裏切りについて

 「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ。」と言われた。」(マタイ26:24-25)

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 なぜユダがイエスを裏切ろうと思ったのかは、私には全く分からない。
 ともかく、ユダはイエスを売り渡した。
 かねてよりイエスは、自身がパリサイ人たちに引き渡されて十字架に架けられることを弟子たちに言っていたが、まさかその弟子ユダの裏切りによってそういうことになるとは。

 この裏切りは、人間の肉をもつイエスに大きな動揺を与えた(ヨハネ伝では、そのことがより強調されている)。
 人が人を裏切る。
 これは世においてしばしば起こることであり、その都度大きな動揺が人に引き起こされる。そのことで刑事事件が起こることも少なくない。
 自分の経験からしても、裏切られるというのは、もっともつらい。
 神の子イエスですらこの裏切りに遭い、しかも私たち同様に身もだえする。

 イエスも同じ目に遭ったのだだから私たちもそのイエスを思って耐え忍ぼう、と言うつもりはない。
 また、このようなときこそ信仰が試されている、などと言うつもりもない。信仰とは、あるかないかのどちらかしかない。あったりなくなったりというのは、信仰ではない。
 むしろ、神の子イエスですら身もだえするほどのこの辛い感情、その辛さを認め、イエスのように「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」と吐き出す方が自然なような気がする。
 そして、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」(ローマ12:19)と仰る御父にお委ねしよう。イエスもそうだった。

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[一版]2014年 1月 2日
[二版]2016年10月30日(本日)

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香油女

 「さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」
 するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。
 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(マタイ26:6-13)

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 イエスに香油を注いだ女性の名は、まったく不明だ。
 それなのに、福音の伝わるところ、この女性のしたことも伝えられ、それが彼女にとっての記念になるとイエスは言う。

 ところでイエスは、すべての人々の無理解の中にいた。
 だが「香油女」、彼女は唯一、イエスを理解していた。
 イエスがキリストであり、多くの人々を救う十字架の道にいよいよ就くのだということを。
 それで、「埋葬の用意をしてくれた」。
 香りで死臭を消すための、まさに埋葬用の香油だ。
 バステスマのヨハネですら、イエスを疑った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」(マタイ11:2-3)と。
 それだからこそ、「香油女」は、福音の伝えられるところどこでも、イエスの唯一の理解者として語り継がれるのである。

 一方弟子たちは、「この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」とやっている。
 これは義憤というやつで、単に香油の高価さに目が惹かれているだけだ。
 取税人といい遊女といいこの弟子たちといい、こういう人々が分からないながらも救いを求めてイエスに付き従っていた。
 イエスは彼らをけっして拒まない。
 分かるときが来るからだ。
 早いか遅いか、それは分からない。
 イエスは言う。「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」(マタイ20:16)。

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[一版]2007年 7月31日
[二版]2008年 8月21日
[三版]2010年 9月 5日
[四版]2014年 1月 1日
[五版]2016年10月23日(本日)

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信仰と行ないについて

 「そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
……
 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」(マタイ25:34-40より抜粋)

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 善をなそうと思って行うときには、既に偽善に陥っている。
 天に行きたいからというので善をなそうというのであれば、むしろそれは悪だろう。
 天に行きたいから病人を見舞うとき、その人の気持ちは病人に向くのか、天に向くのか。
 どちらでもない。自分自身に向いている。
 自分についてのそろばん勘定をしているだけだ。

 一方で、「正しい人たち」は、善をなしたという自覚がない。
 それはいつもの営みにすぎないのである。
 食べさせ飲ませ、ということは、そうしようと思ってやっていて、相手に気持ちが向いている。

 両者は何が違うのだろう。
 信仰の有無の違いである。
 信仰というのは、イエス・キリストから与えられるもので、あるか、ないかのどちらかしかない。サウロ(パウロ)がわかりやすい。
 なので、信仰の成長という概念は、ない。信仰が強い(弱い)、という概念も、ない。
 イエスとの出会いという恵み、これが信仰のすべてである。
 そろばん勘定ばかりしている人が、どうしてイエスと出会えるだろうか。
 だが、そのような者であっても、律法によって罪に気づきもんどり打つさなかイエスと出会ったならば救われて、もはや、そろばんずくで行動することは全くなくなる。
 律法が養育係なのは、確かにそうなのだ。

