律法の成就

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」(マタイ5:17-19)

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 イエスは自身を、律法を成就するために来たと告げる。

 律法の成就とは何であろう。
 もし私が大小全ての律法を完全に履行して日々生活しているとしたら、私の内で律法は成就されている。
 神の完全な秩序である律法の要求を、私は真の意味で満たしていることになる。
 つまり私は義人なのである。

 だが、どんなにやってもこの律法遵守が到底できない、という、まさに奈落の底に突き落とされるときが来る。
 そのときにはじめてイエスをイエスと分かる。
 このイエスは、極刑の十字架に掛かって肉を処分し三日目に復活した神の子である。

 私は今、律法によって奈落の底に落とされて極刑に処せられるのだが、イエスの切り開いた道によって復活してこの大罪が赦されるということが見えている。
 律法に死にイエスによって復活するとき、律法によって不義とされた私であってもそのような私がみじんに処分されて、イエスにあって義と認められる。
 神が義とみなしてくださる私は、その私の内に律法が成就されたとみなされており、それでイエスを介した神との平和が確立している。

 そうであるから、イエスによる救いを得るためには律法は守り行わなくてはならない。
 それも、全身全霊をもって守り行わなくてはならない。
 それなしに奈落の底に落ちることはけっしてないからである。
 この律法が「養育係」(ガラテヤ3:24)である所以である。

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神の完全なる秩序

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)

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 最初の人アダムは、「善悪の知識の実」を食べてしまった(創3:6-7)。
 「善悪についての判断」を身につけた人間が、ほとんどの場合において悪の側にばかり走ったことは、旧約聖書をざっと斜め読みするだけで一目瞭然だろう。人間は、アダムの肉を身にまとってしまったのである。
 そんな人間のために、神はモーセを通して数々の律法を授けた。
 その大支柱とでもいうべきものが、十戒(出20:1-17)である。

 この十戒に始まる律法群を守り行うことは、およそ不可能だ。
 更に、この「山上の説教」。

 「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:17-28)

 「姦淫してはならない」という律法は、実にここまで厳格適用されるもの、イエスはそう説いている。

 「 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39)

 聖書を小馬鹿にする人々は、この箇所をあげつらう。
 だが彼らが考えるとおり、確かに左の頬を向けようとしてもそれができない。
 肉を持つ私たちには防御本能という肉が強く働くのである。

 であるから、神の完全なる秩序・律法それ自体を守り行うことというのは、上に見た山上の説教のいくつかを見てきただけでも、およそ実行不可能だと言うことが痛いほど身に染みてくる。
 パウロは書いている。

 「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)

 実に人は、罪深い存在にすぎない。
 そして自分が罪深い、ということをその人に気付かせる(追い込ませる)がための、完全な律法なのだ。イエスは、この「律法を成就」するために来られた。
 この完全な律法に照らされて、自身の罪が否応なく明らかにされる。
 イエスは、このあぶりだされた私たちの罪を神の御前に赦すための十字架に架かって下さった。
 アダムの肉を処罰するための十字架だ。
 そうすると、罪とは単に指弾するためのものというよりもむしろ、解放されるためのものとさえ言えるかも知れない。

 そういうわけで、律法と十字架とはペアなのである。

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[付記]
 本日の記事の履歴は以下の通りです。
 [一版]2006年 9月 8日
 [二版]2007年 6月30日
 [三版]2008年 2月21日
 [四版]2010年 4月24日
 [五版]2011年12月25日
 その都度変更を加えています。

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義に飢え乾いている者の幸い

 「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)

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 イエスのなされた「山上の説教」の中の一節。

 罪( sin )というのは、窃盗罪とか、そういう犯罪(guilty)を指すのでは全くない。
 アダムの肉を持つ人間は罪(sin)の性質(肉)を有するがゆえに、神の怒りの下にいる。
 そのことは、神の律法や、更に山上の説教を人間が守り通すことのできないことから明らかである。
 このことを罪の下にあるという。

 罪の下にあるからこそ、人は神の御前に正しいという「義」をあえぎ求める。具体的には、律法をあくまで守り通そうとする。
 上の引用聖句にある「義に飢え渇いている」とは、まさにこの段階を指す。
 そして、イエスはこの段階にある者を「幸いです。その人は満ち足りるからです」と祝福している。
 アダムの肉が恵みによってイエスの十字架と復活を信じたときに「義」と認められて罪が赦され、律法は養育係としての役割を終える(律法そのものがなくなるのではない。参/マタイ5:18)。
 これが神との和解である。

 つまり神と和解するには、「義に飢え渇いている」という段階がどうしても必要なのである。
 その段階の向こう側に十字架と復活が臨んでいる。

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[付記]
 本日の記事は、
  [一版]2007年12月 1日
  [二版]2008年 3月 4日
  [三版]2010年 4月18日
  [四版]2011年12月24日(本日)

 少し筆を入れました。

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心の貧しさ

(1)
 「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙3:17-18)

(2)
 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)

