『罪のリスト』

 「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。
 前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(ガラテヤ5:16-21)

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 私が受洗したとき、おせっかいなおじいさんが「不品行、汚れ、好色、……」の箇所を「罪のリスト」と言うからこれを守りなさい、と私に教えてくれた。
 世間一般でもそのように言われているのかを、私は知らない。
 ただ、思うのだが、話の順序が逆ではないか。
 「不品行、汚れ、好色、……」というのは肉の性質の諸相様々であって、肉の罪深さをあぶりだす単語たちだ。
 そのように罪が罪としてあぶりだされることによって、自分の罪深さをいやでも自覚し、救いの求めへと結びつく。
 まさに律法は養育係なのだ。
 だから、自分はこの罪のリストのどれ一つ破っていないという人がいるとしたら、その人は神か、あるいは、神から完全に見放されているかのどちらかだろう。パリサイ人がまさに後者だった。
 それから、この罪のリストにせよ律法にせよ、これらのものは、昨日は守れなかったが今日は守れた、というようなチェックシートの類とも違う。
 昨日不品行をしたとしたら、それはその人の肉が罪深いことの証左で、不品行な肉を毎日抱え続けているということなのだ。昨日も今日も明日も関係なく、本質的に不品行な肉の持ち主なのであり、むしろ、そのことに気付いて悔いて欲しいので、こういったものが存在する。

 だから、「神の国を相続することはありません」というのも、その人をぎりぎりまで追いつめ、さらにダメ押しをするためのものである。神の国を相続して欲しいのだ。

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[一版]2008年 6月 1日
[二版]2015年 8月30日(本日)

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イエス・キリストに対する信仰

 「とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。
 しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。
 信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。
 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」(ガラテヤ3:21-26)

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 律法は、「すべての人を罪の下に閉じ込め」、すべての人に自身が罪深いと悟らせる。
 この罪深さはアダムの肉に由来し、性質として備わってしまっているものなので、律法を守り行なおうとして救われることはないし、それ以前にこの律法を守り通せるものではない。

 このアダムの肉の罪から解放するのが、「イエス・キリストに対する信仰」である。
 むしろ、律法で追い込んで罪を自覚させ、十字架がその人をその罪から解放する、というところだろうか。
 律法なくして十字架はなく、十字架なくして律法に意味はない。
 つまり、「イエス・キリストに対する信仰」とは、端的に、イエスの十字架と復活への信仰なのだ。
 この信仰は、アダムの肉が赦されて義とされたというものであるから、もはやこのアダムの肉を責め立てていた律法は不必要になる。「私たちはもはや養育係の下にはい」ないのである。

 そうすると、私たちは「イエス・キリストに対する信仰」をどのようにして獲得できるのだろうか。
 それは、こちらの意志によるものではない。
 恵みによって与えられるもの、信じさせられるものである。
 復活のイエスが訪れてくださって、信じさせられる。
 そこが、律法によって自ら義を立てようとする営みとは全く異なるところである。

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)

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[一版]2010年 3月 6日
[二版]2015年 8月23日(本日)

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割礼

 「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」
 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。
 ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」(ガラテヤ2:19-3:2)

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 律法、特に割礼によって、人は神と契約関係に入る。
 ところが、その割礼についてパウロに言わせると、それを受けるとキリストとは無関係になる(5:2)。
 旧約時代、人々はみな割礼を受けた。
 だが、割礼を受けた人の中で誰か救われただろうか(2:16)。
 なかでも救われなかった典型が、伝道者の書(コヘレトの書)を書かざるを得なかったソロモン王だ。
 そして、預言によって示されて、誰もがキリスト(メシア)を待ち望むようになった。

 罪深い私たちの肉と同じ肉をまとった御子イエスが世に来られ、その肉を処断するために十字架に架かられた。
 その処断、罪のあがないが認められて、イエスは復活する。
 この復活のイエスをキリストと信じるとき、この人は、律法を守れないという極刑によって、イエス同様、十字架に死ぬ。
 「神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました」というのは、だからもっともなことだ。
(「つけられました」は、現在完了形。)
 恵みによって、自身の肉がイエス同様十字架につけられた私たちは、肉を律する律法に死んだのである。

