自分の十字架を負ってというのは文字どおり十字架を負うこと

 「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:38-39)

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 イエスはこの世に来て、どのような役割を果たしただろうか。
 一言でいうと、「肉において罪を処罰」するため(ローマ8:3)である。
 そのために、十字架に架かり、そしてよみがえった。
 そして、私たちが自分自身の罪を処罰して御父と和解するための道筋をつけたのである。
 これがイエスの役割であり十字架であった。

 イエスにある者、また、イエスに従おうとする者もまた、自分なりの十字架を気づくと負っている。
 それはイエスがつけたこの道筋を歩むことに他ならない。
 だから、イエスが「自分の十字架を負って」とここで言うのはたとえでも何でもない。文字通り、十字架を背負って自分のいのちを失うのである。
 そして、もとより死んでいたいのちの代わりに、いきいきとした躍動するいのちをいただく。
 もしも何事もなく広い路地を歩いたならば、もとより死んでいたいのちは死んだままなのである。
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人をほんとうに満たすものは神の国とその義

 「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

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 思うに、現代の多くの人のたましいは、何かに覆われてしまって自分でもわからなくなっているような気がしてならない。
 希代の芸術家である岡本太郎は、「世の中うまくやろうとすると、結局、人の思惑に従い、社会のベルトコンベアーの上に乗せられてしまう。一応世間体もよく、うまくいくかもしれないが、ほんとうに生きているのではない。流されたままで生きているにすぎない。」(「自分の中に毒を持て」,p.137」)と書いている。
 この、流されて生きているということが、たましいが見えなくなっていることに他ならない。
 人々は富に仕えて神を疎むことを選択し、口座の満たされることを望んでたましいの満たされることを放棄してしまった。
 ほんとうに人を満ち足らせるのがどちらかなのかは明らかで、このことはイエスが「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)と言っていることが正にそのとおりなのである。

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[一版]2020年12月 8日
[二版]2022年 4月29日(本日)

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イエスが憎まれたのだから私も憎まれるのは当たり前

 「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。
 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」(マタイ10:21-22)

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 イエスは公生涯中に様々なところで伝道をしたが、次第に群衆がいらだちはじめ、あるときには石を投げられまたあるときには崖から突き落とされかけた。
 その理由は単純で、この群衆がイエスにある者ではないからである。
 イエスにある者とそうでない者とは、これほどまでにわかり合えない。だから「子どもたちは両親に立ち逆ら」うのである。
 逆に言うと、十字架に死にイエスによって新しく生まれた人は、もはや他の人とはわかり合えない位に割り切る必要があり、じっさい人々に憎まれる。だが、私を憎むやつは、実は私に映し出されるイエスを憎んでいる。
 このイエスによる御父との和解による日々の歩みは、私が歩んでいるというよりは、内住の聖霊に動かされている日々であり、様々な人との間で忍耐することまた愛することも、私から出ていることではなく御父から出ることなのである。

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借り物の言葉、自分の言葉、聖霊の言葉

 「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。
 というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」(マタイ10:19-20)

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 ある人から聞いたことなのだが、その人のとても辛かったときに「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。」(1コリント10:13)という言葉が聖書にあると言われて、その人は猛烈に腹が立ったそうだ。
 なぜそんなにも腹が立ったのだろう。
 その人が聖書に何の関係も関心もなく、それどころか忌避していたからかもしれない。
 あるいは、こういうみことばがあるぞと大上段に振りかざすばかりで、その人への気遣いや思いやりをまるで感じられなかったからかもしれない。俗に言う上から目線というのだろうか。
 なにより、このみことばが借り物の言葉にすぎないのであれば響くものがないことは明らかだ。

 自分でいうのもなんだが、私は自分の言葉で伝えることができる。
 雑談などをしていた後、あー今のは聖書の話を自分はしていたなあと気づくことがたまにある。
 聖書の言葉を使うことは全くないし、話している最中は聖書をまるで意識していない。だが、確かに聖書の内容を話したことには違いがない。
 相手がどう受け止めたかは分からないが、少なくとも違和感は感じないと思う。
 聖書の話に限らず、自分の考えや気持ちを伝える上では、自分の言葉を持っているか、借り物の言葉にすぎないのかはかなり違ってくると思う。

