イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
救いの王
「祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。
それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。
その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、
しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。
「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」(ヨハネ12:10-15)
---
イエスによって、ラザロはよみがえった。
そのラザロを見た人は、皆イエスの方へと行き、エルサレムへと入るイエスを王と持ち上げ歓待する。
彼らはイエスをイスラエルの王と思いこんで「ホサナ」と叫んでいる。
だが、彼らの願いとイエスの思いとはかなりずれている。
イエスは極刑の十字架に架かりにエルサレムに来た。
だが人々は、イエスこそローマの圧政から自分たちを解放してくれる王様だ、そう思って「ホサナ」とやっている。
独立運動のヒーローとして持ち上げている、ということこだろうか。
それでもイエスは、彼らの歓待を受け入れる。
それはイエスが肉からの救いの王だからに違いない。王は王なのである。
---
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それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。
その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、
しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。
「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」(ヨハネ12:10-15)
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イエスによって、ラザロはよみがえった。
そのラザロを見た人は、皆イエスの方へと行き、エルサレムへと入るイエスを王と持ち上げ歓待する。
彼らはイエスをイスラエルの王と思いこんで「ホサナ」と叫んでいる。
だが、彼らの願いとイエスの思いとはかなりずれている。
イエスは極刑の十字架に架かりにエルサレムに来た。
だが人々は、イエスこそローマの圧政から自分たちを解放してくれる王様だ、そう思って「ホサナ」とやっている。
独立運動のヒーローとして持ち上げている、ということこだろうか。
それでもイエスは、彼らの歓待を受け入れる。
それはイエスが肉からの救いの王だからに違いない。王は王なのである。
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喜怒哀楽の神
「マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
イエスは涙を流された。
そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。
そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。」(ヨハネ11:32-38)
---
憤るイエス。
涙を流すイエス。
どちらも、私たちに罪の赦しをもたらすイエスの姿である。
このイエスは、激しく怒ったりもする(宮清め、ヨハネ2:13-22等)。
つまり、神の子には喜怒哀楽があり、それは神である御父も同様である。
御父は旧約時代、もっぱら怒れる神であった。
その神から造られた私たち人間に喜怒哀楽があるのは、むしろ当然のことだろう。
イエスはあわれみ深い方だからと、自分もあわれみ深くしよう、さらに自分も「いい人」になろうとかやりだすと、どこかで地の自分と整合性が取れなくなって破綻してしまうと思う。
地の自分は、すなわちアダムの肉を持つ罪人なのだ。
ここが罪のない神の子イエスと私たちとは決定的に異なる。
悪い人は悪い人だ。いい人ではない。
その悪い人に悪いままでいいんだ、とするのがイエスの罪の赦しであり、イエスにすがる理由である。
私たちの喜怒哀楽はもとより神に赦されているし、すべてのこころの動きが同様、赦されている。
卑近なことばで書くと、赦されることによって自分の内部での整合性が取れて楽になれる。
「善行を積まなくては」というのは、無理が大きく傍目に痛々しい。
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そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
イエスは涙を流された。
そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。
そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。」(ヨハネ11:32-38)
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憤るイエス。
涙を流すイエス。
どちらも、私たちに罪の赦しをもたらすイエスの姿である。
このイエスは、激しく怒ったりもする(宮清め、ヨハネ2:13-22等)。
つまり、神の子には喜怒哀楽があり、それは神である御父も同様である。
御父は旧約時代、もっぱら怒れる神であった。
