語る聖書

 「しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。
 また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。
 また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。
 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:36-40)

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 上の聖書箇所の中で、イエスと話している「彼ら」というのは、イエスが安息日に病人を癒したことに憤っている人たち。

 その彼らにイエスは仰る。「みことばをあなたがたのうちにとどめてもいません」。
 彼らは、律法の遵守を懸命にやっている人たちだ。
 たとえば、こんな具合に。
 「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました(詩119:11)」。
 神のみことばを頭の中に蓄えて続けるにもかかわらず、それらは全くその人の内には「とどま」らない。
 「聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べてい」ても、その聖書のみことば群自体からは、ことばの意味以上のものは見出せないだろう。
 しかしあるとき、聖書の方からイエスを証言する、そういうときが来る。

 そういうわけで、暗唱聖句ということには意義を全く感じないが、聖書は毎日少しずつでも読み続けるといいと思う。
 新約聖書、特に福音書だけでもいい。
 そのことが、「いのちを得るためにわたしのもとに来」るということだ。
 そして、その聖書がイエスを語り出したならば、御父がイエスをその人に遣わしたのだということも含めて、一切を了解することだろう。

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みなし義人

 「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」(ローマ5:6-11)

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 「神の怒り」という語句が出てくる。
 旧約の預言書にあるような行動への怒りというより、アダムの肉そのものへの怒りだろう。
 その意味では、新約時代であっても神はお怒りだと思う。
 ただ、その「怒りの神」と和解することができる。
 その和解の道を差し伸べてくださったことこそ、神の愛だ。
 怒りの神でもあり、愛の神でもある。

 その神の愛とは、「キリストが私たちのために死んでくださった」ということだ。
 ここにいう「私たち」とは、「まだ罪人であった」という存在を指している。
 罪人だったのだ。
 そして今も、アダムの肉を身にまとった罪深い存在であることには変わりはない。
 ただ、「キリストの血」、十字架のキリストが理屈を越えて内に入ったとき、「罪人であった」とみなされる。
(このことを「いのち」と書き続けている。)
 いまだ罪深く義から程遠いにもかかわらず、かつては罪人だったがいまは義人だとみなされる。
 いわば「みなし義人」。
 このことは、キリストの復活が担保だ。

 神は「みなし義人」と和解している。
 彼はその和解に心底安んじていて、もはや彼の上には神の怒りはない。
 今はこの神を喜んですらいる。じっさい「神は愛」だったのだ。

 それだから、この死んで復活したキリストと出会うことが、唯一で全てだ。

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神の子の声

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。
 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。」(ヨハネ5:24-26)

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 本ブログにおいてもっとも大きく取り扱っていることは、「いのち」ということ。
 その「いのち」について、イエスは仰る。
 「死からいのちに移っている」。

 人の状態には、二種類しかないということだ。
 「死」から「いのち」へと、遷移しうる。
 「神の子の声を聞く時」に、遷移する。その逆は、ない。
 イエスは、この状態遷移をもたらすがために、おいで下さった。
 もっぱら、「神の子の声」を聞かせるために。

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祈ることのみ

 「キリスト教徒は絶え間なく祈るべきなり。
 しかり、彼の生命は祈祷なり。
 彼なお不完全なれば祈るべきなり。
 彼なお信足らざれば祈るべきなり。
 彼よく祈りあたわざれば祈るべきなり。
 恵まるるも祈るべし。
 のろわるるも祈るべし。
 天の高きに上げらるるも、陰府(よみ)の低きに下げらるるも、われは祈らん。
 力なきわれ、わが能(あた)うことは祈ることのみ。」
(内村鑑三「求安録」の「最終問題」の項より)

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 ひさしぶりに内村鑑三の「求安録」より。

 祈る対象は、神でありイエスである。
 上の引用は、どんなときにも神に祈るべきだ、ということに丸めることができる。
 神だけは、ただひとりのあなたの本当の理解者であり、そして、この神には何でも言うことができる。
 感謝。求め。愚痴等。
 この絶対者であるお方は、全て聞き届けてくださる。
 だから、あらゆる局面で祈るべきだ。
 それは、この絶対者と対話することだ。
 この対話がおろそかになるとき、自らの力を過信しだす。

