世に勝つということ

 「イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。
 見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。
 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:31-33)

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 ひとことに孤独と言っても、さまざまな意味合いが含まれている。
 本来的な意味での孤独の他に、社会的な孤立であるとか、さみしさというのも含まれているように思える。まだあるかもしれないが、それらの区分けは、今の自分にはまだできていない。
 イエスがここで言っているのは、孤独というよりも孤立のことである。
 弟子たちにも捨てられ、世にむち打たれあざけられながら十字架に架かる、そういう孤立である。
 しかしイエスは、「わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」という。
 御父がイエスと共におられて、イエスが御父のわざを行なっているということが、このイエスを根拠づけている。

 一方、弟子たちはイエスを信じたというが、そのイエスは「あなたがたは今、信じているのですか」と、つれない。信仰とは頭の理解などではないからだ。
 信仰とは、自分で信じる類のものではなく、恵みによって信じさせられるものである。
 この信仰に至るとき、私たちにはイエスが共にいて支えてくださる。罪赦されて、御父との和解が叶ったからだ。
 そうは言っても私たちは世にいる人間であるから、もはや世の者ではなくなった私たちは孤立する。
 しかし世と争っているのではない。世で見失っていた自分を、与えられた信仰によって回復できたのだ。
 このときに、イエスの「わたしはすでに世に勝ったのです」という言葉を実感する。

 聖書に接するということは、多くのものを失うことを覚悟してでも自分を取り戻すことと言えるように思う。

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[一版]2017年 6月18日
[二版]2019年 3月31日(本日)

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自然でいられる

 「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。
 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
 御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。」(ヨハネ16:12-15)

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 真理の御霊、内住の聖霊について。
 
 「その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」とは、一言で言うと、そのとき、私たちは瞬時にして変えられるということである。
 では、どのように変えられるのだろうか。コミュ力が上がったり鉄の心臓になったりするのだろうか。
 たいへん残念なことにそうではない(これらは世で必要なものだ)。
 私たちは、自分自身に自然になるのである。

 教会に行って間もなかった頃、職場からの帰りの車中、席に座る自分の前におばあさんが立った。心底疲れ切っていたのだが、教会に行く者たれと全身全霊で席を譲ったことがある。本当は譲りたくなどなかったのだから、あれは偽善だった。
 しかし今は、この人に座ってもらおうと思ってごく自然に譲っている。座ってくれる人、断る人、さまざまだ。
 席を譲るなど些細なことが何なのだと言われそうだが、ここで席を譲っているのは私ではなく内住の聖霊なのである。
 私はひどい人間であっても、内住の聖霊がこの私を例えばこのように支えてくれるのである。

 そうなると、私たちはもはや一人ではない。
 そしてこの御霊は、私を御父にとって好ましい方向、すなわち私自身にとって自然で気持ちのよい方向へと導いてくれる。
 これが救いの果実として瞬時に与えられるものであり、イエスが上の聖書箇所で約束するものである。

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混同

 「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
……
 しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」(ヨハネ16:7,16)

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 しばしば、イエスはあわれみ深いお方で、と語られたり讃美されたりする。
 だが、肉のイエスのそのような性質ばかり取り上げるのは、個人的にはピントがずれているように思える。
 イエスのありがたみは、なんといっても「わたしが去って行くこと」、つまり十字架に架かること、それから、「またしばらくするとわたしを見」るという復活にある。
 罪なき肉をもつ神の子イエスが、全人類の肉の処罰のためにいけにえの十字架に架かり、そのことがよしとされて復活する。
 このイエスの十字架と復活に預かると、私たちはイエス同様死んで、そしてよみがえって義と見なされる。御父との和解が成立し、助け主が内住してくださる。
 だから、世に来たイエスがこの世から去ることは、私たちにとって大きな益なのである。

 もちろんイエスはあわれみ深かったろうと思う。
 もし、このあわれみに重心を置くとすれば、いたぶられ苦しんで死んでいくイエスを嘆くばかりになってしまうだろう。
 しかし、死にゆくイエスと、世を去ったイエスとでは、どちらの方が私たちにとって有り難いだろうか。
 死にゆくイエスはプロセスであり、世を去ったイエスは救いの道を拓いたという結果である。
 私たちは一体、歴史上の人物をあわれみたいのだろうか、それとも、救いを得たいのだろうか。

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[一版]2011年 4月23日
[二版]2014年 9月27日
[三版]2017年 6月11日
[四版]2019年 3月22日(本日:聖書箇所変更)

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父に求めるもの

 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16))

