律法の解釈

 「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:21)

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 「殺してはならない」は、十戒にある戒め(出20:13)。

 私は人を殺したことはない。
 だが、人に腹を立てたことなど数知れない。
 それは、人を殺す大元の感情「人への憎しみ」の類だろう。
 イエスは、行為として表出した殺人ではなく、その行為を引き起こす感情(「腹を立てる」)を糾弾する。
 律法は、文言解釈されるものではなく、実質的な解釈が必要なのである。
 これが、あるべき律法の役割であり、今イエスが山上の説教でそれを回復なさっている。

 この、あるべき律法を遵守できる人など、現実にはいない。全くいない。
 なぜイエスがパリサイ人や律法学者を批判するのか、それはたとえば

 「彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。」(ヨハネ9:34)

という言動に垣間見られる人を憎む感情には盲目なくせに、表面上殺さないことをもって律法を守っていると自認できる無自覚さ、解釈の誤り、さらにそれを人に押しつけるところにあるのだろう。

 律法を本来的に守ることのできる人など、誰もいない。
 人を憎むことの全くない人など、どこを探してもいない。それは神だけだ。
 つまり、すべての人が律法に照らして罪の下にいる。
 このことに気付いてはじめて、救いへのスタートラインに立つ。
 それでイエスは、この山上の説教で、律法を教えるのである。

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[付記]
 本日の記事は、2008年8月7日付記事をリニューアルさせたものです。
(タイトルも変えました。)

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律法の機能

 「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」(マタイ5:18-20)

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 イエスは律法を廃止しに来られたのではない。
 この律法は「天地が滅びうせ」るまで、すたれることもない。
 それは、アダムの肉を持つ人間に罪を指摘して、その人を救いへと導くためである。
 律法がなければ、罪にも気付かず、救いへのとっかかりすら得ることが出来ない。

 律法とはそのようなものであるから、救いのためには守り行う必要がある。
 律法の行いによって生じる罪の意識(ローマ3:20)は、アダムの肉の罪深さに気付いたと言うことだ。
 すなわち、律法を行うと言うことは、自身のアダムの肉の罪深さに正面から向き合うと言うことと同じである。
 神の完全な秩序・律法をそのように行っていくと、あるところで破綻を来す。
 律法とは違って、人間は完全などではないからである。
 そのときに、救い主イエスがその人の扉を叩いてくださる。

 「律法学者やパリサイ人」は、自分では律法を守ることなく周囲には守れと押しつける、そのような偽善者であってもとより義などない。
 律法を守ろうとすること、守れないところまで行き着くこと、そして、現れたイエスを救い主と信じるところに義があるのである。
 イエスとの出会いは、すなわち信仰義認であり、罪赦されて(罪はあり続ける)、ここに救いがある。

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神の完全なる秩序

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)

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 最初の人アダムは、「善悪の知識の実」を食べてしまった(創3:6-7)。
 「善悪についての判断」を身につけた人間が、ほとんどの場合において悪の側にばかり走ったことは、旧約聖書をざっと斜め読みするだけで一目瞭然だろう。人間は、アダムの肉を身にまとってしまったのである。
 そんな人間のために、神はモーセを通して数々の律法を授けた。
 その大支柱とでもいうべきものが、十戒(出20:1-17)だ。

 この十戒に始まる律法群を守り行うことは、およそ不可能だ。
 更に、この「山上の説教」。

 「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:17-28)

 「姦淫してはならない」という律法は、実にここまで厳格適用されるもの、イエスはそう説いている。

 「 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39)

 聖書を小馬鹿にする類の人々は、この箇所をあげつらう。
 だが彼らが考えるとおり、確かに左の頬を向けることは、できないのだ。
 肉を持つ私たちには防御本能が働くので、左の頬を向けるなど、情けないほどできたものではない。