 さて、イエスがこう祈りなさいと教えてくださった「主の祈り」にある「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」(マタイ6:13)は、罪深きアダムの肉を持つ私たちがささげることのできる中で、最も基本的な祈りではないかと思うことがある。
 アダムの肉は、とかく試みに会いやすい。「誘惑」といった方が近い。
 この「試み」を生じさせないことによって「悪からお救いください」というのは、アダムの肉が悪へと走りやすいことの自覚なくして祈ることはできない。
 それで、「最も基本的な祈りではないか」と書いた。

 罪深い、力なき者なのだ。私たちは。
 「わが能(あた)うことは祈ることのみ」、できることは祈ることしかない。

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助け主

 「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
 また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」(ヨハネ16:7-11)

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 上の引用聖句を、私はまだよく分からない。
 特に、「助け主」が来ると、「世にその誤りを認めさせ」るというくだり。
 「助け主」は人に来られるのだから、その人が「世の誤り」をよく見渡せるようになる、というのならば通りはよい。
 ところがそうではない。
 「世『に』その誤りを認めさせ」る。
 いずれ分かるだろう。
 今はここが分からない、ということの認識も大切なことのはずだ。

 それはそうととりあえず人間は、復活のイエスを信じて義とされるか、信じずに義とされないかのどちらかだ。
(イエスを信じているつもりの人というのは、もちろん後者に分類される。)
 義の反対は罪であるから、信じない者には罪がある。
 安息日の遵守とか、そういった律法の事細かなこととは全く異なる判断基準、それが「信じる」ということだ。これをイエスは公生涯を通してお示しになった。

 さばきは、正しきイエスを裁いたが故に支配層が裁かれた、ということ。

 そういったことを、「助け主」は教えてくださる。
 「助け主」というと、自分をいつも支えてくれる便利な存在のように勘違いしやすいが、それでは「ハピサク」と同じで御利益でしかない。
 自分の願望達成を助ける存在ではなく、イエスを教えてくださって信じさせてくださる存在であり、そうであるからこそ真の助け主なのである。

 信じる、ということは、それほど難しいことだと思っている。

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イエスが与える水

 「イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:10-14)

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 さくじつ私は、NHKラジオ第一で川柳を聴いていた。
 すると、こういう投句があって、聴いて急いで書き留めた。

 「浴びるほど 飲んで渇きが 消えますか」

 「渇く」、「坂」という2つのお題に対してたくさん寄せられた中の一句なのだが、「心の渇き」に言及する句が、驚くほどたくさんあった。

 上の聖書箇所に出てくるサマリア人の女も、その一人だ。
 上の引用聖句中には出てこないが、5人の男と結婚しては離婚を繰り返し、今は6人目と同棲中、つまり、どの男にも満足できない。
 というと順序は逆で、心に大きな乾きが広く横たわっており、このサマリア人の女は「男」で乾きを満たそうとするが、(あたりまえだが)誰一人として、この乾きを満たしてくれない。
(間違いなく、5人の男は自分から逃げ出したことだろう。)
 今、この女はイエスと共に井戸の前にいる。
 この井戸の深さ、底なしさは、彼女の果てのない乾きを象徴しているかのようだ。
 そして今、この深い井戸から水をくんで、いっときの喉の渇きを癒すことすら、かなわない。
(なぜ女は、水をくみに来たにもかかわらず水をくむ道具すら持っていないのだろう?)
 イエスはそれでも、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます」と仰る。
 「浴びるほど 飲んで乾きが 消えますか」と詠んだ人が、今の世にもいる。
 普遍的なテーゼなのだ。

 イエスは仰る。
 「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」。

 イエスはただで、この水(生ける水)を与えてくださる。
 では、「その人のうちで泉とな」るというその水を、どのようにすれば飲むことができるのだろうか。
 「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら」。

 神の賜物(神が下さるということ)を知ること。
 そして、イエスを知ること。この2点だ。
 というより、神が下さらない限りは、イエスを知ることはできない。
 だが神は、それを多くの人に与えたがっておられる。
 生ける水を得る道筋まで、神は(モーセではなく)イエスを通して示された。
 十字架の道だ。
 苦しみ、死に、そしてよみがえる。
 よみがえって「いのち」を得る。
 泉から水がとめどもなく湧き出る。
 渇くことは、だからない。
(苦しみがなくなるというのは全くの誤りで、心の潤いが全然違うということだと思う。)

 このイエスを知りイエスが与えてくださる水を飲むと、「浴びるほど 飲んで乾きが 消えますか」という発想自体がもう思い浮かばなくなる。もちろん、浴びるほど飲むということ自体が、ない。