その神から造られた私たち人間に喜怒哀楽があるのは、むしろ当然のことだろう。
イエスはあわれみ深い方だからと、自分もあわれみ深くしよう、さらに自分も「いい人」になろうとかやりだすと、どこかで地の自分と整合性が取れなくなって破綻してしまうと思う。
地の自分は、すなわちアダムの肉を持つ罪人なのだ。
ここが罪のない神の子イエスと私たちとは決定的に異なる。
悪い人は悪い人だ。いい人ではない。
その悪い人に悪いままでいいんだ、とするのがイエスの罪の赦しであり、イエスにすがる理由である。
私たちの喜怒哀楽はもとより神に赦されているし、すべてのこころの動きが同様、赦されている。
卑近なことばで書くと、赦されることによって自分の内部での整合性が取れて楽になれる。
「善行を積まなくては」というのは、無理が大きく傍目に痛々しい。
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よみがえりの権威
「イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります」
マルタはイエスに言った「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」(ヨハネ11:23-27)
---
マルタが言う「彼」とは、葬られた兄弟のラザロ。
アダムの違反以来、すべての人は罪の下にあって死の中に閉じこめられている。
その死から解放していのちを与えるのが、キリスト・イエスの十字架と復活である。
それでイエスはここで、「わたしは、よみがえりです。いのちです」と言っている。
実際、イエスは死んだラザロをよみがえらせる。
このことは復活の型であり、また、それよりもっと難しいよみがえりのわざを為す権威があることを示している。
その権威によって、信じる人に罪の赦しがもたらされる。
「わたしを信じる者は、死んでも生きる」のである。
罪に死んで、いのちに生きる。
そして、「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことが」ない。
それは罪赦されて解放されたからである。
ところでマルタは「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております」と受け答えしているが、頭の上での理解という印象を受ける。
もっとも、彼女はこの時点で十字架と復活を知らないので、無理もない。
---
[付記]
本日の記事は、2009年3月21日付記事に筆を加えたものです。
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マルタはイエスに言った「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」(ヨハネ11:23-27)
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マルタが言う「彼」とは、葬られた兄弟のラザロ。
アダムの違反以来、すべての人は罪の下にあって死の中に閉じこめられている。
その死から解放していのちを与えるのが、キリスト・イエスの十字架と復活である。
それでイエスはここで、「わたしは、よみがえりです。いのちです」と言っている。
実際、イエスは死んだラザロをよみがえらせる。
このことは復活の型であり、また、それよりもっと難しいよみがえりのわざを為す権威があることを示している。
その権威によって、信じる人に罪の赦しがもたらされる。
「わたしを信じる者は、死んでも生きる」のである。
罪に死んで、いのちに生きる。
そして、「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことが」ない。
それは罪赦されて解放されたからである。
ところでマルタは「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております」と受け答えしているが、頭の上での理解という印象を受ける。
もっとも、彼女はこの時点で十字架と復活を知らないので、無理もない。
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復活という光
「イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」
しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」(ヨハネ11:9-10)
---
イエスが世におられたあいだ、イエスは光であり世は昼間だった。
十字架に架かってそのイエスが死なれると、光は消え世は再び夜に入る。
今もってそうだ。世は闇で、暗い。
ところが、十字架以前とは異なり、キリストの復活という光を内に宿す人はつまずくことがない。
何につまずかずに済むのだろうか。
この世での世渡りにつまずかずに済むのではない。
復活という光を宿す人は、御国への道につまずかないのである。
この人には、今も十二時間の昼間がある。
---
[付記]
本日の記事は、2009年3月20日付記事に筆を入れたものです。
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しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」(ヨハネ11:9-10)
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イエスが世におられたあいだ、イエスは光であり世は昼間だった。
十字架に架かってそのイエスが死なれると、光は消え世は再び夜に入る。
今もってそうだ。世は闇で、暗い。