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 御父に何であれ祈り求めて、その祈りが叶ったと言うことが、私にはない。
 今の私には、将来こうでありたいと願っていることがあるが、かえって道を塞がれてばかりだ。
 だが、御父が必ず願いを叶えてくださるのは、その通りだ。
 ただ、願うものそのものを叶えてくださるというような、ご利益宗教的なものとは全く異なる。

 ここに、著名な詩「苦難にある者たちの告白 -ニューヨークの病院の壁に書かれていた作者不明の詩」の一部を引用する。

    大事を成そうとして
    力を与えてほしいと神に求めたのに
    慎み深く、従順であるようにと
    弱さを授かった

    (中略)

    求めたものは一つとして
    与えられなかったが
    願いはすべて聞きとどけられた

    神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
    心の中の言い表せない祈りは
    すべてかなえられた

    私はあらゆる人の中で
    最も豊かに祝福されたのだ

 この作者の願いは、ただの一度も聞き届けられなかった。
 それどころか病弱で、この詩を書いたときも入院していた。
 しかし、作者は今、幸福感に満ちている。まさに「心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた」という実感に満ちている。
 御父はこのようにして、頭での願いではなく、全人的な求めに応えてくださる。
 その人が、よりその人らしくなるように応えてくださる。

 私が上の詩を知ったのは、初めて教会に行った数十年前のことだ。
 いい詩だとは思うが、ある種のやせ我慢のようにも感じたというのが正直なところだった。
 しかし今はそうとは思わない。なぜなら、私こそこの詩の「作者」だからだ。
 そして、この詩の「作者」は世界中に少なからずいるはずだ。

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イエスの友

 「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。
 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15:13-15)

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 十字架に架かる直前のイエス。
 イエスはいのちを敢えて捨てる。
 なぜか。
 友にもいのちを捨てさせるためである。いのちを長らえさせるためではない。
 この難しいことについて、イエスは自ら手本を示す。これこそ神の愛なのだ。
 このイエスはいのちを捨てて、そしてよみがえる。
 友にもこの道を歩ませて、永遠のいのちの喜びに満たされて欲しいとイエスは願っている。

 しもべは、イエスが何故敢えていのちを捨てるのかが分からず、想像も付かない。
 だが、友はよく分かっている。あるいは、あとで合点がいく。
 友としもべとでは、だから全く違う。
 しかし、イエスのしもべが恵みによってイエスの友になるということが、ままあるのである。

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[一版]2017年 6月 1日
[二版]2019年 3月19日(本日)

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互いに愛し合う

 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネ15:9-12)

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 「父の戒め」とは律法のこと。
 イエスは肉を持つ神であり、その肉は人とは異なり、律法を守り通すことができる罪のない肉である。
 上にイエスが言うように、罪がないということは、それ自体喜びになる。
 そのイエスは、私たちに戒めを与える。「あなたがたも互いに愛し合うこと」。

 「愛すること」ではなく、「互いに愛し合う」である。
 「愛する」とは何かというのもあるが、「互いに」とあるので、相手あってのことなのである。
 一番弟子を自認するペテロがそのことを笠に着ていたとして、そのことにマタイが腹を立てていたら、もう、そこでペテロとマタイとの間には「互いに」は成立しなくなる。
 イエスの戒めはとても難しい。

 私事になるが、数年前、ある少人数の宴会で、ひどい目に遭った。詳細は省略する。
 ちなみに、ああいうのをマウンティングというとは、随分後で知ったことだ。
 そのとき私は、彼らに何一つ言い返したり怒鳴ったりはしなかった。
 うわっつらだけのかわいそうな人たちだなあと、むしろ彼らを憐れんだ。
 それで、彼らの衒学的で突っ込みどころ満載の話を、あえて突っ込むことなく終わりまで聞き続けることにした。
 この日のことは今でも傷になっている。彼らはまるで私を愛そうともしなかった。
 だが、上の聖書箇所を今朝読んでこの日のことを思い出し、自分はこの人たちを精一杯大切にし、愛したんだなあという気になってきた。「互いに」ではないが、自分は相手を愛した。
 そしてそうしたのは、私などではなく、内住の聖霊なのだろう。私は怒りっぽいので、取っ組み合いになってもおかしくなかった。