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『姦淫してはならない。』

 「 『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」(マタイ5:27-30)

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 「姦淫してはならない」は、十戒の中のひとつ(出エジプト20:14)。
 神がモーセを通して人々に与えた戒めだ。
 人々はこの戒めに、勝手な解釈を施し続ける。
(というより、解釈は開発され続けるものだ。)
 だから「姦淫してはならない」、これはは守れてるかなあ、とか思う。
 しかしイエスは、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」と、厳格な解釈を施す。
 「姦淫してはならない」を守り通せる人など、誰一人いないのだ。
 それほどまでに、アダムの肉は罪深い。

 その罪深さから逃れてゲヘナ(地獄)を避けるがために、自ら右目をえぐりだし、右手を切り取ってしまうのだろうか。
 その必要は、全くない。
 なぜなら、こう仰ったイエス御自身が、この説教ののちに御自身を切り取ってしまう十字架に架かり、そしてありえない復活をされたのだから。
 この復活のイエスに出会った人は、罪赦されたことを実感できる。
 それならば、右目にも右手にも、手を付ける必要はない。
 赦された上で、どうして自らからだを失う必要があるだろう。
 そもそも罪赦されたと信じているので、ゲヘナへの恐怖は消散している。

 言い換えると、律法に対するイエスの厳格解釈を受け入れること自体が、自分の目をえぐり出し、自分の右の手を切り落とすことと同じことだ。
 その厳格解釈を受け入れ続けると、彼は、死ぬ。
 パウロは書いている。「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました」(ガラテヤ2:19)。
 それで律法に死ぬと、生きる。
 これは、イエスが御自身のアダムの肉を十字架に架けて死んで、そして復活されたことと、全く同じだ。

 その意味では、律法という剣によって全身を神に切り渡さない限り、イエスの仰るとおりゲヘナに落ちてしまう。
 アダムの肉は全身丸ごとなので、目や手だけでない。
 目だけ捨ててしまっても、耳や口が何かを犯すだろう。
 だから結局、全身が対象にならざるを得ない。
 しかし、全身切り渡したとき、「神に生きる」ことになる。
 だからイエスは、こんなに厳しいことをここで仰っている。
 神に全身切り渡したとき、ゲヘナははるかかなたに遠のいているはずだ。

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イエス・キリストを告白する霊

 「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。
 人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」(1ヨハネ4:1-3)

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 新約聖書には、「告白」という語句が21箇所出てくる。
 今さっき、調べた。あの分厚い旧約聖書よりも、かなり多い。
(ギリシャ語の訳出とヘブル語の訳出との違いもあるかも知れない。)
 私は以前、この「告白」という語句が分からないと書いた(こちら)。
 上の聖書箇所にも、「イエス・キリストを告白する霊」、「イエスを告白しない霊」とある。

 ”霊”というものがあるとして(いやあるのだが)、その”霊”は、必ずや「人となって来たイエス・キリストを告白する」ことだろう。
 イエスを告白する、のではなく、さらに踏み込んで、人となって来たイエス・キリストを告白する。
 イエスが十字架に架かってから二千年を経て、今なお、この人となって来られたイエスに出会う人がたくさんいる。
 「告白」という語句には、深い得心を得させる語りかけ、そういうニュアンスを受ける。

 ちなみに、ここまで意図的に”霊”と記してきたが、これは新共同訳での記法で、「聖霊」や「御霊」といった概念のことだ。
 その”霊”に触れることは、「人となって来たイエス・キリスト」が告白されて、イエスこそ救い主であったとはっきり了解できるということだ。
 喜びがひとしおなのも、無理もない。
 だからといって、今の世には異言だの預言だのというのは、ない。
 それどころか、異言や預言をもっぱら追い求めているのでは、それでは順序がまったく逆になってしまう。これらのものは「しるし」であったからだ。
 パウロは、こう書いている。

 「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。」(1コリント13:8-10)

 完全なもの、というのは、「人となって来たイエス・キリスト」、その了解についての完全さだ。
 そして、新約聖書の成立、そして誰もがそれを読むことができるようになって、「人となって来たイエス・キリスト」を了解する土台はとうに整っている。
 「しるし」なしにそのことが了解されるならば、異言とか預言といった「しるし」は全く不必要になる。

