とどまる

 「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:4-7)

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 「とどまりなさい」。
 「とどまります」。

 このブログは、去06年の5月から始まっている。
 06年5月~同8月までは、ほとんど記事はない。多くを削除した。
(といっても、削除したのもごく少数だ。)
 最後に礼拝に出たのは、05年9月。
 以来06年8月までは、聖書を全くといっていいほど開いていない。
 そしてこのブログは、昨06年9月から、ほぼ毎日、ときには1日に2つの記事を書いて現在07年10月末に至っている。

 何を言いたいのかというと、私の中には、はっきりとした断絶があった、ということだ
 その断絶が大きかったにもかかわらず、そうとは知らずに細々とイエスにとどまり続けていたようだ。
 昨9月に突如始まる膨大な記事群は、だから確かに「実」かも知れない。
(ちなみに私は、ヨハネ書15章での「実」の意味がさっぱり分からずにいる。)

 「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります」。
 このとき、彼の思いはイエスの思いとなり、イエスの思いは彼に重なる。
 その彼が願い求めるものは、すでにイエスが与えてくださっている。
 彼の願いというのはイエスが願い求めるものだからだ。
 だから、「それがかなえられます」というのも自明のことだ。
 「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。」(マタイ17:20)も、同様。
(信仰があったら、そんなことはもとより願わない。)
 聖書は「ご利益」を与えることを予定してはいない。

 ただ、「ご利益」を遙かに超える事が、起こる。
 彼がイエスにとどまりイエスが彼にとどまるならば、かなえられ、山は移る。
 そうであれば祈り続けよう。

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律法の目標

 「では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。
 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。
 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。
  「見よ、わたしはシオンに、
  つまずきの石、妨げの岩を置く。
  これを信じる者は、失望することがない」
と書いてあるとおりです。
 兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。
 わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。
 なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。
 キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」(ローマ9:30-10:4新共同訳)

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 「信仰による義」とは、なんだろう。
 律法というものを行えば正しい(義)、この方がルールとしてよほど分かりがいい。
 ところが律法を守っている自分は正しい(義)のだ、その人がそう考えている(あるいは吹聴している)としたらどうだろう。
 それでは「神の義」ではなく、「自分の義」になってしまう。
 これが「つまずきの石」だ。
 そしてなにより、イエスが山上の説教で教えられたとおり、神の基準から見て律法通りに行うなどということは、到底できない。

 「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27-28)

 この基準で行けば、すべての人が姦淫を犯している。
 律法を行ってみて、守れたと思ったら、それは「正しい認識に基づくものではありません」。
 律法を行ってみても、到底守れない。
(どの人も意識無意識にかかわらず試みていることだ。)
 律法を守れない結果、罪責感、罪意識が生じる。
 というより、既にすべての人にそれらは生じている。

 この罪から救ってくださるのが「律法の目標」であるところのキリストである。
 そのことを信じることが、そのまま義だとされるのだろう。
 ただ、まずは罪の自覚なくして、どうしてキリストの救いを信じようとする気になれるだろうか。
 その罪の自覚のためには、律法や山上の説教が必要不可欠なのだ。
 その律法というベクトルの矢印は、キリストに向かっている。
 そこに到達して初めて、キリストへの信仰が生じる。

 律法は行い通せるものではなくそれ単独では救われないのだが、その律法を行おうとすることで罪の意識が生じてキリストへと向かわせる。

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あわれんでくださる神の主権

 「 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。
 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。
 こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。」(ローマ9:13-18)

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 「パロ」とは、エジプトの王・ファラオ。
 イスラエル民族を脱出させたいモーセによってエジプトに数々の災難が起こっても、イスラエル民族の脱出を許可しなかった、このことを「かたくな」(頑固)と言っている。

 このように、全ては自分が運行するのではなく、神のみこころによる。
 王がかたくなになるのも。
 愛されるかとか憎まれるかとか。
 「事は人間の願いや努力によるのではな」い。
 「あわれんでくださる神による」。
 だから人間は、どこまでも受け身の存在にすぎない。
 あわれみを祈り求めるだけの、受け身の存在だ。

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聖霊と火とのバプテスマ

 「しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
  『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。
 あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(マタイ3:7-11)

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 ここにいうヨハネはバステスマのヨハネで、ヨハネ福音書等を書いた人とは別人物。

 「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになる」というのは、その通りだろう。
 「石ころ」というのは、本来的にどうでもいいやつ。
 「聖霊と火とのバプテスマ」が、この石ころをもアブラハムの子孫とする。
 水のバステスマは、その型にすぎないことは、ヨハネ自身が言っている。「聖霊と火とのバプテスマ」の型だ。
 アブラハムの子孫と称する連中であっても、悔い改めるならば、名実共にそうであるように、見捨てられた石ころのような存在であっても、悔い改めるならばアブラハムの子孫すなわち神の子となる。
 ヨハネはそのことを示すためにこの世に来られた。

 その悔い改めへと導くのが、「聖霊と火とのバプテスマ」である。
 自分が「悔い改める」のではない。それでは「自分」が万能ということになってしまう。
 ことこのことに関して、人間はどこまでも受動的だ。
 神の御業だからだ。
 「待つ」のみである。
 ただ、「聖霊と火とのバプテスマ」とはどういうものか、即ち、イエスはどのような救いの道を切り開かれたかということは、どの福音書にもきちんと書かれている。
(なお、1コリント13:8参照。)