ところが、十字架以前とは異なり、キリストの復活という光を内に宿す人はつまずくことがない。
何につまずかずに済むのだろうか。
この世での世渡りにつまずかずに済むのではない。
復活という光を宿す人は、御国への道につまずかないのである。
この人には、今も十二時間の昼間がある。
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たとい信じられなくても
「もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。
しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」(ヨハネ10:37-38)
---
イエスとは、なんであろう。
「父がわたしにおられ、わたしが父にいる」、そういう存在だという。
ところが、イエスがそのことを何度言ってもわからず、信じようがない。どうして信じられよう。
ならばせめて「わざを信用しなさい」、そうイエスは言う。
イエスがなにかが今は分からず信じられなくとも、追い求めれば、復活のイエスに出会って「悟り、また知る」ことがあるからである。
そのときには、信じないとか信じるとかいうより、イエスの言はもはや自明のものとなる。
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しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」(ヨハネ10:37-38)
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イエスとは、なんであろう。
「父がわたしにおられ、わたしが父にいる」、そういう存在だという。
ところが、イエスがそのことを何度言ってもわからず、信じようがない。どうして信じられよう。
ならばせめて「わざを信用しなさい」、そうイエスは言う。
イエスがなにかが今は分からず信じられなくとも、追い求めれば、復活のイエスに出会って「悟り、また知る」ことがあるからである。
そのときには、信じないとか信じるとかいうより、イエスの言はもはや自明のものとなる。
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御父の命令
「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」(ヨハネ10:17-18)
---
十字架と復活、その予告。
ただ、イエスの話していることを理解できる人はいなかった。
イエスは十字架を、御父の命令であると説明する。
具体的には、罪人の救いである。
罪人を救うために、律法に照らして何の罪もないイエスが極刑を受ける。
そして、それにもかかわらず「自分のいのちを再び得」ることで、身代わりに背負った罪を処分する。
これは救いの型で、イエスがはじめて切り開いた道である。
恵みによってこのイエスの道に入り込んだ罪人は、死んで、そしてイエス同様生きる(参/ローマ6章)。
そのときはじめて、上のイエスの言葉がすとんと落ちる。
自分が通ったところを言っているからである。
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だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」(ヨハネ10:17-18)
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十字架と復活、その予告。
ただ、イエスの話していることを理解できる人はいなかった。
イエスは十字架を、御父の命令であると説明する。
具体的には、罪人の救いである。
罪人を救うために、律法に照らして何の罪もないイエスが極刑を受ける。
そして、それにもかかわらず「自分のいのちを再び得」ることで、身代わりに背負った罪を処分する。
これは救いの型で、イエスがはじめて切り開いた道である。
恵みによってこのイエスの道に入り込んだ罪人は、死んで、そしてイエス同様生きる(参/ローマ6章)。
そのときはじめて、上のイエスの言葉がすとんと落ちる。
自分が通ったところを言っているからである。
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行ないと恵みの違い
「こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』
このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(マタイ20:8-16)
---
ヨハネ伝からいったん離れて、イエスのたとえ話。
主人は、朝早く、次に9時ごろ、さらに12時頃、午後3時頃に、労務者を雇うために市場に出向く。
午後5時にも出掛けてみると、まだ人々が立っていたので彼らをも雇う。
さて一日を終え給料を払う段になると、「最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払」うようにする。
ところで律法による救いとは、行ないによって救われようとするものであり、上のたとえ話でいけば、より長時間額に汗した者が救われることになる。
しかし救いとは、そのような行ないではなく恵みである。
具体的には、朝早くであれ、夕方5時であれ、雇われること自体が恵みによる救いである。
本人がしたことといったら、市場に立って職探しをしていたことくらいだ。
救いはアナログではなくデジタルなので、いつ救われたかにかかわらず誰でも1デナリだ。救われなかった者は、0デナリ。
つまり、「救われた」と「救われなかった」の2つの状態しかないので、救いはデジタルな世界と言え、たとえば「半分救われた」、「8割方救われたからあと2割頑張ろう」というようなアナログな連続量的状態は、こと救いについてはありえない。