 律法を遵守することは、イエスによる救いのためである。
 なぜなら、律法がなくては何が罪なのか、なぜ自分が神の御前に罪深いのかが分からないからである。自分の罪深さをわかることこそ、救いのスタートラインである。
 互いに愛せないというのは、相手がどうあれ私の罪なのである。そうであっても御父の赦しと和解の中にいるので、喜びがある。
 しかし、上に書いた彼らは、神も律法も知ろうとはしない。
 そういう人々にはこのイエスの喜びはなく、代わりに、人を傷つけたりマウンティングしたり、そういう刺激で自分をごまかしている。
 どちらがいいのかは、自分が判断することではない。

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聖書のことば

 「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ15:8)

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 正確を期したいときには英語の聖書を付き合わせてみる(ギリシャ語はわからないので)。
 そうするとこのヨハネ15:8は、

" By this My Father is glorified, that you bear much fruit; so you will be My disciples. " (NKJ)

"My Father's glory is shown by your bearing much fruit; and in this way you become my disciples " (TEV)

となっていて、大意としては「あなたがたの多くの実を(御父に?イエスに?)持ってゆくことで御父は栄光を受ける;そしてあなたがたは私の弟子になる」くらいだろうか。
 上の新改訳とは、ニュアンスがかなり異なっている。
 新共同訳や口語訳は、この新改訳と大差がないので、そうするとこれは日本語訳と英語訳とではニュアンスが異なるということになる。

 だが、この聖書のことばというのは、あるときするっと奥深く入ってくる。
 新改訳だとか新共同訳だとか、日本語だとか英語だとか、そういった文字の上っ面、意味の上っ面をはるかに越えて、あるときするっと奥深く入ってくる。
 このように聖書のことばが奥深く入ると、イエスについて、聖書について、全てのことが瞬時に分かる(参/ヨハネ14:26)。
 そして、このイエスを信じることになる。正確には、イエスに信じさせられる。

 聖書のことばとはこういうもので、翻訳やニュアンスの違いなど、このときたやすく乗り越える。
 だから、一見分かりづらい上の聖句が、どの翻訳であれ、あるときするっと入って救われる人が、たくさんいるはずだ。

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[一版]2009年 5月10日
[二版]2011年 4月10日
[三版]2014年 9月24日
[四版]2017年 5月31日
[五版]2019年 3月16日(本日)

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実を結ぶということ

 「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません
 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:1-5)

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 実を結ぶということについて。

 剪定をするのは御父であるから、実を結ぶかどうか、さらに、そもそも実とは何かということの判断の主体は、すべて御父の側にある。人にはない。
 そうすると、たとえば善行の類は、人にはほめられても御父にとってはどうなのであろうか。
 イエスもこう言っている。「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(マタイ6:3-4)。

 では、実を結ぶとはいったい何のことであろうか。
 それは、私たちが死んでよみがえって御父と和解することである。
 イエスはこのことの型を、これから示す。
 このイエスにとどまることが、救いの唯一の手段であることを明らかにするためである。

 御父は、この世でのご自身の手下が欲しいのではない。
 一人でも多く、この世からお救いになりたいのである。

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[一版]2017年 5月30日
[二版]2019年 3月14日(本日)

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『また、あなたがたのところに来る』と言うイエス

 「『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。
 そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。」(ヨハネ14:28-29)

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 受肉したイエスは、じきに去ってゆく。
 罪の性質を持つ肉を極刑の十字架に葬り、この処分を御父に認めていただくのだ。
 今、イエスはあらかじめ弟子たちに、「わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。」と伝えている。
 私たちは、自らの肉を処分したこのイエスが来てくれて罪赦されることを、日々祈っている。

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[一版]2017年 5月28日
[二版]2019年 3月12日(本日)

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聖霊について

 「このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。
 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:25-27)

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 イエスの平安は何に由来するのだろうか。御父と共にあることにあるのかも知れない。
 その御父がイエスを通して私たちにお遣わしになる聖霊は、私たちと共にある。
 私たちを内側からいつも支えてくれている。
 だから私たちは、もはや一人ではなく、いわば二人で一人になる。
 そうすると、他人への過度の依存心も、そうせざるを得ない理由がなくなるから消えてしまう。もう、びくびくすることもない。
 だから、二人で一人ということこそ、イエスが私たちに与える平安なのだろう。これは世には見られないものだ。世にあるのは、依存心をいっとき満たす類の何かにとどまる。

 それから、「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせ」る。
 今までの私たちは、人の教えを全て正しいと思い疑うこともなかったが、この聖霊はそれとは異なる生きた物の見方に変えてくれる。それも、瞬時に変えてくれる。
 「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:33)とは、正にその通りだ。
 これらのことはすべて、イエスの狭き十字架の道を通り抜けた先のことである。

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