 そうすると、”霊”の働きを何によって知るというのだろうか。
 いや、知る必要そのものが、ない。
 ただ、神からの恵みによって、「人となって来たイエス・キリスト」を了解できればよいのだ。
 日頃から聖書に接していれば、そのときにそのことが分かるはずだ。
 救い主が、聖書の約束通りに、彼の下に来たのだ。
 そして、そのことの了解とその喜び以上には、いったい何が必要なのだろうか。

 だから必要なことは、「しるし」を追い求めることではなく、「告白」を聞き分ける耳を持つことだ。

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羊の門

 「そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。」(ヨハネ10:7-14)

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 「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています」。

 イエスは予めご存じであったし、その者がそのことを明確に気付く時、つまりイエスを知る時というのも、やがて来る。
(「イエスを知る」というタイトルで、こちらに書いた。ただ、書くことがとても難しいことがらだと思う。)

 彼は羊の門をくぐり抜けた人だ。
 どこにあるのかも分からない、小さくそして狭い門。
 本質的に「羊」だけが通ることができる。
 「狼」に門は分からず、この「狼」は強盗とグルになって囲いの外から荒らしに掛かる。
 囲いの中には、ただひとりの牧者イエスがおられる。
 「羊」はここで、「いのち」を得る。
 そのためにこそ、イエスはこの世に来られた。

 多くの者がこの羊の門を目指すのだが、探し出すのはまれだろう。
(「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」マタイ7:14)
 それでもなお、見いだす者ははっきりと見いだす。

 羊の門は、ミカンの果汁で書いたあぶり出しの文字のようなものだ。
 火に当たるまでは全く見えないので、どれだけ探しても見あたらない。
 ところが誰かが火を当てると、え、こんな身近なところに? というような所に「羊の門」と浮かび上がってくる。だから、そこをくぐればよい。
 火を当てるのは、イエスだ。
 だから、「火を当ててください」と祈るのである。

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シロアム男

 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
 近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った。当人は、「私がその人です。」と言った。
……
 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:7-9,35-41)

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 物乞いをしていた盲目の者をイエスが見えるようにされた箇所から。
 便宜上、この男を「シロアム男」と呼ぼう。

 まず、シロアム男は、イエスに目を留めてもらった。
(というより、無礼な弟子が指さしたというのもあるが。)
 そしてイエスに癒していただく。
 これはハプニングあるいは偶然と言うのではなく、恵みと言う。
 この恵みに預かったシロアム男は、目が「見えるようになって、帰って行った」、つまり彼はイエスの御姿を見ないままに帰宅した。
 このシロアム男の姿勢には、批判もあるかもしれない。なぜお礼を言いに戻らないのか、とか。
 多分このシロアム男は、見えるという喜びを父母に伝えたくて、お礼するのも忘れて(だってそれほどうれしいだろう)飛び跳ねて家に赴いたのだと思う。
(この仮定とまったく逆の話が、ルカ17:11-19にある。)
 だがたとえシロアム男が無礼極まりない奴だとしても、イエスは同じように彼に目を留められ、彼をいやす。
 だからこそ、恵みなのだ。

 さて、ひと騒動あって(上の引用では全部省略している)、イエスはシロアム男を見つけ出される。
 そのとき、シロアム男ははじめてイエスを見るのだが、彼はイエスをイエスとは知らない。また、自分の目を癒してくれた人だとも、知らない。
 イエスはシロアム男に仰る。
 「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです」。
 シロアム男は既にイエスを見ていた、そうイエスは前置きし上で、御自身がそうだと仰る。
 シロアム男がいつイエスを見たというのだろうか?
 彼は、癒されただけでなく、癒されたことを通して、癒したのが神であると知ったのだろう。
 イエスと再開したシロアム男は、非常に礼儀正しい。

 「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです」。
 見えなかったシロアム男には、イエスが見えた。
 見えると言っているパリサイ人は、それゆえにイエスが全く見えなくなる。
 そのことが「さばき」なのだろう。
 イエスが見えるか見えないか、あるいは見えているつもりか。この三者だ。
(たとえば福音書に頻出する「群集」は、「つもり」の人々に属する。)
 この「イエス」という箇所には、いろいろな語句を当てはめることができる。
 「神」、「真理」、「いのち」、「復活」、「回心」、「新生」…、似たような概念がたくさんある。
 ともかく、今は見えなくとも、上の聖書箇所のように復活のイエスが訪れ、その見えない目を見えるようにしてくださるのであれば、それが恵みだ。

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