行ないというのは、救いがアナログ量だという前提に基づいているように思える。
言い換えると、朝早くから働いたので3デナリ位はもらえるだろうという誤解は、行ないの世界に由来しているような気がする。
「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」、恵みによる救いには、あとさきは関係がない。
行ないのことが頭にあるので、先の方がよりいいだろうと思ってしまう。
だが、救いに恵まれてしまえば、先も後も一緒だ。
救われるためにやることはただ一つ、市場に立って恵みを待つことである。
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そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』
このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(マタイ20:8-16)
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ヨハネ伝からいったん離れて、イエスのたとえ話。
主人は、朝早く、次に9時ごろ、さらに12時頃、午後3時頃に、労務者を雇うために市場に出向く。
午後5時にも出掛けてみると、まだ人々が立っていたので彼らをも雇う。
さて一日を終え給料を払う段になると、「最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払」うようにする。
ところで律法による救いとは、行ないによって救われようとするものであり、上のたとえ話でいけば、より長時間額に汗した者が救われることになる。
しかし救いとは、そのような行ないではなく恵みである。
具体的には、朝早くであれ、夕方5時であれ、雇われること自体が恵みによる救いである。
本人がしたことといったら、市場に立って職探しをしていたことくらいだ。
救いはアナログではなくデジタルなので、いつ救われたかにかかわらず誰でも1デナリだ。救われなかった者は、0デナリ。
つまり、「救われた」と「救われなかった」の2つの状態しかないので、救いはデジタルな世界と言え、たとえば「半分救われた」、「8割方救われたからあと2割頑張ろう」というようなアナログな連続量的状態は、こと救いについてはありえない。
行ないというのは、救いがアナログ量だという前提に基づいているように思える。
言い換えると、朝早くから働いたので3デナリ位はもらえるだろうという誤解は、行ないの世界に由来しているような気がする。
「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」、恵みによる救いには、あとさきは関係がない。
行ないのことが頭にあるので、先の方がよりいいだろうと思ってしまう。
だが、救いに恵まれてしまえば、先も後も一緒だ。
救われるためにやることはただ一つ、市場に立って恵みを待つことである。
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羊がイエスを知るとき
「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」(ヨハネ10:14-15)
---
良い牧者は、自分の羊のためにいのちを捨てる。
御父はイエスを知っており、イエスも御父を知っている。
同様に、イエスは自身の羊を知っており、羊もイエスを知っている。
羊ははじめからイエスをイエスと知っていたわけではない。
あるところではじめて、イエスが救世主であると分かるところに来る。
それまでは、イエスが何物かわからないのではないかと思う。
たとえば、サマリアの女(ヨハネ4章)は、イエスと出会った瞬間からイエスを救世主と分かったわけでは全くない。
だが、やがて次のように言う。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです」(4:42)。
このように、あるところで羊はイエスを救世主とはっきり気付く。
その羊の救いのために、イエスは十字架に架かり、そして復活する。
イエスが羊飼いというのは、罪からの解放という地点に自分の羊たちを導くからであろう。
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それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」(ヨハネ10:14-15)
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良い牧者は、自分の羊のためにいのちを捨てる。
御父はイエスを知っており、イエスも御父を知っている。
同様に、イエスは自身の羊を知っており、羊もイエスを知っている。
羊ははじめからイエスをイエスと知っていたわけではない。
あるところではじめて、イエスが救世主であると分かるところに来る。
それまでは、イエスが何物かわからないのではないかと思う。
たとえば、サマリアの女(ヨハネ4章)は、イエスと出会った瞬間からイエスを救世主と分かったわけでは全くない。
だが、やがて次のように言う。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです」(4:42)。
このように、あるところで羊はイエスを救世主とはっきり気付く。
その羊の救いのために、イエスは十字架に架かり、そして復活する。
イエスが羊飼いというのは、罪からの解放という地点に自分の羊たちを導くからであろう。