 そうすると、十字架につけられ律法に死んだ私たちにとっては、かつて神との契約として行っていた割礼に対しても死んでいる。
 そもそも、罪とは、神の律法によって規定されるが、その律法を守れない私たちのその罪が、イエスの十字架と復活によって赦されたのであるから、割礼についてももちろん免責されているのである。

 踏み込んで書けば、新約時代の割礼とは、「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示され」るということなのだ。
 それが、恵みによる神との契約である。
 ガラテヤ人が復活のイエスに出会っているにもかかわらず、律法を遵守しようとする。
 それで、「ああ愚かなガラテヤ人」となってしまう。本当に復活のイエスと出会っていれば、迷いようがない。
 イエスとの出会いによって、自分を罪に定める律法から自由になったことが分かるはずだからである。

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[一版]2008年 1月16日
[二版]2009年 8月 8日
[三版]2010年 2月21日
[四版]2015年 8月16日(本日)

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『形』について

 「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。」(ローマ14:1-2)

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 ロマ書14章で書かれている食べ物云々のことは、時代背景が分からないのでなんともいいようがない。当時は大問題だったのだろう。

 ここで「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。」とあるが、信仰とはあるかないかのどちらかで、信仰が弱いという状態はない。
 いいかえると、レベルの高低はなく、イエスによって十字架の死と復活に預かったかそうでないか、その2つしかない。

 「弱い人は野菜よりほかには食べません」とあるが、この「弱い人」は形をなぞっているにすぎない。
 ほかにも、主の祈り(マタイ6:9-13)をそのまま暗唱するというのも、個人的には形だけのものと思っている。文脈からいって(同6:5-8)、人に見せびらかすことなく簡潔手短に祈りを捧げれば必要十分という趣旨ではないだろうか。

 では、そのような形だけの人を形だけだとさばいていいのかというと、それは逆で、かえってさらに受け入れる必要がある。
 なぜかというと、主イエスの恵みは、どの人にも、この形だけの人にも降り注ぎうるので、つまづきを与えるべきではないのである。
 この、救いを求めている「弱い人」が信仰に預かるように祈るのが信仰というもので、一体、なぜこの人をさばかなくてはならないのだろう。
 救われるべき人が一人でも多く救われることは、それこそ御心というものだ。

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『いのち』の触媒

 「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:13-14)

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 ロマ書の「おこごと」より。
 ちなみに、「おこごと」を馬鹿にしているわけではない。
 聖書のことばは、字面とは全く異なる意味で働くことがあるのだから。
 だから、聖書の言葉は、むしろ霊的なものなのである。

 「昼間らしい、正しい生き方」とは、キリストから与えられた「いのち」の歩み。
 なので、この言葉を読んだだけでは、この「正しい生き方」をやってみようなどということは到底できない。
 神が働いて「いのち」が与えられたならば、気付くとそういう生活ができている、そういう類のものだろう。
 ここでいう「正しい」は、神にとっての正しさであり、この世にとっての正しさではない。

 ところで、上の14節は、煩悶きわまったアウグスティヌスが、この言葉に触れて回心を果たした、そういう言葉である。
 アウグスティヌスにとっては、ロマ13:14が「いのち」の触媒だった。
 触媒は、その人その人によって全く異なり、予想のしようがない。
 聖書のこんな「おこごと」の箇所からでも、アウグスティヌスは煩悶から解放されてよみがえってしまうのだ。聖書の言葉は、霊的なのだ。

 アウグスティヌスの煩悶というのは、十字架の上で古い自分に死にゆく苦しみである。
 そして、みことばという触媒によって新しくよみがえって「いのち」のうちを歩む。
 死なせるのもキリストならば、新しく生かすのもキリストである。
 このときに、今まで読んでいた聖書が、全く異なるきらめきを放って迫ってくる。

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[一版]2008年10月26日
[二版]2015年 8月 2日(本日)

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