 特にイエスは御自身、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と仰っている。
 石ころのような存在でもイエスを通れば救われる、このことを福音というのではなかろうか。
 「聖霊と火とのバプテスマ」だけが、この道をその人に切り開く。

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偶像

 「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。
 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。
 子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」(1ヨハネ5:19-21)

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 この手紙の、最後の箇所。
 唐突に「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」と記されて、この書物が終わることに、長い間大きな違和感があった。

 イエス・神の御子がこの世に来られて、何が一番変わったのだろう。
 「真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったこと」だ。
 ただ、誰かれにも、この理解力を与えられたわけではない。
 長血の女の箇所(マルコ5:25-34)でも、イエスに押し寄せる群衆達には何もなく、ただ女だけが癒される。
 両者とも、イエスに押し寄せた点において変わるところがない。
 御子と信じる信仰があったかどうかが、決定的に異なる。
 この長血の女は、「真実な方を知る理解力」があったのである。

 この長血の女のような人々は、キリストの内にいる。
 今は見えないこの方をのみ、もっぱら礼拝するのである。
 だから、「偶像を警戒」しなくてはならない。
 偶像は、キリストからその人を引き離してしまうからだ。

 偶像というのは「像」に限らない。
 私は仏像を見ても、何とも思わない。鳥居もそうだ。
 例えばそういうものを偶像として警戒せよと指導する人に影響を大きく受けたとき、彼は「人」という偶像にあっけなく屈する。
 つまり、偶像というのは、人が勝手にイメージして作り出してしまう類のもので、イメージが投影される対象は何でもよい。だから、投影の対象が「像」である必要は全くない。

 いずれにせよ、偶像はキリストという本質からは大きく引きはがしてしまうもので、大切なことは、キリストの内にいるということだけだ。
 だから、偶像を警戒せよと書いたヨハネさんを、今はよく分かる。

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約束の子ども

 「しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」のだからです。
 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。」(ローマ9:6-8)

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 「イスラエル」というのは、いわば約束された民。
 だが、「イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではな」いという。
 約束は、どの人にも与えられているわけではないもののようだ。

 ところで私たちはみな、「肉の子ども」だ。
 だが、中には「約束の子ども」へと変じて「子孫とみなされる」人々が、いる。
 ほんじつも世界中で2,3人、このメタモルフォーゼに預かった人がいると思う。

 ところでイエスは、処女降誕によってこの世に来られた。
 これほど「肉の子ども」らしくない人がいるだろうか。
 このお方こそ、「約束の子ども」、その頭領だ。

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「召し」という益

 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ8:28-30)

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 「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」は、有名な箇所。
 ただ、「なぜなら、」と続く。

 「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです」。
 その人々を「召し」、「義と認め」、「栄光をお与えにな」る。
 こういうことが「益」であり、今はとてもそうとは思えなくとも「すべてのことを働かせて」そうなってゆく。
 「あらかじめ知っておられる人々」を、神がそのようにお導きになる。

 そういうわけで、「益」というのは " happy end" とは似て非なるものだ。

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試み

 「だから、こう祈りなさい。
  『天にいます私たちの父よ。
  御名があがめられますように。
  御国が来ますように。
  みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
  私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
  私たちの負いめをお赦しください。
  私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
  私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』」(マタイ6:9-13)

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 主の祈り。

 「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」。
 私は長い間、この箇所の「試み」について、悪いこと(バッドなこと)が起きないように、そう祈っているのだと思っていた。

 ところで主の祈りは、神にささげる祈りだ。
(もっとも祈りはすべて神のみにささげるものだ。)
 「御名があがめられますように。」
 「御国が来ますように。」
 「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」
 御名、御国、みこころ。

 そうすると、「試み」というのはこれら「御名、御国、みこころ」といったもの、すなわち神から離反してしまうような出来事、情動や誘惑の類を言うのではないだろうか。
 「悪からお救い下さい」というのは、バッドなことが起きないように、というのではなく、誘惑からお救い下さい、ということだろう。
 「悪」というのは神の価値観によって測られるのに対し、「バッド」は自分の都合だ。
 3億円の宝くじが当たったとしたら、それはハッピーかも知れないが、間違いなく「悪」であり、その人は試みに遭っている。

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生ける水の川

 「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。
 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)

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 「渇いている」、その自覚があるだろうか。
 「飢えている」、「心貧しい」等。
 その自覚があれば幸いだ。
 イエスのもとへ行こう。
 生ける水の川、この水は正に生きていて、その乾きを常に潤し続ける。

 そのためには、生ける水については「聖書が言っている」のだから、聖書を読み続けよう。
 すると聖書から、微かにしかしはっきりと聞こえる時が来るはずだ。

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いちにちいちにち

 「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
 そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:30-34)

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 食べる、飲む、着るために、すなわち生活してゆくためには、もっぱら働く。
 だが単に生活のためだけに働くのであれば、その労働には実がなく、むなしい。
 実にむなしい。

 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい」。
 神の国とその義を考慮して、働いてゆく。
 なんのことはない、まずは目の前のことを誠実にやってゆけばよい。
 いちにちいちにち、たんたんと。
 将来必要なものは全て、神がご存じだ。「あすのための心配は無用」な所以だ。

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