虚しく潤いのない日々に幽閉され続けることとでもいえばいいだろうか。
 ソロモン王は「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」(伝12:1)と言っている。
 あたかも、油を用意しなかった愚かな娘たちの叫びのようだ。

 一方で、復活のイエスが取りなして神と和解できた私たちは、内住の聖霊を宿している。
 私たちは、自分の意志によって動いているというよりは、この内住の聖霊によって動かされている。
 これは不自由なことではなく、それどころか、人間生来のあり方としてとても自然なのである。
 上の引用聖句に諸々のことが書かれているが、これらを守るべきものとして守るというよりも、守ることが自然なのである。
 人は神のもとで生きるようにできているのだろう。罪赦されて神と和解することによって、失われていた自分を取り戻すことができるのである。

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知者であると言いながら愚かな者

 「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。
 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」(ローマ1:18-23)

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 もし、神の存在を理詰めで証明するとしたら、どのような筋道でならうまくいくだろうか。
 自分なら、書き始めでつまづいてしまうだろう。一行も書けない。
 頭とか観念だけで神を認めようとするのは、非常に無理がある。
 それらとは違うところ、心とか魂が、神を求め神と出会うのである。

 近代以降、人々は頭でっかちになってしまった。頭ですべてを統御できると思っている。
 この頭は、自分の認識の外にある神を認めようとしない。
 しかしゲーテは、1772年という時点で既に、「頭がすべてだと考えている人間の哀れさよ!」と書いている。
 頭が全てになると、その人の中で、頭と心(魂)とが分離してしまう。
 熱エネルギーを自在に用いて巨大な機関車を動かせても、自分の気持ち一つ分からなくなる。
 それが「知者であると言いながら、愚かな者」ということである。
 まったく愚かしい。これは我が身を省みてもそう思う。

 この、分離してしまった頭と心との調和を取り戻すには、どうしたらいいだろうか。
 絶対的な存在を認めることは、とても大切なことだ。
 頭では認識できないが全人格的に認めざるを得ない、そういうことがある。
 それがイエスとの出会いなのである。
 極刑に死んだが復活した赦し主イエスとの出会いによって、この絶対的存在を認めざるを得なくなり、その結果、調和が取り戻される。
 このときに、頭が絶対者なのではないことに、否応なしに気付かされるのである。実際、この出会いに頭は何の役にも立たなかった。

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[一版]2017年 9月17日
[二版]2019年 8月14日(本日)

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信仰について

 「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。」(ローマ1:16-17)

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 大伝道者パウロの第一声。
 ここでは「信じる」と「信仰」とが、分けて用いられている。
 何を信じるかは、私たちが自律的に選ぶことができる。だが信仰は与えられるものなのである。
 有無をも言わさず与えられ、まさに「信仰に進ませる」。というか、信仰に進まされて救われる。
 だから、何を信じるのかは実は自由に選べるわけではない。
 御父のこの御恵みに預かることができるということを信じ続けるのであり、また、このことを伝え続けるのが福音である。

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マウンティング

 「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」(出エジプト20:17)

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 十戒より。

 高度成長期の頃、隣の家がカローラを買ったから我が家はもっと上級のコロナを買おう、というのがとても多かったが、これは見栄を張るというだ。盛大な葬式を営んで大勢の人を呼ぶのが近所に見栄を張りたいから、というのを聞いたこともある。
 ちなみに最近は、ぶつけてへこんだ車を修理もせずに乗っているというのをよく見かけるようになったし、葬式はもっぱら身内だけのものになった。
 張る見栄もなくなったのかと思っていたら、最近はマウンティングという言葉がある。隣人に対する優位性をもっぱら言動で示すことと言えばいいのだろうか。しかしこの場合、それをする人が実際に優れているわけではない。

 ここで上の十戒に戻ると、「あなたの隣人のものを、欲しがってはならない」のだから、これは行為の禁止ではなく、内面の動きを禁止していることになる。心の動きまでも御父が見通しておられることが、ここで端的に示されている。
 そして、ここで問われているのは、欲しがることそのものについてではない。隣人を見て同じものをとか、隣人のよりいいものをとか、隣人より上に立とうとか、すなわち隣人に対して相対的な比較をする心の動きが問われている。

