子どものように

 「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、
 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。
 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」(マタイ18:1-4)

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 そこにいた子どもに材を取って天の御国をたとえるイエス。

 天の御国に入るのにどうしても必要なことは、悔い改めることだ。
 肉の罪を律法によって指摘されて自覚し、罪を悔いる。
 ところがこの罪を悔い改めることが自力ではどうしてもできない。
 罪の肉がどこまでもつきまとうからで、外からの力がどうしても必要になる。
 それがイエスの道であり、極刑としての十字架である。
 私たちの肉はイエスの十字架とともにはりつけになって、処分され、そしてイエス同様復活する。

 そのように悔い改まって肉が処理されると、当たり前のようだが肉そのものが弱くなる。
 子どもは自分を低くしようと思ってそうしているのではない。そもそもが無力なのだ。
 それと同様、この肉は子どものように無力になる。できていたことまでできなくなる。
 そのように、生まれ変わって無力になることによってのみ、天の御国に入れるのだとイエスはいう。

 子どものようになれ、というより、悔い改めたときにはそうなってゆく。

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自分の十字架

 「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:24-26)

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 「自分の十字架」とは何か。
 随分前の私は、「課せられた役割」というような意味のことを書いたと思う。

 「自分の十字架」、これは文字通り、それを背負ってゴルゴダの丘に登り、それにはりつけにされて死ぬ、そういう意味ではなかろうか。
 これは自死するという意味では全くない。
 また、殺されたり、また病死するという意味とも、全く異なる。
 「わたしのためにいのちを失う者」になるべくイエスの道をなぞるために与えられた、正に死するがための十字架だ。
 ちなみに、殉教とかいう意味でも、全くない。

 「わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです」。
 自分の十字架は、「いのち」を見いだすためのものなのだった。
 それはイエスが死んで復活したことと全く同じことだ。

 そのイエスは「ついて来なさい」と仰る。
 このイエスは誰をも拒まず、約束の「いのち」を与えてくださる。
 ただそのためには、イエスのように一度死ななくてはならない。
 この死には神が働かれるのであり、自分の意志や他人の意志によるのではない。
 そしてイエスがそうであったように、復活して「いのち」にあずかる。

 「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」とあるように、生きているようで実は「いのち」のない人というのがたくさんいる。たとえばソロモンがそうだ。
 だから、「自分の十字架」の重みを感じる人は、幸いだと思う。

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[付記]
 一版:2007年 7月23日
 二版:2008年 2月26日
 三版:2012年 5月 5日(本日)

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主を求める熱心

 「すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
  しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。
 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。」(マタイ15:22-28)

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 異邦人が、イエスのわざにあずかる。

 イエスは当初、この異邦人の女を無視していた。
 「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と。
 だが、この異邦人の女は、あの手この手でイエスを説き伏せ、ついにイエスをして「ああ、あなたの信仰はりっぱです。」といわしめる。
 では、イエスを振り向かせるためには、口八丁手八丁である必要があるのであるのだろうか。
 そうだとすれば、口べたな人は、一体どうすればいいのだろう。

 そもそもイエスは、彼女が口八丁手八丁だから信仰がりっぱだとほめたのだろうか。
 というより、彼女の粘り腰がイエスをして信仰がりっぱと言わしめたのだろう。
 いいかえると、救われたいという熱心さそれ自体がイエスを振り向かせた。
 異邦人の女は、自分がイエスからあわれみを受ける目算は立っていなかったろう。
 その異邦人がイエスを振り向かせたのは彼女の熱心さであり、求める者にとって救いは人種その他にはよらないのである。

 十字架に架かり復活されたキリスト・イエスのあわれみに預かるために必要不可欠なものは、この種の熱心さ、キリストこそ私を救ってくれるという信仰だ。
 それなくしては、世の様々なものに惑わされてしまって、戸口に立って戸を叩くキリスト(黙3:20)に気付くこともないかも知れない。

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[付記]
  第一版 2010年 7月15日
  第二版 2012年 5月 4日(本日)
 大幅に書き換えました。

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卑小化された律法

 「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。
 神は『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言われたのです。
 それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、
 その物をもって父や母を尊んではならない。』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。」(マタイ15:3-6)

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 イエスに抗議するパリサイ人に対するイエスの反論。

 律法を遵守することはきわめて難しい、または不可能だ。
 そこでパリサイ人達は、勝手な例外規定を設けて肉でも遵守できる程度にまで律法を卑小化してしまった。
 だが、その卑小化されたものを守ったからといって、彼らは救われただろうか。
 自分たちで定めた規則を守れたというのは、単なる自己満足にすぎないのではないだろうか。

 律法を真の意味で、特に山上の説教でイエスが説いたような意味で遵守することは、人間には不可能だ。
 なぜなら私たち人間が持つ肉が、律法の遵守を妨げるからである。
 そのとき、その律法が私たちの肉を罪に定める。
 私たちが罪人であるという認識、悔い改めは、自分勝手に卑小化した律法解釈からは出てこない。守れること自体が目的なのだから。

 それでイエスは、このことでパリサイ人に反論している。

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