偽善の華

 「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:1-4)

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 人前で善行を行うことの報いとは、人から褒められることである。
 むしろ、褒められたくて善行をやっている。イエスは彼らを偽善者と呼ぶ所以である。
 程度の大小はあれ、私たちの誰もが持っている気持ちだ。

 イエスは、その偽善そのものを問題にしているのではない。
 自らの偽善、その偽善をはらむアダムの肉に気付けと言っている。
 つまり、自分の罪に気付けということであり、気付いた時点が救いへのスタートラインだ。
 御父はキリストを介して彼を救い、子としてくださる。それこそが報いである。

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敵を愛せない

 「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:43-45)

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 山上の説教より。

 私には、自分の敵を愛するということがどうしてもできない。何度も試みた。だが、到底できない。
 むしろ、自分の敵を憎む方がずっと自然なのである。
 神は全世界の人をひとりひとりお造りになられたのであるから、確かに自分の敵もまた神に愛されている。
 そうと分かっていても、アダムの肉を持つ私にはイエスの要求水準は高すぎる。
 アダムの肉にとっての自然とは、敵を憎むことだというほかない。

 では、イエスはできもしないことを命じているのであろうか。
 そうではなく、イエスはアダムの肉の罪深さを指摘し、そのことに気付くことを促しているのである。
 敵を憎む私の肉が神の要求水準には程遠く、罪を宿しており神と断絶している、このことが腑に落ちることを促している。

 その罪深さ、神との断絶を回復する唯一の道は、イエスの十字架と復活にあやかることである。
 十字架とは肉の死であり、復活とは赦し、すなわち義とみなされることである。
 神は敵も味方もなくどんな人にも憐れみ深いので、この狭い道もまた、どんな人にも開かれている。

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姦淫してはならない

 「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」(マタイ5:27-30)

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 「姦淫してはならない」は、「殺してはならない」同様、十戒にある戒め(出20:14)。

 私は実際に姦淫を犯したことはない。
 だが、情欲をいだいて女性を見ることなど、数知れない。

 「姦淫してはならない」という律法そのものを守ることは、実にたやすい。
 だが、「すでに心の中で姦淫を犯したのです。」という徹底的なイエスの律法解釈を耳にして、私はいつも、したたかつまずいてしまうのである。
 どの律法を持ってきても、イエスを通すとおなじになる。
 イエスを通した律法は、もっぱら人間の肉の性質を問題としているので守りようがなくなってしまう。

 そうすると、律法違反とならないためには、まずは違反の実行犯である右手右目を捨てるしかない。
 左手、左足も。
 だが、アダムの肉は依然として不自由極まりない。
 そうやって全てを捨てざるを得なくなったときに初めて、必要な全てをいただいて、からだ全体ゲヘナへの恐怖から脱して「いのち」に生きることができるようになる。
 ここにいう必要な全てとは、十字架と復活、その意味である。

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[一版]2008年 7月11日
[二版]2012年 1月 3日
[三版]2013年10月29日

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律法の成就

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)

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 最初の人アダムは、「善悪の知識の実」を食べてしまった(創3:6-7)。
 「善悪についての判断」を身につけた人間が、ほとんどの場合において悪の側にばかり走ったことは、旧約聖書をざっと斜め読みするだけで一目瞭然だろう。人間は、アダムの肉を身にまとってしまったのである。
 そんな人間のために、神はモーセを通して数々の律法を授けた。
 その大支柱とでもいうべきものが、十戒(出20:1-17)である。

 この十戒に始まる律法群を守り行うことは、およそ不可能だ。
 更に、この「山上の説教」。

 「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27-28)

 「姦淫してはならない」という律法は、実にここまで厳格適用されるもの、イエスはそう説いている。

 「 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39)

 聖書を小馬鹿にする人々は、この箇所をあげつらう。
 だが彼らが考えるとおり、右の頬を殴られて左の頬をも向けようとしても、確かにそれがどうしてもできない。
 肉を持つ私たちには防御本能という肉が強く働くのである。
 また、殴られたときに沸々と湧いてくる復讐心、これをどうやれば消すことができるのだろう。左の頬どころではなくなってもくる。

 であるから、神の完全なる秩序・律法は、およそ遵守できないということが痛いほど身に染みてくる。
 パウロは書いている。

 「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)

 実に人は、罪深い存在である。
 この完全な律法に照らされて、自身の罪が否応なく明らかにされる。
 左の頬を向けることができない自分自身にその罪深さを気付かせること、これこそ律法の役割といっていい。
 イエスは、この「律法を成就」するために来られ、あぶりだされた私たちの罪を神の御前に赦すための十字架に架かって下さった。
 私たちのアダムの肉を処断するための十字架だ。
 そうすると、罪に気付くことこそ、イエスの救いへの第一歩なのである。

 「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」(ガラテヤ3:24)とあるとおり、罪に苦しむ私たちのもとを、十字架と復活のイエスが訪れてくださる。

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[一版]2006年 9月 8日
[二版]2007年 6月30日
[三版]2008年 2月21日
[四版]2010年 4月24日
[五版]2011年12月25日
[六版]2013年10月28日(本日)

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義への飢え乾き

 「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)

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 ここでいう「義」とは、文脈上、神の義の意。
 誤解を恐れず言い換えれば、神に認められるということ。

 さらに誤解を恐れずにいうと、神がお造りになった私たちは、その神から全く認められていない。アダムの違反のためだ。
 アダムの子孫でありアダムの肉を持つ私たちは、神の聖なる律法を遵守することができない。それも全くできない。そのことは、山上の説教の中でイエスがこれから明らかにしてゆく。
 律法に照らして、アダムの子孫である私たちは罪深い存在であり、神の義には到達できない。
 義を求めてどれだけ熱心に行っても神の水準にははるかに届かず、ここに至って自身の罪深さ、義への飢え乾きはピークに達する。

 しかし、その到達できない神の義、これを求めてやまない人こそ幸いだと、ここでイエスは言っている。
 なぜなら、「その人は満ち足りる」のだ。神から認めていただける。
 そして、そのルートを開通させるべくイエスは世に来てイエスのわざを行うのである。

 このイエスを信じさせられたとき、私たちは義と認められ、まさに満ち足りる。
 律法を遵守できないことには変わりないが、義とみなされて満ち足りる。

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心の貧しさが見える目薬

(1)
 「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙3:17-18)

(2)
 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)

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 復活のイエスは仰る。「わたしはあなたに忠告する」。

 何を忠告なさるのだろう。
 「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」ということだ。
 つまり、満足しているようでいて、実は貧しくて素っ裸の醜悪な存在にすぎない。
 盲目であるから、自分ではその姿には全く気付かない。
 気付かずに騒ぐ。やれ豊かだ、裕福だ、乏しいものは何もない。身もこころも。

 そして「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」と勧める。
 その目薬とは端的に律法であり、特にこの山上の説教である。自身の醜さ罪深さがはっきりと見えるようになる。
 見えてきた心の貧しさに自分でもたまらなくなり、そして救い道のスタートラインに立たざるを得なくなるので、それでイエスは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」と仰っている。

 醜いアダムの肉を覆う義認の白い衣も、十字架と復活のイエスからただで売ってもらおう。

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[一版]2008年 2月 8日
[二版]2010年 4月17日
[三版]2011年12月18日
[四版]2013年10月26日 (本日)

※今日から、試験的に倉庫用のgooブログにも記事をアップしてみます。

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