いのちの御霊の原理

 「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。
 神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:1-4)

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 神の律法は素晴らしいものだ。
 ただ、この神の律法、完璧な律法を守ること、守り通すことが、人間にはどうしてもできない。
 それというのも、人間に備わるアダムの肉のためだ。
 アダムの肉は、神の定めた律法を完遂しようとしてもできない、罪深い存在だ。
 このことについて、聖書には、「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました」と書かれている。

 無力なアダムの肉の代わりに、何を「神はしてくださ」ったのだろうか。
 「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです」。
 神の子イエスにアダムの肉を被せて、その御子イエスを世にお遣わしになった。
 「人間・イエス」。
 人間・イエスは、もっぱら処罰されるために、この世に来られた。
 神の子がまとったアダムの肉は、罪を犯していないにもかかわらず、最も罪深いとして、極刑である十字架の上で徹底的に処罰された。
 これは神が下した処罰である。
 では、神は何を処罰したのだろう?
 イエス、ではなく、アダムの肉、これを処罰された。

 このアダムの肉の処罰、これが「いのちの御霊の原理」によって腑に落ちたとき、その人のアダムの肉も処罰される。
 私たちは、素晴らしき律法をどれ一つとして守れなかったかどで、極刑に付されるのである。
 イエスと同じように処罰され、そしてイエス同様復活する。
 そのときに、「律法の要求が全うされる」、すなわち、律法に照らして罪なき者とみなされる。
 実際には罪はある。
 だが、ないとみなされる。
 それが私たちの「救い」である。
 アダムの肉は処罰され、罪と死の原理から解放され、今はいのちの御霊の原理のうちにある。
 「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」。
 処罰されたアダムの肉を持ち続けていても、罪に定められることはない。

 そういうわけで、このアダムの肉は、自分で処理しようとしても、けっしてできず、どうしても「処罰され」るものである。
 そうであるから、信仰とは勝ち取るようなものではない。信仰させられるのである。

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[初版]2007年 9月12日
[二版]2007年11月11日
[三版]2008年 2月20日
[四版]2008年10月13日
[五版]2011年10月 8日
[六版]2015年 6月14日
[七版]2017年11月23日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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回心

 「すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:22-25)

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 私たちは、なぜ「神の律法を喜んでいる」のだろう。
 それは、律法が善悪の基準であり、善の行いを明確に指し示すからである。
(世界には他にも数々の善悪の基準があり、たとえばギャング団にも善悪の基準はあるのだが、そのことはここでは措く。)
 では、なぜ善を行いたいのか。天国に行きたいからか。
 というよりも、善を行うことは、単純に気持ちがいいのである。
 多くの人にとって、心ふさぐよりも心晴れやかな方がいいに決まっている。

 ところが、この基準としての律法は、かえって、人の肉の悪をあぶりだすことになってしまう。
 なぜなら、この神の律法を行おうとすればするほど、それを全うできない肉の罪というものに直面せざるを得なくなるからである。
 そして、これこそが律法の目的とするところである。
 このよいものによって、そのよいことを行おうとする人の罪を自覚させる。
 そしてパウロはうめく。「私は、ほんとうにみじめな人間です。」、ここまで追い込まれてしまう。

 しかし、追い込まれ切った後には何と書かれているだろうか。
 「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」
 十字架と復活のイエスが、憔悴しきったパウロを救ったのである。
 もし、こんな苦しい律法など守る必要がないと短絡的に思うとしたら、それはこのようなイエスの救いを放棄したのである。罪に苦しむことなしには、救われようがないのは明らかなことだ。
 そして、救われたパウロは「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えている」という。
 肉の罪が赦されたという実感であり、「罪の律法」、すなわち醜い肉と同居できるのである。

 上の短い聖書箇所には、こうして救われるということが書かれている。
 これ以外のプロセスは、おそらくないだろう。
 よきことを行おうとしたら、実は問題は自分の内側にあった。
 この気づきが最初の一歩なのである。

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 健やかな一日をお祈りします!

