香油女

 「さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」
 するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。
 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(マタイ26:6-13)

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 この女性の名は、不明だ。
 それなのに、福音の伝わるところ、この女性のしたことも伝えられ、それが彼女にとっての記念になると、イエスは仰る。
 それほどのことかと、私は随分とこの箇所が全く理解できなかった。

 さてさくじつ、「無理解さ」について書いた。
 「香油女」、彼女は唯一、イエスを「理解」していた。
 イエスがキリストであり、いよいよ十字架の道に就くのだということを。
 それで「埋葬の用意をしてくれた」。
 香りがあふれて臭いを消すための、まさに埋葬用の香油だ。
 仮説だが、この香油女はずっと前から、この香油を少しずつ少しずつ買い溜め続けていたかも知れない。あるいは、らい病人の家人は先が長くないので、それで備えてあったのだろうか。
 香油の調達法は分からないのだが、ともかくイエスを、そしてイエスの置かれた状況を、きちんと理解していた。
 バステスマのヨハネですら、イエスを疑った(「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」マタイ11:2-3)

 イエスの公生涯の時代、実に香油女だけが、目が見開いていた。
 そうと気付いたので、この人のしたことは伝わるとイエスが仰ったのは、今はとてもよく分かる。
 いつの時代にも、理解者は少しはいるものだ。

 一方、弟子たちは「この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」などとやっている。
 これは「義憤」というやつだ。単に香油の高価さに目が惹かれているというだけのことだ。
 だが、取税人といい遊女といいこの弟子たちといい、こういう人々が分からないながらも救いを求めてイエスに付き従っていた。
 イエスは彼らをけっして拒まない。
 理解できるときが来るからだ。
 早いか遅いか、それは分からない。イエスはこう仰る。
 「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」(マタイ20:16)


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見えない目

 「この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
……
 カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」
 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。」(マタイ11:16-17,24-25)

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 マタイ福音書は、二箇所、イエスが人々を責める箇所がある。
 うち一箇所が、この11章。
(もう一箇所は、23章。)
 ここではイエスは、群衆を前に人々(というか街々)を責めておられる。
 何をお責めなのだろう。
 無理解さだ。
 「目の見えなさ」と言ってもいい。

 キリストが来られて、そのキリストによって「盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返」る(5節)。
 それを間近に見ているのに、今ここにいるのは待望していたキリストだ、ということが全く見えていない。
 あまりの無理解さに、イエスもいらだつのだろう。
 私たち人間とまったくおんなじであることの、とても良い証拠だ。

 イエスがカペナウムでおこなった癒しや悪霊追い出しについては、マタイ福音書では8-9章に多く載っている。
 貧しい漁村のこのカペナウムは、あのソドムよりも罪が重い、そうイエスはいう。
 あの姦淫の街ソドムは、イエスの奇跡を全く知らない。
 だが、それと違ってカペナウムはイエスの奇跡の数々を知っている。
 知っている上で、イエスが誰だか分からず、見えない。

 「カペナウムの頃」から2000年を経た現在、聖書というものがこんなにも流通している。
 こんなにも流通していることを、ありがたくおもっている。
 その聖書に収められている福音書でのイエスの言動を読んで、イエスが「どのように」見えるだろうか。
 生活を大幅に向上させて下さるお方に見えるだろうか。
 治らない自分の病を、根源治療してくれる方に見えるだろうか。
 それとも、「キリストに」見えているだろうか。
 では、キリストとはどのような存在かは、見えているだろうか…。

 義眼のような「見えない目」。
 これが「はっきり見える目」になるというのが、いのちであり神の国だ。
 そういうことは、いくらでも起こる。下の聖句にもある。

 「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(マタイ19:24)

 「らくだが針の穴を通る」くらいに簡単なのだ。
(しかし、このたとえは実に巧みだ。)
 「金持ちの救い」のほうがずっと難しい、そのくらいたやすいことだ。
 これが福音だと思う。
 ひとえに、イエスの十字架と復活という「道付け」のお陰だ。


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聖書の力

 「すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」
 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」(マタイ22:28-30)

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 祭司階級であるサドカイ人が、復活についてイエスに問うた。
 イエスを試そうと思ってのことだ。
 ところが、彼らの質問というのが、なんとも彼らの無理解を単に暴露しただけのものであった。
(その質問の全体は無価値なので、上には載せていない。)
 「復活」というものについて、彼らは実は、根源的な勘違いをしていたのだ。
 繰り返すが、彼らは祭司階級、支配者階級である。
(加えて、現世主義者だ。)

