どうして学問が

 「しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。
 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」
 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。
 だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。
 自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。
 モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」(ヨハネ7:14-19)

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 宮でのイエスの教えを聴いたパリサイ人達は、「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか」と驚く。
 彼らパリサイ人は、「学問」によって信じる、信仰するようだ。
 このことをせんじつめると、信じるに値するものかどうか研究して突き詰めたいということで、これは本来的な信仰からは実に程遠く、むしろ信仰とは逆の方向だ。ちなみに、きわめて今日的なことがらでもある。

 イエスが宮で教えられたことというのは、律法そのものであった。
 神が自らについて教えられると、それは、あの完璧な律法の世界が広がる。
(山上の説教がいい例だと思う。)
 というより、イエスが律法そのものなのである。
 肉をまとった律法というところだろうか。
 そのイエスは、「どうして学問があるのか」などという驚き方をする、律法を学んだパリサイ人に対して仰る。
 「あなたがたはだれも、律法を守っていません」。
 律法を学んで知っているはずのパリサイ人は、律法をちっとも守ることができない。
 そうとも気付かない彼らは、「どうして学問があるのか」と他人事のように驚いたりしている。
 ここに彼らの救いようのなさがある。
 「自分の目に丸太がある」(マタイ7:4)ことに気付きもしない。

 「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」(ヨハネ9:39)とあるが、学問するというのは、わざわざ自ら見えなくしてしまうことだ。
 なぜならそれは所詮、人間のわざにすぎないのだから。
 神のわざは「見えない者は見えるようにな」る、そういう方向に働く。
 そのようにして見えるようになった者には、上に挙げたような学問は不要というか用済みだ。
 信じるということは、この神の恵みをただ望むことだ。

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