とこしえから、とこしえまで

 「誠実を尽くしている私を強くささえ、
 いつまでも、あなたの御顔の前に立たせてください。
 ほむべきかな。イスラエルの神、主。
 とこしえから、とこしえまで。
                 アーメン。アーメン。」(詩41:12-13)

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 この世の変化は、最近とみに大きい。
 世はそもそも変化するものだ、だからこの変化にも合わせてゆくのだ、そう説く者がいる。
 その一方で、その大変化に対応できずに、適応障害と称される状態へと陥ってしまう人たちもいる。

 この、世の変わりようというのは、流れる川の上ずみ部分での話だ。
 川の流れはあまりに急激で、いろいろな物が次々に流されては飲まれてゆく。
 しかしそうであっても、川底はあっけないほど静かなものだ。
 表層の揺れ動きをよそに、基底は全く動じない。
 「ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで」。
 とこしえからとこしえまで変わらない神が、この地の基であられる。

  表層だけ見ているならば、誠実さを保つことなど馬鹿らしい。
 だが、とこしえからとこしえまで変わらない基底部であられる神、その存在は、きょうも明日も、誠実に生きようとする者のよるべである。
 なぜなら彼の誠実は、人に対して、また、業務に対してではなく、この神に対しての誠実なのだから。
 そのことが、結果的に人や業務に対する誠実へとつながる。

 上ずみばかり見てついて行こうとすると、飲み込まれないためには誠実さもなにもかもかなぐり捨てたあげく、結局はあがないきれずに流されてしまうのではないだろうか。
 「とこしえから、とこしえまで」という地点に根ざすことができれば、なにはさておき、その人は「いつまでも、あなたの御顔の前に立」つことができる。
 そうなると、彼はあたかも浮き草のようだ。

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