敵のために心から祈るのは

 「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:43-45)

---

 イエスは次のようなたとえ話をしている。
 「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。…………。 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」(マタイ13:24-30)

 天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるが、それは「収穫まで、両方とも育つままにして」いるからのようだ。
 もしも、悪い人をもあわれむというので日を照らし慈雨を恵むということなら、なぜさばきの時、収穫の時期があるのだろう。

 ここで、善悪の判断基準は御父にのみあり、私たちに分かることではない。私が麦か毒麦かは措くとして、私の目の前の人が麦か毒麦かは全く分からないのである。
 粗暴そうだから毒麦なのか、私たちには分からない。
 時事ネタになってしまうが、パリオリンピック開会式での、あの醜悪極まりない最後の晩餐をやらかした制作者が毒麦なのか麦なのかも、やはり全く分からない。イエスはこの制作者のために祈れという。うわべでは祈れても、心の底から祈ることはやはり無理なのだ。ここでもイエスの厳格な律法解釈の前に頭を垂れる。

---

 旧体制を倒したフランス革命をあらわしたくて、あの最後の晩餐やマリーアントワネットをやったのだろうと推察しますが……。

 イエス様の平安がありますように!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

目をえぐりだせと言うイエス

 「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」(マタイ5:27-30)

---

 シロアムで目の見えない人(ヨハネ9章)を癒やしたイエスは、私たちには目をえぐりだせと言っている。見えなくなれと言っている。
 イエスの厳格な律法解釈は、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯した」というほどのもので、それで、この律法を守るためには目をえぐりだすほかないと言っている。それほどまでに律法を守り行うことは難しい。
 イエスはこののち、極刑の十字架に死んで3日目に復活するという大いなるわざを行う。
 そのイエスの律法解釈がこんなにも厳しいのは、それを行うことのできない私たちをこの十字架の死に追い込んで、そして新たに生まれるようにするためであり、言い替えると、イエスが切り拓いた救いの道に私たちを追い込むためである。
 だから、目をえぐり出せとイエスが言うのは、シロアムの目の見えない人に見せたあわれみと同じあわれみ、またはそれ以上のものなのである。

---

 イエス様の平安がありますように!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

イエスの律法解釈はたいへんに厳しい

 「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、
 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」(マタイ5:21-24)

---

 「人を殺してはならない」という十戒の中の戒めを形式上守ることは、多くの人にとって難しいものではない。簡単に守ることができる。
 だが、イエスの律法解釈にはとても厳しいものがある。
 「わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません」、つまり、イエスによれば、相手に対して腹を立てることだけでも人を殺すことになるのである。言い替えると、私たちは日々人を殺しているのだ。

 ここにイエスのたとえ話があるが、これも大変な難しさである。相手に「ばか」と抜かした人が、そもそも「兄弟に恨まれていることをそこで思い出」すだろうか。やられた方はいつまでも覚えているが、やった方は頭の片隅にも残っていないものだ。やった側は、すまし顔で捧げ物をして天の父に感謝の祈りを捧げることだろう。
 さらに、仮に仲直りしようとして仲直りできたとしても、それは表面上のものにすぎないことが多いと思う。日本人は、専ら場の平衡状態を保つために和解を演出することがよくあるが、心の底では「ばか」呼ばわりされたことを決して許してなどいない。

 簡単に守れそうな「人を殺してはならない」という律法も、イエスによればこれほどまでにハードルが高く、実行がおよそ不可能なものとなる。
 律法の遵守はこれほど難しいものであるが、イエスは守り行なさいと言う。
 それは、律法に基づき最高刑である十字架に死なせ、イエスの技に基づきよみがえらせ、そうして本当のいのちを得させるためである。
 大切なことはこのいのちであり、生きる死人の中でほんとうに生きるということである。イエスが来られたのは、もっぱらこのためである。

---

 イエス様の平安がありますように!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

イエスは律法を成就するために来られた

 「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」(マタイ5:16-20)

---

 イエスは、律法を廃棄するどころか、成就するためにこそ来たのだと言っている。
 また、言うことは言うが行なわないパリサイ人のようにではなく、実際に律法を行う必要があることも、イエスはここで言っている。
 上の「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」とは律法であり、この場合は自分ひとりの行ないだけでは完結せず、周囲の人によい影響を与えることまで課されており、行なうことのきわめて困難な律法といえる。

 そのような律法群を、果たしてすべて守り通せるのだろうか。
 守れるか、といったら、ただの一つも守り通すことができない。
 私たちの肉が、神の律法に逆らうのである。
 しかし律法は成就されるものなのである。それも、罪深い私たちひとりひとりの内に成就される。
 それは、復活のイエスとの出会いによってであり、いくら罪深くともその罪は赦され、どれだけ不義な者であっても義と認められる。
 そのためには、まずこの律法を守り行うのである。律法は義への飢え乾きを起こさせ、イエスの義へと導くからある。イエスの義とは、すなわち十字架と復活である。

---

[一版]2015年12月 6日
[四版]2024年 7月20日

 イエス様の平安がありますように!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

塩気をなくした塩は塩気をつけてもらえる

 「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5:13)