 であるから、神の完全なる秩序・律法それ自体を守り行うことというのは、上に見た山上の説教のいくつかを見てきただけでも、およそ実行不可能だと言うことが痛いほど身に染みてくる。
 パウロは書いている。

 「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)

 実に人は、罪深い存在にすぎない。
 罪深いということに人を気付かせる(追い込ませる)がための、完全な律法なのだ。イエスは、この「律法を成就」するために来られた。

 この完全な律法に照らされて、自身の罪があぶりだされる。
 イエスは、このあぶりだされた罪を神の御前に赦すための十字架に架かって下さった。
 アダムの肉を処罰するための十字架だ。
 そうすると、罪とは指弾するためのものというよりもむしろ、解放されるためのものとさえ言えるかも知れない。

 そういうわけで、律法と十字架とはペアなのである。

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[付記]
 本日の記事の履歴は以下の通りです。
 [一版]2006年 9月 8日
 [二版]2007年 6月30日
 [三版]2008年 2月21日
 [四版]本日
 その都度変更を加えています。

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義に飢え乾いている者の幸い

 「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)

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 イエスのなされた「山上の説教」の中の一節。

 罪( sin )というのは、窃盗罪とか、そういう犯罪(guilty)の意味では全くない。
 アダムの肉を持つ人間は罪(sin)の性質(肉)を有するがゆえに、神の怒りの下にいる。そのことは、人間が神の律法や、更に山上の説教を守り通すことができないことから明らかである。
 このことを罪の下にあるという。

 罪の下にあるからこそ、人は神の御前に正しいという「義」を求め続ける。具体的には、律法を守り通そうとする。
 上の引用聖句にある「義に飢え渇いている」とは、まさにこの段階を指す。そして、イエスはこの段階にある者を「幸いです。その人は満ち足りるからです」と祝福している。
 そのアダムの肉が恵みによって十字架と復活を信じたときに、「義」と認められ罪赦され、律法からも解放される(律法そのものがなくなるのではない。参/マタイ5:18)。
 それが神との和解である。

 神と和解するには、「義に飢え渇いている」という段階がどうしても必要で、その必要のため、イエスも「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」と祝福されるのである。

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[付記]
 本日の記事は、
  [一版]2007年12月 1日
  [二版]2008年 3月 4日
  [三版](本日)

 今回はタイトルも含めて大幅に手を加えました。

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貧しい裸の人

(1)
 「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙3:17-18)

(2)
 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)

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 復活のイエスは仰る。「わたしはあなたに忠告する」。

 何を忠告なさるのだろう。
 「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」ということだ。
 つまり、お祭り騒ぎしているが、実は貧しく裸の者だったりする。
 盲目なので、自分ではその姿は全くわからない。
 わからずに騒ぐ。
 やれ豊かだ、富裕だ、乏しいものは何もない。
 物もこころも。

 それで、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」とイエスは仰る。
 真の姿が見えてしまうと、実は貧しい心で裸の姿。
 だが、天の御国は、そのような自分の姿を直視した人のものだ。
 直視したとき、そこがスタートラインになるからである。

 イエスは「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」と仰っている。
 それは貧しい裸の姿が見えるようになる、そんな目薬だ。
 まず、その目薬をイエスから売ってもらおう。
 恥ずかしい裸を覆う白い衣も、イエスから売ってもらおう。
 天の御国のきらめく輝きも、イエスが売ってくださる。
 どれもタダだ。
 聖書から、イエスを通して恵みによっていくらでもくみ出すことができる。

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[付記]
 本日の記事は、2008年2月8日付の記事に筆を入れたものです。

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福音の伝道

 「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」 (マタイ4:23)

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 イエスは、福音の伝道を始める。

 「御国の福音」とは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)という知らせ。
 この世の終わりの日、ある人々は天の御国に、またある人々は燃えるゲヘナへと選り分けられることになる(たとえばマタイ24:4-36など)。そういう清算の日が近いので悔い改めなさい、というのが福音である。

