神の慈愛

 「御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」(黙示22:17)

 「また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。……「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない」。それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。」(黙示7:2-4)

 「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(ローマ2:4)

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 「耐え難い苦難」、そう一言でいい表すには、あまりに軽いように思う。
 三日の間、私はただただ喉が渇いて飲むばかりで、食したものといえば2切れのパンをいやいや押し込んだだけという有様であった。
 全世界から見放され、ひどく醜い自分にひとり対峙し続けざるを得なかった。
 恐怖の色彩を強く帯びた、耐え難い苦難…。

 その苦難の間、私はもっぱら聖書に向かう他なかった。
 ヨハネ伝18-20章。
 詩篇、特に22篇と69篇。
 ヨブ記。
 そして、ヨハネ黙示録。

 「三日目」の午後三時頃、その苦難に耐えることを放棄せざるを得ない、それ程の耐え難さにまで達した。
 黙示録に記されている「来てください。」がたまたま目に入ったとき、「来て下さい」と力なく私は言った。
 黙示録を読み終え、すると、不思議なことに、突然強い眠気が襲った。
 二言、三言祈り、そして、眠ったようだ。
 夢の中で、自分の「額に印を押」される、そのようにも受け取れる「光景」を見た。

 目が覚めた。
 すると、今までの苦難は果たして何だったのだろうか、そう気抜けしてしまうほどの、全てから解放された自分を見いだした。
 しばらく「その解放された感覚」に浸り続けたのち時計に目を見やると、午後四時過ぎを指していた。一時間ばかし、眠っていたことになる。
 あれだけ息苦しかったのに。
 あれだけ激しい動悸だったのに。
 それらはもろとも、跡形もなく消え去っていた。

 起きあがって聖書をぱらぱらめくると、ロマ書2章が目に飛び込んできた。
 ここに書いてあることは、…しごく当たり前のことではないか!
 新鮮さを伴う驚き、それを感じた。
 「神のさばき」(ローマ2:2)は即ち「神の慈愛」、そう読める。
 そして思うに、私はこの「神のさばき」に遭ったのだと。

 果たして私が真に「悔い改めに導」かれたのかどうか、それは全く分からない。
 明日の朝には、煉獄にまた逆戻りするかも知れない。
 また、「これ」でこの苦難からすっかり解放されたとしても、「そのこと」が「悔い改め」のしるしなのかどうか、それははなはだ怪しいところだ。
 そう考えてもなお、「このこと」を記しておこう、そう思う。

 因みに、ローマ2:1を読んで、全くもって書いてあるそのままじゃないか、初めてそう思った。
 「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」

 また、やはりぱらりと開けたマタイ15:18-19も、全くその通りと、頷くばかりであった。
 「口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。」

 イエス様は、心の汚さそれ自体とそれが口から出て人を汚すこととは、切り離しておられる。我が心の汚さそれ自体は、ここでは不問とされている。
 しかし、汚さをさばく行為それ自体が「それと同じ」、即ち、さばくことによって却って我が心の汚さを証明してしまう、そうも思い当たる。
 つまるところ、さばくことは、心醜き我が身に直接跳ね返る。
 だからこそ、いにしえの人はこう書いたのかも知れないとも思う。

 「怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。」(詩篇37:8)

 私は、かくも汚れた心を抱えた矛盾に満ちた存在にすぎず、上のマタイ伝での発言者イエスにただ救いを求め続けるのみの者と思い至る。

(何しろ三日間食していない脳味噌で書いた文章なので、論旨に一貫性も統一性もないことを自覚しております。)
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求安録

 「人は罪を犯すべからざる者にして、罪を犯す者なり。彼は清浄たるべき義務と力とを有しながら、清浄ならざる者なり。」
……
 「降りるは易く(やすく)して登るは難く(かたく)、降りれば良心の責むるあり、登るに肉欲の妨ぐるあり。」

(内村鑑三、「求安録」、上の部「悲嘆」より。教文館版全集より)

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 「求安録」は、入手が難しい本だった。
 かろうじて入手できたのは戦前の岩波文庫版(15銭の本だそうだ)であり、読めない漢字が甚だ多くて難儀してしまった。
 上の「教文館全集」の第一巻に所収されており、しかもそれが、こんにち
実に入手しやすいということは、全く偶然に知り、すぐ購入。
 久しぶりに開こうとすると、手垢がびっしり付いている事に気付く。

 上の文章は、本書「求安録」の書き出し。
 昨日、この書き出しに接して、昔日誰かが本というものは書き出しで決まるんだ、という類のことをいっていたのを思いだした。
 「人は罪を犯すべからざる者にして、罪を犯す者なり。彼は清浄たるべき義務と力とを有しながら、清浄ならざる者なり。」

 かつての私は、「100年前の文語体的内村鑑三」を、21世紀の今日に蘇らせようという野心を抱いていた。
 古文を学び直し、「思想体系」を俯瞰した上で、各書物を21世紀に合うように「トランスレート」していこう、と。
 さくじつ上の書き出しにたまたま接し、そんな勝手なマネなど許さない、完全にして峻厳な世界、それを壊すことまかりならぬ、そういう思いを持たざるをえなかった。

 「人は罪を犯すべからざる者にして、罪を犯す者なり。彼は清浄たるべき義務と力とを有しながら、清浄ならざる者なり。」

 これほどの名文を目にすることは、滅多にないように思う。
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