 「復活は、すぐそこにある。」

 こう書いたならば、どう思われるだろうか。
 私は思うのだが、昨日も世界のどこかで、ひとりかふたり、ひっそりと「復活した」と思っている。
 その人にとって、誰が妻か(夫か)などということは関係がない。妻(夫)がいる/いない、ということが、関心事としてはさしたるものではなくなってくるから。
 アウグスティヌスは放縦な女性遍歴のさなか神を求め続け、復活するや粛々と女性関係をすべて整理してしまう。
(というより、神がばっさばさと整理なさる。剪定されている(ヨハネ15:2)のだろうか。)

 この復活への道を切り開いてくださったのは、イエスだ。
 十字架を背負ってゴルゴダの丘を登る。
 その十字架に架けられて、死ぬ。
 そして三日後に、復活する。

 これが「復活への道」であり、ひな形だ。
 律法群が内奥の罪を知らせる。
 イエスがこれ以上ないほど分かりやすく、山上の説教で罪に気付かせてくださるから。
 気付いた罪に、責められ続ける。
 蟻地獄にはまったように、ぐんぐんと死へと吸い寄せられる。
 砂の流れにあがなうことはできず、とうとう死ぬ。これが十字架だ。
 そして、イエスと同じように復活する。
 罪からの解放、「いのち」だ。
 そういうわけで、聖書の力が絶大なのだ。
 イエスが与えるもの(聖書、神の力)というのは、たったひとつ、この「いのち」だ。
 そのためには、まずは聖書を通して自身の罪に気付いてもらわなくてはならない。約束のみ言葉がある。

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)

 これはもちろん、「いのち」についての約束だ。
 そのためには、こうである必要がある。

 「兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」(マタイ7:4)

 自分の目の中にある丸太に気付け、と仰っているのだが、「丸太」が「罪」のことだ。
 他人の「おが屑」など、全くもってどうでもよい。

 聖書の力は、「丸太」に気付かせることにこそある。


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罪赦されているのだが

 「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。
 父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。
……
 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」(1ヨハネ2:12-16(14節除く))

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 イエスは公生涯に際して、サタンの誘惑に遭っている。
 「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」(マタイ4:8-9)

 「栄華」というのが、「世にあるもの」の集大成だ。
 つまりここでサタンは、「この世の支配権を差し上げましょう」、とイエスをそそのかしている。
 イエスは、はねのけることができた。
 ところが人々は、大体にして物心着いたときからそのような価値観を植え付けられているので、栄華を組成し、更にその栄華の支配者となるために考え、動く。
 「……暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです」。
 このように、「罪( sin )」の中でおぼれ続ける。そうであることも知らずに。

 「主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです」。
 あのイエスの十字架の死と復活が、私たちすべての人に、罪( sin )からの赦しをもたらしてくださった。
(十字架は、罪に死んでよみがえるという、そのひな形)。
 ただ、この罪の赦しに気付かない。
 しかも、それ以前に罪( sin )自体に、まったく気付かない。上に書いたとおりだ。
 だから、「罪からの赦し」という概念を、どうして想起できよう。

 「罪( sin )」に気付かせるための仕掛けが、聖書の中にはたくさんある。
 律法がそうだ。山上の説教は更にそうだ。
 このように罪に気付くことこそ、ただ一つのスタートラインだ。
 このスタートラインに立ったならば、はるかかなたの十字架を見失わなければよい。
 十字架(「御名」)、そこだけがゴールだ。
 そこは「罪の赦し」を本当に知ることのできる地点である。
 そしてそこで、「初めからおられる方を、知」ることになる。
 ただ、自力で十字架へとたどり着けはしない。
 十字架の方からやってくる、と言おうか。

 そのこと、この構造を教えてくれる聖書こそ、神が与えてくださった救急箱だ。
 もっぱら、罪への気付きとその解決を、もたらしてくれる。


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via Christ

 「イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。
 しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。
 わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」(ヨハネ7:28-29)

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 半年近く前、日光へ旅行に行った。
 東照宮は、実は私は初めてだ。
 神社や寺(私には両者の区別がつかなかった)が十ほどもあり、それぞれが似たようなおみくじや絵馬を売っていた。
 それらを何気なく見ていると、恋愛成就の絵馬というのがあって、その絵馬が書き込まれてたくさん飾られている。
 書いた人が誰にお願いしているのか、不思議なもんだと思った。
 そんなことを書いている私も、高校時代に合格祈願の絵馬を書いた。
 神をお参りしているなどという意識など、かけらもなかった。

 さて、上の聖書箇所は宮でのイエスの話。
 宮には、神をお参りするためのたくさんの人がごったえしている。
 中には、献金した額が大きければいいと思っている人もいる(レプタのやもめの例え話参照)。
 いろいろな人が宮にいる。

 イエスは彼らに仰る。
 「わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです」。
 宮で神をお参りしている者達よ、あなた方は神を知らないではないか。
 誰をお参りしているのです?