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 復活のイエスは仰る。「わたしはあなたに忠告する」。

 何を忠告なさるのだろう。
 「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」ということだ。
 つまり、満足しているようでいて、実は貧しくて素っ裸の醜悪な存在にすぎない。
 盲目であるから、自分ではその姿に全く気付かない。
 気付かずに騒ぐ。やれ豊かだ、富裕だ、乏しいものは何もない。身もこころも。

 それで、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」とイエスは仰る。
 真の姿が見えてしまうと、そこにあるのは心貧しくて裸の自分。
 だが実は、天の御国はそのような本当の自分を直視した人に開かれている。
 そこでイエスは「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」と勧める。
 その目薬とは端的に、律法であり山上の説教である。
 それによって自身の罪深さがはっきりと見えるようになり、その自らの心の貧しさに身も震えて救いのスタートラインに立つ。
 このスタートラインに立った人こそ、幸いなのである。

 醜いアダムの肉を覆う義認の白い衣も、十字架と復活のイエスからただで売ってもらおう。


 なお、イエスが「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」と言っているのが、パリサイ人や一般大衆に対してではなく、ラオデキヤの教会に対してであることは興味深い。

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[付記]
 記事履歴
         初版 2008年 2月 8日
         二版 2010年 4月17日
         三版 2011年12月18日 (本日)

 今回大幅に書き換えました。タイトルも変えました。

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恵まれることについて

 「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
 彼らはすぐに網を捨てて従った。」(マタイ4:17-20)

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 聖書には2種類の人々が登場する。
 一方は、イエスから「わたしについて来なさい」と言われる人々。
 もう一方は、イエスに弟子入りを懇願するがやりすごされてしまう人々。
(たとえば「そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。」マタイ8:19。)

 主権はどこまでも神の側にあるので、私たちの側から働きかけてもうまくゆかない。
 救いは正にそのようなもので、私たちが断食したり滝に打たれたりすれば救われる、というようなものとは程遠い。
 聖なるお方から救いの手が恵みによって差し伸べられるのを、祈って待ち続けるのみである。
 そうでこそ、全能者である神と被造物たる人間とが、本来的な上下関係を取り戻す。

 ではなぜペテロやアンデレが「わたしについて来なさい」とイエスから声を掛けられたのだろう。
 おそらく理由はない。
 ここでいう理由とは、たとえばペテロは屈強そうだから是非とも弟子にしたい、といった類の因果のことだが、もしそのような理由があって声こそを掛けられたとしたら恵みが恵みでなくなってしまう。

 恵まれることに理由は何もなく、誰もが恵まれる。
 ただ、恵みはどこまでも神の側に主権がある。
 だから私たちも、「わたしについて来なさい」と仰るイエスに出会うのを忍耐をもって待ち続けるのである。

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荒野の試み

 「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:1-4)

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 悪魔とはどのような存在かを理解していないことを前置きしつつ。

 悪魔は3度イエスを誘惑するが、そのイエスは申命記のみことば(すなわち律法)によって誘惑を追い払う。
 イエスはこの状況でさえ律法を守り通した。
 「守り通した」というのは私たち罪深き人間からの感覚であって、罪をその肉に宿していないイエスは悪魔からの誘惑をそもそも誘惑とも感じていなかったのではないだろうか。

 しかし、あえてバステスマをお受けになったイエスは、この荒野での試練によって人間が日々受ける罪への誘惑を体験された。
 そして人間がその肉ゆえの罪深さに呻吟していること、そこから救われたいということを、イエスは荒野で深く理解する。
 その上で、いわゆる公生涯を開始される。

 神の律法を完全に守り通せるのは、その肉に罪を宿していない受肉した神の子イエスだけであり、一方私たちはその律法に照らしてあまりにも罪深い。
 もし、そのような私たちが荒野に出て悪魔の誘惑に遭ったらあっさりと乗ってしまうだろう。
 私たちアダムの子孫には肉に罪が宿っているからたやすく反応してしまうのである。
 そのような私たちでも神によしと認められて救われるためには、イエスの十字架と三日後の復活という救いのわざを信じることができるかどうかにかかってくる。

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受洗するイエス

 「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:13-17)

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 受肉した神の子イエス。
 人間と同じ肉、アダムの肉で覆われた神の子である。
 アダムの肉で覆われているが、人間のどうしようもなさとは異なり罪を犯さない。
(ここで罪とは、もちろん律法に照らしている。)
 律法を守り通せる唯一の人間として、イエスは世に来られた。

 ところでヨハネが水のバステスマを授けているのは、罪の赦しを与えるためである(ただ、それは、イエスが後に授けるバステスマの型でしかない)。
 そこに、罪のないイエスがこられて、なんとそのヨハネから水のバステスマをお受けになった。
 罪がないにもかかわらず、自ら罪のある身として受洗する。
 神の子イエスが、罪深き人間と同じ地点に立ってくださったのだ。
 こうしてイエスの十字架への道が始まったことを、天はお喜びになる。

 人間が肉を持つ故の苦しみ悲しみ辛さ怒りを、イエスは身をもってご存じだ。
 だから神の子イエスは、神と私たちとの間に立つ仲介者として、私たち人間の罪深さをよく理解してくださっているのである。

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[付記]
 本日の記事について。
  初版  2010年 2月20日
  二版  2010年 4月 3日
 今回小変更を施しました。

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