---

 塩気をなくした塩は、どうなるのであろう。
 神の御国の役には立っていないようになる。
 では、どうすれば、あるいは、どうであれば、神の御国の役に立つことができるのだろうか。
 それは自分一人でできることではなく、このことのためにイエスが受肉して公生涯を開始したのである。塩気はこのイエスがつけてくださるのだ。
 塩気をなくした私たちに会いに来て、ご自身と同じように私たちを死なせそしてよみがえらせる。
 罪が赦され義と認められ、御父との和解に至る。
 こうして、私たちはイエスを介した御父への信仰を与えられ、塩気をつけてもらって地の塩たるを回復する。
 神の御国の役に立つとは、このような信仰者であることだけで足りるのである。

 イエスは、自分が塩気を失ってしまったと嘆く人々を歓迎する。
 自分は地の塩だと思っているパリサイ人に対しては、イエスは容赦がなかった。

---

[一版]2021年 1月 2日
[三版]2024年 7月15日

 イエス様の平安がありますように!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

義への飢え乾き

 「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)

---

 ここでいう「義」とは、文脈上、神の義の意。
 誤解を恐れず言い換えれば、神に認められるということ。

 さらに誤解を恐れずにいうと、神がお造りになった私たちは、その神から認められていない。
 アダムの違反のためだ。
 アダムの子孫でありアダムの肉を持つ私たちは、神の聖なる律法を遵守することができない。それも全くできない。そのことは、山上の説教の中でイエスがこれから明らかにしてゆく。
 律法に照らして、アダムの子孫である私たちは罪深い存在であり、神の義には到達できない。
 義を求めてどれだけ熱心に行っても神の水準にははるかに届かず、ここに至って自身の罪深さ、義への飢え乾きはピークに達する。

 しかし、その到達できない神の義、これを求めてやまない人こそ幸いだと、ここでイエスは言っている。
 なぜなら、「その人は満ち足りる」のだ。神から認めていただけるのである。
 そして、そのルートを開通させるべくイエスは世に来て、イエスのわざを完了させた。
 すなわち、十字架と復活である。

 このイエスを信じさせられたとき、私たちは義と認められ、まさに満ち足りる。
 律法を遵守できないことには変わりないが、義とみなされて満ち足りるのである。

---

[一版]2013年10月27日
[三版]2022年 7月14日

 イエス様の平安がありますように!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

おのれの心に地獄を見出す者は幸いである

 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)

---

 ユング心理学者の河合隼雄さんは、「おのれの心に地獄を見出し得ぬ人は、自ら善人であることを確信し、悪人たちを罰するための地獄をこの世につくることになる」と書いている(「影の現象学」,p.169)。
 この言い方を借用するなら、イエスの上の聖句は、おのれの心に地獄を見出す者は幸いであるという趣旨と言っても差し支えがないと思う。
 「悪人たちを罰するための地獄をこの世につく」っているのは、福音書の時代ではパリサイ人、律法学者たちであり、彼らは自分たちは律法を守り教える善人だと思いこんでいる。だが、こういう人たちが自分の内面の地獄に目が向くことはまれで、さらに言えば、その内面の地獄から外側に目をそらすために他人様を罰しているところがあるはずで、何が善人だという気がしてくる。イエスがこの山上の説教の中で、聴衆に向けてたとえば「信仰の薄い人たち」(6:30)、「あなたがたは悪い者」(7:11)と呼びかけているが、それはどうしてなのだろうか。
 そうすると、おのれの心の中の地獄を見つめてはのたうち苦しむ人こそ幸いなのであるが、その理由は先に挙げた河合さんとは異なっていて、こういう人こそが神を見出し救われるからである。復活のイエスはこういう人のもとを訪れて戸を叩く。

---

 イエス様の平安がありますように!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ペテロはなぜイエスに声を掛けられたのか ペテロはなぜすぐ従ったのか

 「イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
 彼らはすぐに網を捨てて従った。
 そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。
 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。」(マタイ4:18-22)

---

 イエスが歩くガリラヤ湖のほとりには、多くの漁船が並び持ち主たちが手入れをしていた。
 その中で、イエスはペテロ、アンデレとヤコブ、ヨハネに声を掛け、彼らは仕事も何もなげうってイエスに従う。
 ここで、イエスとこの4人には、計算とか打算とか因果とか、そういう合理的なものは見られない。
 イエスがこの2組に声を掛けたことに理由はなく、大勢の人の中、たまたまイエスの目に入ったからだ。これが恵みである。
 そして声を掛けられた4人がすぐさまイエスに従ったのは、「すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(マタイ13:46)とある通りである。
 イエスが戸をたたいて私たちのもとを訪れるとき、私たちはすべてを捨ててイエスに従う。
 信仰とは自ら選ぶものというよりも無理矢理選ばされる類いのものであり、上の聖書箇所にはこのことがよくあらわれている。

---

[一版]2021年12月26日
[二版]2024年 7月 6日

 イエス様の平安がありますように!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )