イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
隠された宝
「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)
---
私はカネを求めていたかのようで、実はそうではなかった。
人からの栄誉を求めていたかのようで、実はそうではなかった。
ほんとうに求めていたもの、それが実に、聖書の中にあった。
「 わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)
まさしくイエス御自身こそが、いのちのパン、わき出る泉(ヨハネ4:14)、また永遠のいのち(ヨハネ6:27)そのものであったとは!
今の私は、特に何かを失ったわけでもない。
明日も、今まで通り、ごく普通に売り買いするだろう。今まで通りに、怒り、泣き、笑うだろう。ストレスも、依然として大きいだろう。
人としての営みには、さほどの変化があるとは思えない。
けれどもなんといっても、イエス、この宝を手にした満足感の大きさといったらない。
---
[付記]
本日の記事は、2006年9月2日付の記事をそのまま引用したものです。
「いのちのパン」は無償ですが、それを見いだした喜びで、他の全てを犠牲にして入手する、そのようなものだと思います。
よろしければクリック下さい。
ブログランキングへ
---
私はカネを求めていたかのようで、実はそうではなかった。
人からの栄誉を求めていたかのようで、実はそうではなかった。
ほんとうに求めていたもの、それが実に、聖書の中にあった。
「 わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)
まさしくイエス御自身こそが、いのちのパン、わき出る泉(ヨハネ4:14)、また永遠のいのち(ヨハネ6:27)そのものであったとは!
今の私は、特に何かを失ったわけでもない。
明日も、今まで通り、ごく普通に売り買いするだろう。今まで通りに、怒り、泣き、笑うだろう。ストレスも、依然として大きいだろう。
人としての営みには、さほどの変化があるとは思えない。
けれどもなんといっても、イエス、この宝を手にした満足感の大きさといったらない。
---
[付記]
本日の記事は、2006年9月2日付の記事をそのまま引用したものです。
「いのちのパン」は無償ですが、それを見いだした喜びで、他の全てを犠牲にして入手する、そのようなものだと思います。
よろしければクリック下さい。
![にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ](http://philosophy.blogmura.com/christian/img/christian80_15.gif)
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
« イエスのくびき | イエスを見る » |
は「宇宙で一つであるキリストの花嫁なる教会」で
あって、主ご自身が天の栄光、自分の命など、すべて
を捨てて買い取って下さった、と受け取っています。
昔、「主を得るために、すべてを捨てなければならない」と牧師に教えられて、苦労していた私は、それを
聞いて、「あーそうだったのかー。」と救われた思い
でした。
> 隠された宝は「宇宙で一つであるキリストの花嫁なる教会」
私も、宝とはそのように形容されうるものだろうと思います。
強調点を置きたいのは、今までは隠されていてまったく知らなかったが、今はその宝を知る、ということです。
※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。