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パラドックス

 「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」(ローマ7:15-20)

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 「自分がしたいと思うこと」とは何かというと、聖なる律法を遵守すること、すなわち善を行うということである。
 頭ではいつもそう思っているしそれを実践したい、善行をしたいと思う。
 だが、実際にやっていることと言えば「自分が憎むこと」、「自分のしたくないこと」、すなわち律法に反することばかりなのである。
 これは一体、どういうことだろうか。
 律法を遵守して善を行おうとするのだが、自分の肉が実際にやることは、その律法によれば罪にあたってしまう。
 「善をしたいという願い」を持つ私たちの意志にかかわらず、そのことによって私たちの肉は罪を犯すのである。「かえって、したくない悪を行」うことになる。
 こうして、「私には、自分のしていることがわかりません。」という地点に陥ってしまう。

 しかし、この「自分のしていることがわかりません」という地点こそ、狭き道の入り口なのである。
 意志と肉との狭間で、律法を尊ぶとかえって罪深くなる。
 しかし、このパラドックスは予定されていたものであり、この狭い道の先には十字架と復活がある。
 律法を何一つ守ることのできないこの肉が、恵みによって赦されるのである。

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[一版]2011年10月 1日
[二版]2017年11月19日(本日)

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律法は罪なのでしょうか

 「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
 それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。
 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(ローマ7:7-12)

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 「律法は罪なのでしょうか。」というのは、律法によって自罰の念にかられるのだから律法こそが悪いのではないか、くらいの意。
 しかし律法に非があるのではなく、かえって、私たちの肉に非があることを律法は指摘してくれているのである。
 律法を知らなかった頃、私たちは自分の好き勝手、したい放題に暮らしていて、そのことを何とも思わなかった。「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう」とあるとおりである。
 そして、その好き勝手ぶりが神の秩序に反し神の怒りを買い続けていること自体、知りもしなかった。
 この神の怒りに気付かせてくれるのが、神の完璧な秩序たる律法である。
 律法という神の基準が、私たちの内に潜む肉の罪をあぶりだす。
 私たちの肉に内在するあらゆる罪が、律法によって容赦なく指弾されて表出する。
 この罪深さの自覚があまりに苦しいので、「律法は罪なのでしょうか。」と口から漏れる。
 まさに「戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺した」のだ。

 神との良好な関係を志そうとする私たち、それによって、神との平和を得て救われたいと願う私たちは、どうしてもこの罪深い肉が処理される必要がある。
 肉の処理、その初穂が、罪なき人であるイエスの十字架であり、私たちはそのあとを恵みによってついてゆけばよい。復活もまた、イエスに続くことになる。

 律法が私たちに肉の罪深さを自覚させ、そのあまりの罪の重さに苦しんだのちにイエスの死と復活に預かるのであるから、「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いもの」というのは、まさにその通りである。

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[一版]2011年 9月25日
[二版]2015年 5月17日
[三版]2017年11月12日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!
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私たちを動かすものの変化

 「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」(ローマ6:12-15)

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 私たちは、キリストの十字架の死と共に死に、キリストの復活と共によみがえった。
 もしも私たちがこのキリストと出会ったのであれば、そうである。
 この出会いの前、私たちは律法に責め立てられて続け、自分の罪に苦しみ抜き、その苦しみたるや、かつてないものであった。
 しかしそのような私たちは、恵みによって、キリストの極刑と共に極刑に処せられ、そして罪赦された者としてよみがえったのだった。

 そうして私たちの内には、「助け主」が与えられる。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(ヨハネ14:16)とあるところのものである。これは、エレミヤ31:33にある、彼らの中に律法を置くということに一致する。預言は成就したのだ。

 この、内にいる「助け主」が、私たちの行動を決めている。
 なにをやっていいか、なにをやるのはいけないのかは、内から突き上げてくるものによって判断される。
 以前の罪深かったころは、肉の衝動が自分を突き動かし、その行動は常に律法に反していたから、私たちが罪赦されて神との和解にあるというのは、私たちを動かすものの変化のことであった。
 そういうわけで、「罪を犯そう」とは、そもそもならないのである。

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 健やかな一日をお祈りします!
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