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盲目が見え、見える者が盲目に
「そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:39-41)
---
「目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となる」。
イエスによる救いとは、見えなかったものが見えるようになることだ。
イエスを救い主と見ることのできなかった人が、イエスが救い主であったとはっきり見えるようになる、これが救いである。
十字架と復活が、自分のこととしてはっきりと見えてくる。
自分は盲目である、無力だ、そうわかることに救いの第一歩がある。
そのようにわかるための「てこ」が、神の秩序・律法である。
人間の肉は、たとえば十戒のたった一つすら守ることができない、イエスが教えてくれるのはこのことだ。
ここに思い至った人は、もはや何もできなくなり先も見えなくなる。
だが、この地点こそ救いの第一歩なのである。
一方、私は見える、という人には、このようなとっかかりがない。
だから救いについてまったくの盲目となってしまうのであろう。
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パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:39-41)
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「目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となる」。
イエスによる救いとは、見えなかったものが見えるようになることだ。
イエスを救い主と見ることのできなかった人が、イエスが救い主であったとはっきり見えるようになる、これが救いである。
十字架と復活が、自分のこととしてはっきりと見えてくる。
自分は盲目である、無力だ、そうわかることに救いの第一歩がある。
そのようにわかるための「てこ」が、神の秩序・律法である。
人間の肉は、たとえば十戒のたった一つすら守ることができない、イエスが教えてくれるのはこのことだ。
ここに思い至った人は、もはや何もできなくなり先も見えなくなる。
だが、この地点こそ救いの第一歩なのである。
一方、私は見える、という人には、このようなとっかかりがない。
だから救いについてまったくの盲目となってしまうのであろう。
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信仰告白
「彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。」(ヨハネ9:30-34)
---
「彼」とは、目が見えなかったがイエスによって見えるようになった人。
この「彼」はパリサイ人たち相手に、上のように毅然と言いのけている。
立場としても内容的にも、こういうのが信仰告白である。
人間はアダムの違反以来盲目な存在であり、それゆえ、はからずも彼らパリサイ人が言うように「罪の中に生まれ」た存在である。
(彼らにはその自覚が皆無なところが、救いがたい。)
その罪から人間を救うべく信じる者に「いのち」を与えるために、キリスト・イエスはこの世に来られた。
そのイエスによって目が開かれたとき、上の「彼」同様、イエスが誰であり、またどこから来たのかを一瞬にして了解するようになる。
ではキリストは、人間をどのようにして罪から解放なさるのだろうか。
それは十字架と復活によってである。
人間の罪深い肉と同じ肉を十字架上で処罰し、その処罰がよしとされてよみがえられた(ローマ8:3-11)。
信仰とは、この十字架と復活を信じることである。
これを人知やわざによって信じることは不可能で、上の「彼」のように、ただ恵みによってのみ信じることができるのである。
---
[付記]
本日の記事は、2009年2月24日付記事に筆を入れたものです。
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神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。」(ヨハネ9:30-34)
---
「彼」とは、目が見えなかったがイエスによって見えるようになった人。
この「彼」はパリサイ人たち相手に、上のように毅然と言いのけている。
立場としても内容的にも、こういうのが信仰告白である。
人間はアダムの違反以来盲目な存在であり、それゆえ、はからずも彼らパリサイ人が言うように「罪の中に生まれ」た存在である。
(彼らにはその自覚が皆無なところが、救いがたい。)
その罪から人間を救うべく信じる者に「いのち」を与えるために、キリスト・イエスはこの世に来られた。
そのイエスによって目が開かれたとき、上の「彼」同様、イエスが誰であり、またどこから来たのかを一瞬にして了解するようになる。
ではキリストは、人間をどのようにして罪から解放なさるのだろうか。
それは十字架と復活によってである。
人間の罪深い肉と同じ肉を十字架上で処罰し、その処罰がよしとされてよみがえられた(ローマ8:3-11)。
信仰とは、この十字架と復活を信じることである。
これを人知やわざによって信じることは不可能で、上の「彼」のように、ただ恵みによってのみ信じることができるのである。
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[付記]
本日の記事は、2009年2月24日付記事に筆を入れたものです。
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