 ところで、しばしば間違えられるのだが、「あらゆる病気、あらゆるわずらい」を癒す目的で祈ったり人を集めたり、更には癒しが福音であると伝えたりする。
 だが、それは違う。
 伝えたいのは悔い改めの勧めという福音なのであって、癒しは、その福音が確かなものであると信頼させるためのしるしなのである。癒しは、福音に説得力を持たせるための小道具、そういう位置付けだろうか。
 第一、恵みによって悔い改めさせられば、それゆえに健やかになるのである。

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悔い改め

 「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)

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 罪深い人間の肉を救うための、最後のしかし最大のチャンス、それがイエスである。
 そのように肉をまとった神であるイエスが来られたということがすなわち、「天の御国が近づいた」ことにほかならない。

 イエスは言う。「悔い改めなさい」。
 しかし、人間の肉は、それを耳に入れることまではできても、実際に悔い改めに至ることが出来ない。
 まず、そもそも受け入れない人が大半である。
 また、受け入れようとしても肉が邪魔をして、イエスの言うように悔い改めるに至らない。
 悔い改めとは、ヨブの悔い改め(ヨブ42:5-6)と同じであり、自分から悔い改めるのではなく、悔い改めさせられるものなのである。
 人は肉を突き抜けることは出来ない。しかし神にはお出来になるのである(マタイ19:26)。
 ただ、悔い改めさせられるためには、イエスが言うように悔い改めようとすることが必要なことは、言うまでもない。悔い改めようと、ただイエスとの出会いを待つのである。

 イエスは「悔い改めなさい」と、宣教を始めた。
 宣教の相手は、全ての人である。
 そもそも受け入れない人も、宣教のことばは聞いている。
 聞いた上で受け入れなかった。
 そのことが、近づいている終わりの日には問われるであろう。

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イエスの肉への誘惑

 「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
……
 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。」(マタイ4:1,8-11)

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 ヨハネからバステスマを受けて、人間と同じ肉を持っていることを、イエスは自ら明らかにした。
 その「人間イエス」の肉に、誘惑が次から次へと襲いかかる。

 私は「悪魔(サタン)」とは何かがよくわからないのだが、ともかくその存在が「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と誘惑する。
 実は私たち罪深き人間は、この種の誘惑に常に乗せられてしまう。
 私たちの肉は、神の国よりも、「この世のすべての国々とその栄華」の方に目が行ってしまう。すくなくとも「すばらしい値うちの真珠を一つ見つけ」るまでは(マタイ13:46)、肉がこのマモニズムから離れることはできないだろう。

 罪なき肉を持つイエスは、そんな私たちと違い、悪魔のさまざまな誘惑に乗せられることはない。
 この、罪のない肉、誘惑に載せられることのない肉を持つイエスが十字架に架かって身代わりになることが、私たちを罪から解放することになるのである。

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受洗するイエス

 「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:13-17)

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 イエスとは、受肉した神の子である。
 人間と同じ肉、アダムの肉で覆われた神の子である。
 アダムの肉で覆われているが、人間のどうしようもなさとは異なって、罪を犯さない肉なのである。
(ここで罪とは、もちろん律法に照らしている。)

 ところでヨハネが水のバステスマを授けているのは、罪の赦しを与えるためである(ただ、それは、イエスが後に授けるバステスマの型でしかない)。
 そこに、罪のないイエスがこられて、なんとそのヨハネから水のバステスマをお受けになった。
 罪がないにもかかわらず、自ら罪のある身として受洗する。
 神の子イエスが、罪深き人間と同じ地点に立ってくださったのだ。
 こうしてイエスの十字架への道が始まったことを、天はお喜びになる。

 そういうわけで、人間が肉を持つ故の苦しみ悲しみ辛さを、イエスは身をもってご存じであるので、神の子イエスは、私たち人間の罪深さをよく分かってくださっている。

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[付記]
 本日の記事は、2010年2月20日の記事に加筆修正を施したものです。

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