 しかし、その自分の言葉なんかよりもずっと大切なものがある。
 それは内住の聖霊の言葉である。
 イエスが「話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです」と言っているところのものである。
 自分のまったく思いもよらないことを言うことが、ほんのときどきある。
 頭の計算なんか遙かに超えて、そのときぽんっ飛び出してくる。
 大抵は窮しているときで、言った自分自身が驚くし、相手も理屈を超えて納得してしまう、そういう類の言葉だ。

 聖書は、この聖霊が恵みによってその人の内に住んでくださることを約束している書物である。
 聖霊は私の一番の味方であり、私の最強の弁護士である。
 聖霊は私を先導してくれ、私の存在を唯一守ってくれる。
 自分に頼る者よりも一見弱いが実は強い。
 だがそれは、私が強いのではなく、和解した御父、創造主の強さなのである。

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[一版]2020年12月 6日
[二版]2022年 4月17日(本日)

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羊飼いのない羊にもっとも必要なのは羊飼い

 「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
 また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:35-36)

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 さまざまな町や村を巡ったイエスは、群衆のひとりひとりが弱り果てて倒れているように見えた。彼らはあたかも羊飼いのない羊のようだった。

 このころよりずっと後のことになるが、産業革命後のカール・マルクスは「人間は特定の土地から切り離されて、自分の労働力を商品として売るようになる」と書いたという(佐伯啓思 著、「西欧近代を問い直す」、p.73)。私はマルクスの考えに賛同する者ではないが、この記述の的確さに鳥肌が立った。

 人とのつながりから切り離されて、人としてでなく労働力としてしか扱われないのでは、弱り果ててしまうのも当然だ。イギリスに続いて日本でも孤独大臣ができた。もっともこれはポストがまたも増えたというだけのことであるが、人とのつながりがないならばツイッターでもと彼らが言うのはまるで違うと私は思う。

 では人に一番大切なものはなんだろうか。それは人とのつながりより、まず、羊飼いの存在である。言い換えると内住の聖霊であり、ゆるぎない自分の心棒である。これがあってはじめて人は人と本当に交わることができる。卑近な言葉を用いると、自分を取り戻すということになるだろうか。

 羊飼いのない羊とは、神と断絶したすべての人に当てはまることで、さまざまな町や村でまさにイエスが見たとおりである。
 弱り果てて倒れそうになったら、外の人々に目を向けるのではなく、内にいます神を探し求めるのである。そのためにイエスは町や村を回っている。

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あわれみの主

 「イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:10-13)

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 神はいけにえよりもあわれみを好む。
 御父はあわれみの主なのではないかと思う。それほどあわれんでくださる。
 なにしろこんな私をも救ってくださったのだ。
 あるいは、このあわれみをこそ神の愛というのかもしれない。
 パリサイ人のように自分が丈夫だと思っている人には、このあわれみがわからない。
 「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか」という問いは、たしかに世間的には通るかもしれない。
 しかし、この問いは取税人たちと食事を共にするのはよくないと言っているのではなく、取税人たちと食事を共にすることを理由にイエスを詰問しているのであるから、取税人たちにもイエスにもあわれみがない。イエスをいけにえにしようとしている。
 では、彼らパリサイ人が神のあわれみに預かるとしたら、どんなときであろう。
 それは彼らが自らの罪が分かったときだ。
 彼らは神の律法をもっぱら自身の正当化のために用いているが、この律法はすべての人が罪の下にあると断罪するものであることはイエスの山上の説教からも明らかである。そして、この律法が救いへの養育係となってくれるのである。
 神の子イエスは取税人や罪人と共に食事をする。罪深さを自覚している彼らには、あわれみの主が会いに来てくれたのだ。

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