イエスが与える満足はこの世のものでは得られない

 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4-5)

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 このイエスは、「いのち」という光を宿している。
 そしてイエスは、多くの人を救うため、その「いのち」を恵みによって分け与える。
 その「いのち」に預かった人は、信仰に至る。
 人が根源的にもっとも大切なもの、これを人は失ってしまっていたのだが、イエスが回復させてくださるのである。

 いま、人々は、カネ、モノその他物質的・物理的なものばかりをもっぱら追い求めている。まさにマモニズムそのものだ。
 確かにないよりあるに越したことはないが、いったいカネやモノで満足できるのだろうか、心満たされるだろうか。果てに見栄を張ったり他人を貶めるというのは、満足感というにはほど遠い。
 このマモニズムは、人間にとって必要なものを多く得る代わりに、人間にとってどうしても必要不可欠なものを見失わせてしまう。マタイはどうであっただろうか、レビはどうであっただろうか。
 物質的・物理的なものが与えるものと、精神的な満足感とは、別種のものなのである。
 イエスが与えるものはもっぱら精神的な満足であり、それが「いのち」である。

 今のこのマモニズムという闇の中にも、イエスの「いのち」の光は世に輝いている。
 だから、こころを、魂を自由にするこのイエスの救いには、マモニズムにより虚無に陥った人をも預かることができるのである。マタイもレビもそうであった。

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[一版]2014年 4月28日
[二版]2016年12月11日
[三版]2018年 9月22日
[四版]2020年 6月13日
[五版]2022年 9月25日

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やみの中の私たちを照らすいのちの光

 「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:3-5)

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 「造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」とは、イエスに依らずに存在するものは、やみのものであるということである。
 実に、私たちは、やみの中にいるのである。このやみの中で救いを求めてあえいでいる。
 しかし、人の光であるところのいのちが、やみに射し込んでいる。
 この光はやみの中にあって燦然と輝いており、やみの中にいた私にもこの光が照らされた。
 どの人にもこの光は照らされているのだが、照らされるのを嫌う者も少なくない。
 人の光を喜ぶ者は、イエスによる救いに招待されたのである。

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ことばは神とともにあった

 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)

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 ことばにはそれ自体に意味があり、ことばの連なりがまた意味を生む。
 このことばによって、人から人へと意味が伝わる。
 聖書のことばも、もっぱら文字面の意味で理解される。

 ところが、「ことばは神」としかいいようのない出会いが、聖書にはある。
 文字面の意味をはるかに超えた聖書のことばが飛び込んできて、読む者に「いのち」を与える、そういうことがあるのである。
 アウグスティヌスにとってのそれは、「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:13-14)であった。
 これは、大きな苦悶のさなかにいた彼がこの聖書箇所に接して、「そうだ、主イエスを着ればいいのだ!」と気付いた、ということではない。
 そうではなく、「初めに、ことばがあった」というところの創造主が、この聖書箇所のことばを通して彼に出会ってくださったのである。この出会いによって、苦しみ抜いたアウグスティヌスは回心をとげる。

 文字面の意味を考えることは大切だ。
 しかし、それよりも、聖書のことばが文字面の意味など突き破って人に「いのち」を与えるものであること、そのことの方がはるかに大切なことだ。

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[一版]2010年 5月19日
[二版]2010年10月11日
[三版]2012年 8月25日
[四版]2014年 4月27日
[五版]2016年12月 4日
[六版]2018年 9月19日
[七版]2020年 6月12日
[八版]2021年 1月 1日
[九版]2022年 9月23日

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イエスの復活

 「しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:16-20)

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 イエスの復活。
 11人の弟子たちの前に、復活の御姿を現す。

 かつての私は、この復活の仕方が不思議でならなかった。
 エルサレム中の人々の前に復活の御姿を現せば、皆がイエスを信じるのではないか、そう思っていた。
 しかし実際には、11人の弟子たち、それから数人の女性たちにのみ、復活のイエスは御姿を現す。誰かれ問わず会われるのではなく、特定の限られた人々にのみ会われた。
 今の私は、このことに違和感を感じていない。すべては恵みなのだ。