 行動をすることが信仰なのではない。
 信仰によって行動が変わるのである。

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持たざる者が持てる者に

 「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」(マタイ25:29)

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 上の「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、…」には、述語がない。
 何を持つ(持たない)ことを言っているのだろうか。

 いえることは、ほとんどの人が持たざる者の側だということだ。
 持っている者は、単に持っている以上に、好循環が起こっている。
 述語をカネと仮定してみれば、このことは分かりがいい。
 多額のカネを運用すれば、リターンもでかい。その好循環である。
 述語を今度は「いのち」とすれば、「いのち」ある者は、その喜びゆえにますます喜びが大きくなってゆく。好循環が起こるのである。
 それに対して、そうでない者は、どんどんすり減ってゆく。
 あたかもデフレ経済のようだ。
 ほとんどの人が、この持たざる者の側である。
 述語が何であれ、好循環というのはあまり起こることではない。
 
 では、デフレ経済のような、このじり貧の状態から脱する方法はあるのだろうか。
 そのためには、私たちはまず、自分の魂がじり貧であると自覚する必要がある。
 何によって自覚できるのだろうか。神の律法によってである。
 自分の肉がいかに罪深いものであるか、この気づきがスタートラインになる。
 求める者には恵みによってイエスが出会ってくださり、罪赦されて「いのち」が与えられる。
 このときに、持たざる者が持てる者に変わるのである。一瞬にして、くるりと変わる。

 生まれ変わってからは、カネへの執着はなくなる。「いのち」とカネとは関係がないのだ。
 ソロモン王はこの点において、偉大なる反面教師である。
 物質的なものばかり追いかけているうちに、唯一の大切なものを見失ってしまったのだ。
 ここに、究極の悪循環を見ることができる。

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待ち続ける忍耐

 「ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
  しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」(マタイ25:6-13)

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 約束通り、ついに花婿が来た!
 賢い娘は花嫁を迎える準備が出来ていた。しかし、愚かな娘は出来ていなかった。それも全くできていなかった。
 彼女ら愚かな娘は祝宴に入れてもらえず、「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」と宣告されてしまう。

 復活のキリスト・イエスは、「いのち」というプレゼントを携えて私たちのもとにおいで下さる。 ただ、いつ来られるのかが分からない。
 愚かな娘たちは、買い出しになど行ってしまった。
 何が大切なことなのかが分からなかったのだ。
 待ち続けることが大切なのか、ともしびという形式が欠けることが大切なのか。
 ともしびが消えていたって、イエスが来たときに花嫁がそこにいることこそ、唯一大切なことではないか。
 そのときを逃してしまうと、厳かな宣告を受けてしまうのである。
 だからこそ、罪の赦しに飢え乾いている私たちは、恵みを待ち続けること、待ち続ける忍耐が求められる。

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[一版]2010年 9月 4日
[二版]2013年12月29日
[三版]2016年10月 9日(本日)

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備え

 「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。
 主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。
 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。
 まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。」(マタイ24:42-47)

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 復活のイエスは、あるとき突然、その人のところにやってくる。
 そのときその人に備えが出来ているならば、復活のイエスがその人と出会って「いのち」を下さる。
 しかし、飲んだり食べたりしていて備えがないと、門の外側から戸を叩くイエスにその人は全く気付かないだろう。
 だから、備えていることは、アダムの肉から解放される上で非常に大切なことだ。

 しかしもし、この備えというのが絶えず善行をし続けよということだとすると、山上の説教でイエスが語ったことと相反してしまう。
 人間のもつこのアダムの肉は罪深く、イエスの言う基準の善行を守ることが到底できない。
 アダムの肉から解放されたくてアダムの肉によって善行をする、というのはそもそも無理があるのではないか。
 第一、何に照らしての善なのか。自分に照らしてなのか。

 だから備えとは、律法に照らして自分が罪人であることに気付いていること、そしてそこからの救いを求めてキリスト・イエスを待ち続けていること、いつでも戸を開ける準備の出来ていることではないだろうか。

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[一版]2010年 8月22日
[二版]2016年10月 2日(本日)

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