 こんなもの守れるはずが、と言いたいところだが、実は自分にはこういう心の動きは少ない。もちろん全くないなんてことはないが、人より少ないと思う。
 お金は自分が過不足なければ十分と思っているので、人より高収入をとか、ましてや富裕層ランキングの類の相対化した競争には興味がない。本はよく買うが、それ以外のものはあまり買わない。
 それからなんだろう? 何かを持っているから他人より相対的に上だとは、・・・いやあ、思わないなあ。上にマウンティングという言葉を書いたが、よく知らなかったので調べ調べ書いたのだが、自分がこれをやることはほとんどないと思う。

 実はそのわけを自分自身でわかっている。
 自分の核を持っているからだ。
 イエスに救われて、それから改めて聖書を開くと、1行1行が今までとは全く違う意味と輝きを持っていた。その当時の聖書の見え方を書き始めたのが本ブログの始まりで、表面的な表現は変わっても書いている内容の根幹は当時と変わるところはない。
 自分は世界をどうとらえるのか。この切り口がこのときに与えられたのだと思う。
 それで、自分にとって絶対的な意味で大切なものは何か、という見方におのずとなった。この見方には、他者との相対性は入らない。その絶対性の中で、分相応とか、自分とは何者かということも、自然と開かれていった。

 さて、マウンティングというものを調べていると、あーこれは自分もやられたなあ、確かにあれは不愉快だった、ということを思い出した。
 その内容は省略するが、中身が全くないから、このマウンティングという恐い者知らずができるのだろう。大体、人を小馬鹿にするなんてのは、人の足を引っ張ってやっと保てる低い自尊心に理由があるのではないかと思う。
 なぜこんなことを書くのかというと、マウンティングする人たちもまた、何かの大きなきっかけで、自分のこんな心貧しさに気付くかもしれないと思うのだ。
 第一、自分がそうだったのだ。
 若い頃さんざんマウンティングした。いろいろな人を小馬鹿にしてどの人からも疎まれた。そのくせ、分不相応な高級車なんか乗り回していた。そのダメさに少し気付いて教会行って聖書に接したら、その自分のダメさに徹底的に打ち砕かれていくのだから聖書の力はなんと素晴らしいものであろうかと今は思う。

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[一版]2018年 8月27日
[二版]2019年 8月12日(本日)

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罪悪感というテコ

 「盗んではならない。」(出エジプト20:15)

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 私は小学生の時に、2回、万引きをしたことがある。
 いずれも100円くらいの少額のものであったが、いずれにせよ万引きをした。
 では何故2回で終わったのか。
 それは自分にとって面白いことではなかったからだ。
 それどころか、当時は知らなかった言葉であるところの罪悪感を覚えて、今に至るまで尾を引きずっている。
 当時は聖書や律法ということを全く知らなかったが、このときわき上がった罪悪感こそ、テコなのだと思う。
 つまり、このテコこそ、ずっと経ってから教会へと向かわせ、聖書に進ませ、律法を知ることとなるのに不可欠なものだった。

 そうすると、人には既に、救いへの最初のテコである罪悪感が備わっているのではないだろうか。
 罪深い存在ではあってもこの自分をお造りになったのは、十戒を授けた創造主なのだ。
 その創造の御業のときにあたかも刻印を押したかのように、このテコを備えてくれたのかもしれない。

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[一版]2018年 8月26日
[二版]2019年 8月11日(本日)

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ほんとうに求めているものは何か

 「姦淫してはならない。」(出エジプト20:14)

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 この「姦淫してはならない。」について、イエスは山上の説教の中で、次のように言っている。
 「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:28)
 私は、しばしば情欲をいだいて女を見るから、最初この聖句に接したときのショックはとても大きなものがあった。
 このように、律法は自分の罪を罪と気付かせるためのものだ。

 この罪深さというのは、自身の内面への責めである。
 この責めによってイエスと同様に死に、イエス同様復活する。
 そして御父に義と認められて、御父と和解でき、魂に安らぎが訪れる。
 だからこそ、罪を罪と気付かせる律法はすばらしい。

 今はまさに姦淫の世だ。芸能ニュースには、その手のものがあふれている。
 知らずに姦淫して、そして罪の苦しみを感じることもない。
 彼らはきっと、魂のやすらぎよりも刺激そのものを求めているのだろうと私は思う。
 本当の満足感がないので、ごまかし続けるほかないのだろうと。
 どちらがいいのか正直よくわからないが、自分自身にとってどちらがいいのかは明白だ。

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 健やかな一日をお祈りします!

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