 しかしイエスはその前に、こうも仰っている。
 「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています」。
 目の前にいるこの私は、もちろん知っているでしょう。
 「どこから来たか」、それも分かってますね。
 ただ、あなたがたには「どこ」が分からないのです。

 だから神にお参りに来た者達よ、私を通して神を知りなさい。

 ところで私は、神を見たことがない。触れたことも、御声を聴いたことも。
(こういうことを体験したと言う一群がいるが、警戒すること。)
 私に遺されたものは、聖書だ。
 四つの福音書は、イエスの言動を直接伝えてくれる。
 イエスに直接触れた人々の手による書簡群が、それを補強する。
 そして黙示録は、イエスについての希望を伝えてくれる。
 この聖書、わけても福音書によってイエスを知り、そのイエスを経由して神を知ることができる。
 そして、次のように聖書には書いてある。

 「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:3)


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備え

 「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。
……
 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
……
 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。
……
 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(マタイ24:45-46,25:1-4,13,19-23)

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 三つの例え話を強引に縮めて並べたことを、お許し頂きたい。
 この三つの例え話は、主題が共通している。
 「備え」ということだ。

 主人が留守でも忠実に働くしもべ、このしもべは、主人の帰りに備えている。
 賢い娘は、もしものために予備の油を備えていた。
 タラントは、個々人に神が備えてくださった能力を指す。

 「備え」の間、主人は不在である。
 さぼろうと思えばいくらでもさぼることができる。
 飲んだくれていたって、主人の目は届かない。
 だが、備えの油の力でタラント分の能力を発揮して、主人がいるときと同じように動く。
 そのことこそ、問われている。
 「目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」

 聖書は「もしも」が来ることを、しつこいほど繰り返す。
 ただ、それがいつかは、イエスですら知らないと仰る。
 今は、「主人がいないとき」だ。
 だから、今、「備え」について問われている。
 間違っても、「その時がいつか」が問われているのではない。


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律法と十字架

 「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。
 私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。
 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。」(ローマ7:4-7)

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 昨年9月8日に、「神の完全なる秩序」という記事を書いた。
 内容が稚拙なので、引用もしなければリンクも張らない。
 書いた事というのは律法についてであって、この神の完全な世界をあこがれ見ても、それらを守り通せる人など誰一人いない、それゆえすべての人が罪を犯しているのである、というようなことだ。
 「姦淫してはならない。」
 イエスが山上の説教で仰った厳格な解釈を施すならば、これ一つすら全く守ることができない。

 この律法に照らし出されて自らの内に罪を見いだし、その人は死ぬ。
 そしてイエスの十字架と軌を一にしてよみがえって罪から解放されて「いのち」を授かる。
(「死者の中からよみがえった方と結ばれて」。)

 「いのち」を授かって、「キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです」、つまり律法への無力さを肌身で知ることとなる。
 律法自体は不変で、とこしえまで存在するものだ。
 だが、律法にあこがれ、または律法遵守を止めることができるようになる。
 ただこれも、自分から止めることができるという類のものではない。キーは十字架だ。

 「律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。」、これは「死ぬ」前の話なのだが、律法がネガティブなものというわけではない。寧ろ「死のために実を結」べば結ぶほど、「よみがえるための死」に近づいてゆく。十字架を背負ってゴルゴダの丘を登るあたりであろうか。

 「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。」
 上に書いたように、死んで罪( sin )から解放されたのであれば、「十字架の死」への印籠を渡してくれた律法は空気のような存在になる。
(「律法に対しては死んでいるのです。」)
 そうすると、「いのち」へのとっかかりを与えてくれる律法はやはり良きもの、素晴らしきものであるから、それが「罪」かと聴けば「絶対にそんなことはありません」と瞬時に答える。


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あきらめないこと

 「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』 彼らは出て行った。
 それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。」(マタイ20:1-9)

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 「1デナリ」というのは、1日を暮らせる分のお金と言われている。
 だから、雇われた人々は正に「日銭を求めて」働いた。

