死んでいるからだ、生かす霊

 「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ8:10-11)

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 私たちのからだはどの人も、罪のゆえに死んでいる。
 神の律法を遵守できず、死んでいる。義人はいないのである。
 そうすると、「霊が、義のゆえに生きてい」るかどうかが焦点となる。
 キリストによってもたらされる、この霊は、自分の力ずくでぶんどることはできない。
 救い主が、恵みによって、この霊を下さるのである。
 そのとき、からだは死んだままでも、この霊が私たちを生かしてくださるようになる。

 そうなるためには、まず、からだの死んでいることをはっきりと自覚できることがスタートラインになる。
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自分の選択によって信仰するということはない

 「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
 肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8:5-8)

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 私たちは一体、肉に従うか御霊に従うかを、自ら選択したのであろうか。
 そうではない。私たちには、肉に従う以外、できないのである。
 神の律法に服従できない肉。神の怒りを買う肉。
 ところが、キリスト・イエスは、私たちのこの肉への従属から解放してくださるのである。
 肉は極刑で処罰され、そののちイエス同様復活して義と認められる。
 これもまた、自分で選択して行う類のものではない。

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いのちの御霊の原理

 「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。
 神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:1-4)

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 神の律法は素晴らしいものだ。
 ただ、この神の律法、完璧な律法を守ること、守り通すことが、人間にはどうしてもできない。
 それというのも、人間に備わるアダムの肉のためだ。
 アダムの肉は、神の定めた律法を完遂しようとしてもできない、罪深い存在だ。
 聖書にはこのことについて、「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました」と書かれている。

 無力なアダムの肉の代わりに、何を「神はしてくださ」ったのだろうか。
 「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです」。
 神の子イエスにアダムの肉を被せて、その上で神は御子イエスを世にお遣わしになった。
 「人間・イエス」。
 人間・イエスは、処罰されるがために、この世に来られた。
 神の子がまとったアダムの肉は、罪を犯していないにもかかわらず、最も罪深い人物として、極刑である十字架の上で徹底的に処罰された。
 神が下した処罰だ。
 では、何を処罰したのだろう?
 イエス、ではなく、アダムの肉、これを処罰された。
 人間のアダムの肉は、イエスが身代わりになることによって処理された。

 アダムの肉の処罰、これが「いのちの御霊の原理」によって腑に落ちたとき、その人のアダムの肉も処罰される。
 私たちは、素晴らしき律法をどれ一つとして守れなかったかどで、極刑に付されるのである。
 イエスと同じように処罰され、そしてイエス同様復活する。
 そのときに、「律法の要求が全うされる」、すなわち、律法に照らして罪( sin )はないものとみなされる。
 実際には罪はある。
 だが、ないとみなされる。
 それが私たちの「救い」である。
 アダムの肉は処罰され、罪と死の原理から解放され、今はいのちの御霊の原理のうちにある。
 「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」。
 処罰されたアダムの肉を持ち続けていても、罪に定められることはない。

 そういうわけで、このアダムの肉は、自分で処理しようとしても、けっしてできず、どうしても、「処罰され」る類のものなのである。
 例えば修行の類は、この「処罰」に関して全く無意味無力だ。

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[初版]2007年 9月12日
[二版]2007年11月11日
[三版]2008年 2月20日
[四版]2008年10月13日
[五版]2011年10月 8日
[六版]2014年 6月14日(本日)

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十字架に架かるということ

 「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」(ローマ8:1-3)

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 イエスの十字架とはなにかというと、「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰された」ということに尽きる。

 この十字架のイエス・キリストは、初穂であり、救いへの道を切り開いた存在なのである。
 ということは、キリストに希望を置く人もまた、このイエスに続いて十字架に架かることになる。そこを通って、「いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放」する。
 自分から架かりにいくのではない。
 イエスによって架けられるのであり、信仰は自力で獲得するものではなく、イエスによって力づくで信仰させられるのである。
 そうであれば、信仰というのはあるかないかのどちらかしかなく、たとえば30%の信仰というようなことはありえない。

 だから、祈るといえば、この信仰を祈り求めるのである。

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