 さて、聖書において、十字架の死と復活とは必ずペアである。
 死んでこそはじめて生きる。
 ここでいう十字架の死とは、極刑の罪を処理することである。
 そして、復活のイエスが会ってくださりその罪は赦され、イエス同様復活する。
 このイエスの狭き道は、見出そうとして誰もが見いだせるものではなく、それどころか見いだすというよりもいつの間に吸い込まれてしまう類のもので、自分の力でどうこうなるものではない。しかし求めれば与えられるものである。
 
 御子イエスは、事を成し遂げた。
 救いの道がここに開かれたのである。
 このイエスに信頼する者は報われる。

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[一版]2014年 2月16日
[二版]2016年11月27日
[三版]2018年 8月20日
[四版]2022年 9月19日

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祈りについて

 「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。」(マタイ27:45-46)

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 祈りについて。

 公生涯においてイエスは実にしばしば祈っていた。
 何を、または何について祈っていたのだろうか。
 そもそも祈りとは何だろうか。
 この日本においては、祈りというと初詣や厄除けの類のものが祈りであると思われている。
 つまり、家内安全、商売繁盛、無病息災のお願いの類であり、神(神々)はこういった御利益をかなえてくれる便利な存在なのであるから、神よりも人の方が上に位置してしまっている。

 聖書の神は、そのような御利益のための神とは全く違う。
 神が私をお造りになったのであるから、神が絶対的な上位にある。
 ところが、アダムの違反によって、この神と人間とが断絶してしまった。
 イエス・キリストは、その断絶を回復するために来られ、そしてその御業をここに完成させようとしている。
 その神の子イエスが、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と声を上げる。
 御子が御父と断絶されてしまったことにひどく苦しんでいる。
 ほんとうにひとりぼっちの境遇におかれてしまった。
 祈りが通じないのである。

 このことを裏返すと、祈りとは御父と共にあるという営みである。
 私が祈るとき、私がどんな境遇であろうと私はひとりぼっちではなく、自分をお造り下さった存在の庇護のもとにある。
 私を決して否定せずに私を愛してくださる。
 イエスが十字架上で御父との断絶に苦しみつつ赦しの道を開いてくれたので、それでこのような祈りの関係が回復したのである。

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[追記]
 御利益宗教についてですが、日本の仏教学者である鈴木大拙も「結果の生ずることを期して祈る祈り、願をかけたらその願が叶う、どうぞ叶えてくれというのは、ほんとうの祈りではない。こういうのは宗教的の祈りではなくて、ただ世間の商売、取り引きというてよい。」(「はじめての大拙」、大熊玄 篇)と記していることからすると、この御利益宗教とはどの神に願うのかはまるで問われていないような気がします。

[一版]2014年 2月 2日
[二版]2016年11月20日
[三版]2018年 8月18日
[四版]2022年 9月18日

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イエスの受難、私の受難

 「それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。
 そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。
 それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」
 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。
 こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。」(マタイ27:27-31)

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 ピラトの決定によって十字架に付けられることになったイエスは、十字架に付ける側のローマ兵にからかわれる。
 肉の上ではユダヤ人のイエスにとって、異邦人のローマ人に馬鹿にされるということは耐えがたい侮辱と屈辱だったかもしれない。当時の一般的なユダヤ人であれば間違いなくそうだ。
 しかし、世の多くの人を救う十字架の道は、とてつもなく大きな苦しみの最果てに十字架に死ぬのであり、このローマ兵のからかいもその大きな苦しみの過程のものである。
 イエスはこのような苦難のなかで、十字架に死によみがえって救いの狭き道を拓いてくれた。
 私たちも、気づくとこの狭い道に入り込んでいて、今までになかったほどの大きな苦しみを味わうのである。もちろんその先にはよみがえりと救いがある。
 言い換えると、巷間言われる受難というのは、他人事ではなく自分のことになるはずなのである。

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『ホサナ!』と叫んだ群衆が今度は『十字架に付けろ』と叫ぶとは

 「しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。
しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。
 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
 すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」(マタイ27:20-25)