 朝早くに雇われた人々は、その時点で日銭の保証は得られているので、安心だ。
 だが、五時に雇われた人々というのは、日銭を求めて朝から各所をさまよって、それでも職にありつけなかった人々だ。
 三時ごろにもなると、あきらめたくもなるだろう。
 今日あすを、どうやってしのごうか、心配だ。
 腹も減る。
 なげやりになりたくもなる。
 けれども、五時に雇われた人々は、あきらめなかった。なげやりにもならなかった。
 しのいだ。
 それで1デナリの賃金をもらう際に、まず最初にもらったのではなかろうか。
 あきらめなかったことが報われたのだ。

 あきらめなければ、またイエスを信じていれば、次にあるように報われる。

 「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:7)


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自分の十字架

 「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:24-26)

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 「自分の十字架」とは何か。
 随分前の私は、「課せられた役割」というような意味のことを書いたはずだ。
 割と最近の私は、「役割とは違うような気がする」とだけ書いた。

 「自分の十字架」、これは文字通り、それを背負ってゴルゴダの丘に登り、それにはりつけにされて死ぬ、そういう意味ではなかろうか。
 これは自死するという意味では全くない。また、他人によって、または病によって死ぬという意味とも、全く異なる。
 「わたしのためにいのちを失う者」になるべくイエスの道をなぞるために与えられた、正に死するがための十字架だ。
 ちなみに、殉教とかいう意味でも全くない。

 「わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」
 自分の十字架は、いのちを「見いだす」ためのものだ。
 イエスが死んで復活したのと全く同じことだ。

 そのイエスは「ついて来なさい」と仰る。
 イエスは誰をも拒まない。
 そしてイエスは、約束の「いのち」を与えてくださる。
 ただ、そのためには一度「死ななくてはならない」。
 この死には、神が働かれる。間違っても、自分の意志や他人の意志は働かない。
 そして、この死にもイエスは寄り添って下さる。
 かくして「いのち」にあずかる。
 一見、何の代わり映えもしないのだが。

 「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」とあるように、「生きているようで実は『いのち』のない人」というのがたくさんいる。
 それでイエスは、この世に来られた。
 「自分の十字架」の重みを感じる人は、幸いだと思う。


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悲しむイエス

 「彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。
 イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。
……
 そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。
 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。
 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」(マタイ14:10-14,19-23)

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 俳優や歌手といった職業の人をかわいそうに思うことが、私はある。
 自分がふさぎこんでいようとも怒っていようとも、ファンの前ではそのそぶりすらみせることができないからだ。因果な商売だと思う。

 ヘロデ王によって、バステスマのヨハネは首をはねられた。
 その報を聞いたイエスは、「舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた」。
 ただ一人の地上での理解者を失って、ほんとうに悲しかったと思う。
 しかし、群衆はそんなことはお構いなしに、このイエスに群がる。
 ほんとうはイエスは、ひとり寂しい所で祈りたい。
 だがイエスは彼らを深く憐れみ、病を癒し、五千人の給食の奇跡までなさる。イエスは群衆達に、御自身の悲しみを見せなかった。

 ところで私は前々から不思議に思っているのだが、給食の奇跡によって空腹を満たした群衆は、実にあっさりとイエスから離れてくれる。四千人の給食(マタイ15:32-39)でも、全く同様に、あっさりイエスから離れる。
 イエスが与えたいものは「いのちのパン」(ヨハネ6:48)であって、マナのような、それを食べて空腹はしのげても死からは逃れることのできない(ヨハネ6:49)ものではない。
 「五千人(四千人)の給食」というのは、いわばマナを与えるようなものだ。
 緊急措置にすぎない。
 ところが群衆は、この緊急措置を受けて、すっかり満足しきっておとなしく帰る。
 『あなたがたは確かに聞きはするが、
 決して悟らない。
 確かに見てはいるが、決してわからない。
 この民の心は鈍くなり、
 その耳は遠く、
 目はつぶっているからである。
 それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、
 その心で悟って立ち返り、
 わたしにいやされることのないためである。』(マタイ13:14-15)
ということだろうか。

 話を元に戻すと、満腹した群衆はあっさり引き返してくれたので、イエスはようやく山に登ってひとり祈り始められた。
 バステスマのヨハネの死、地上での唯一の理解者の死。
 ひとり祈る中で、イエスは思う存分、悲しさを父に訴えられたと思う。
 もしかすると、不安めいたものもあったかもしれない。

 イエスは、悲しむ。
 しかも、きわめて人間的な理由で。
 「イエスは涙を流された。」(ヨハネ11:35)も、そうだ。


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