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 ここに出てくる群衆は、少し前までは「ホサナ!」と言っていた人たちだ。
 しかし彼らは、この世の王である祭司長たちに「バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう」扇動され、実にあっさりと従ってしまう。あるいは、祭司長達の指示に従わないことは難しいことかもしれない。金員の授受もあったかもしれない。
 この流されるだけの人々は、「十字架につけろ」と叫び続ける。
 ピラトが「あの人がどんな悪い事をしたというのか」と問うたとき、ますます激しく「十字架につけろ」と叫ぶというのだから、もはややりとりとしては成り立っていない。

 この流される人々について、イエスは「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」(マタイ13:22)と言っている。
 「ホサナ!」と叫んだかと思うと今度は逆に「十字架に付けろ!」と叫ぶような、保身のためにその場しのぎで動く人々は、そもそも救いなど求めていない。
 しかし、流されるということは自分がないことであるから、その自分を問われる局面で彼は大きく動揺するだろう。自分をすっかり見失っていることを発見するのだ。
 この、見失った自分を取り戻すということが、すなわち救われるということになる。

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[一版]2018年 8月12日
[二版]2022年 9月10日

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世の原理と御父の原理

 「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、
 「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。
 それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。
 祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから。」と言った。
 彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。
 それで、その畑は、今でも血の畑と呼ばれている。」(マタイ27:3-8)

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 イスカリオテ・ユダが何故イエスを売ったのかは、わからない。
 しかし理由はともかく、ユダは裏切り、そしてそのあと、彼は激しい後悔の念に駆られて、祭司長達の元を訪れる。

 しかし祭司長は、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と突き放す。
 使用済みの駒には用はないのだ。
 そして彼らは、「血の代価だから」と、その銀貨で旅人たちの墓地を作る。
 旅人はユダについてのこういういきさつを知らないから、抵抗がないであろう。
 こうやって、旅人達への業績作りまでやってのける。

 この祭司長達のやり方こそ、世の原理のものである。正に世の支配者だ。
 これに対して、救世主イエスは異なる原理にいる。
 世界を創り人を創った御父の原理とでも言おうか。
 御父の原理の元では人はいきいきと生きることができるのだが、祭司長のように世の原理にどっぷり浸かってしまうと、人は死んでしまう。死んではいないのだが、死んでいるのだ。
 このように死んでいる人を御父の原理に生かすため、イエスは今、十字架の道の途上にいる。
 そうとは知らない様々な人が、捕まえられたイエスを軸に動いている。

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[一版]2018年 8月11日
[二版]2022年 9月 6日

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イエスの契約

 「また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」(マタイ26:27-28)

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 イエスはここで「契約の血」と言っている。どのような内容の契約なのであろうか。
 それは、イエスが多くの人の罪を赦すために血を流すということである。単に罪を赦すということではない。
 イエスは十字架で血を流し、そして復活した。救いの道を開通させるためであり、これがイエスの契約である。
 私たちは、このイエスの血で染められた狭き道を気づくと通っていて、大変な苦しみの後に復活し、そこで罪赦されるのである。

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 健やかな一日をお祈りします!

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裏切り

 「みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
 すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。
 イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。
 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(マタイ26:21-24)

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 この社会に身を置いていると、さまざまな辛いことが襲ってくる。
 わけても、裏切りほど辛いことはないのではないか。
 予め分かっていたであろうイエスですら、「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」とまで言っている。
 であれば、裏切りにあったときの私たちの辛さはどれほどのものであろうか。

 しかし、まさに「義のために迫害されている者は幸い」なのだ(マタイ5:10)。
 私たちは救われたい。不義な存在ではあっても、義と認められたい。
 このような私たちに裏切りをはじめ数々の試練が襲ってくるというのは、イエスがそうであったのと同じで、当然といえば当然だ。
 もしもこのような試練がないとしたら、それはむしろ御父から見放されているのではないか。

 イエスに話を戻すと、十字架の道を拓く歩みが、この弟子の裏切りによってまさに今始まったのである。

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[一版]2018年 7月30日
[二版]2022年 9月 4日

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