心の割礼

 「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(ローマ2:28-29)

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 信仰とは、文字(すなわち律法)を守る営みそれ自体ではない。
 また信仰は、行いを他人に見せびらかすための格好付けでもなければ、ましてや、仲間意識を形成するためのジャーゴンでもない。

 「心の割礼」とは、神から与えられて信じさせられることを指す。有無をも言わさず信じさせられる。
 すなわち信仰とは、人間の行いや努力によって到達するようなものではなく、もっぱら神の主権によっていただくものである。
 この恵みに預かるためには、まずは律法によって罪深さに気付いて苦しみ救われたいと飢え渇くことが大前提であることはいうまでもない。
 言い換えると、私たちは律法によってのみ信仰に追い込まれるのである。

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[一版]2009年 8月22日
[二版]2014年 2月 1日
[三版]2019年 8月18日
[四版]2021年 6月27日(本日)

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『どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか』

 「もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、
 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、
 また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、
 どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。
 姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。
 律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。」(ローマ2:17-23)

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 律法は素晴らしいものだと少なからぬ人々が思っている。私もその一人だ。
 なにしろこの律法は、天の御父が与えてくださったのだ。
 しかしパウロが上のように嫌みを言う対象は、「律法を持つことに安んじ」てしまっている。
 律法を奉じている俺は他の奴らよりもエラいんだと。
 このような人が、「盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師」になりたがる。
 しかし、これこそ、盲人が盲人を導くことに他ならない。
 「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか」、これが全てである。
 律法は、自分の救いのための養育係(参/ガラテヤ3:24)なのであるから、もっぱら自分に適用するためのものであり、律法は自分自身を裁くのである。
 この律法によって初めて、自分が神の御前に罪を犯していることを悟らざるを得なくなる。
 ここが救いのはじまりであり、律法の養育係たる所以である。
 この罪から脱するべく律法を遵守しようとしても、どうしてもできない。
 そうこうして、その人は極刑に相当する重罪人として十字架に死ぬ。
 これが、イエスが切り開いた十字架と復活という救いの道であり、この罪人は、罪人でありながら罪はないとみなされて、今までは断絶していた御父が和解して下さる。
 このとき、御父-御子-私(参/ヨハネ17章)の関係が修復されて救われるのである。

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[一版]2015年 1月25日
[二版]2019年 8月17日
[三版]2021年 6月20日(本日)

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人からの誉れ、神からの誉れ

 「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(ローマ2:28-29)

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 共通の知人について、「あの人は人から褒められたいというのが強い」とある人が評して、確かにそうだなあと思うと同時に、人から褒められたいということ自体について違和感も持った。
 あまり褒められることのない自分も、人からは褒められたいとはやはり思う。
 しかし自分は人からはあまり褒められなくてもいいな、というのが上に書いた違和感である。
 今日もやることをきちんとやる。
 御父からお褒めにあずかり、自分自身もその自分を褒める。
 もっぱら人から褒められるためにやっていたら、その人自身が置き去りになって見失い、その人をお造りになった御父を知ることもないような気がする。

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死んだ日々と生まれ変わった日々

 「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
 彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」(ローマ1:28-32)

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 「彼らが神を知ろうとしたがらない」とあるので、大昔から無神論者はいたのだろう。
 しかし彼らは「死罪に当たる」のであり、そのことを彼ら自身知っているという。
 では、ここでいう死罪とは何であろうか。
 それは神を知ることがなく、虚しく潤いのない日々に幽閉され続けることとでもいえばいいだろうか。
 ソロモン王は「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」(伝12:1)と書き残している。
 秦の始皇帝が遺した兵馬桶や豊臣秀吉の辞世の句なども同じものだと私は思う。

 一方で、復活のイエスが取りなして神と和解できた私たちは、内住の聖霊を宿している。
 私たちは、自分の意志で好き勝手に動いているというよりは、この内住の聖霊によって動かされている。
 これは不自由なことではなく、それどころか、人間生来のあり方としてとても自然なのである。
 上の引用聖句に諸々のことが書かれているが、これらを守るべきものとして守るというよりも、単にそうであることが自然なのである。
 人は神のもとで生きるようにできており、罪赦されて神と和解することによって、失われていた自分、潤いのある自分を取り戻すことができるのである。

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[一版]2019年 8月15日
[二版]2021年 3月13日(本日)

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知者であると言いながら愚かな者

 「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。
 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」(ローマ1:18-23)

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 もし、神の存在を理詰めで証明するとしたら、どのような筋道でならうまくいくだろう。
 自分なら書き始めでつまづいてしまうだろう。一行も書けない。
 頭とか観念だけで神を認めようとするのは、非常に無理がある。
 それらとは違うところ、心とか魂が、神を求め神と出会うのである。

 近代以降、人々は頭でっかちになってしまった。頭ですべてを統御できると思っている。
 この頭は、自分の認識の外にある神を認めようとしない。
 しかしゲーテは、1772年という時点で既に「頭がすべてだと考えている人間の哀れさよ!」と書いている。
 頭が全てになると、その人の中で、頭と心(魂)とが分離してしまう。
 熱エネルギーを用いて巨大な機関車を自在に動かせても、自分の気持ち一つ分からなくなる。
 それが「知者であると言いながら、愚かな者」ということである。
 まったく愚かしい。これは我が身を省みてもそう思う。

 この、分離してしまった頭と心との調和を取り戻すには、どうしたらいいだろう。
 絶対的な存在を認めることは、とても大切なことだ。
 頭では認識できないが全人格的に認めざるを得ない、そういうことがある。
 それがイエスとの出会いなのである。
 極刑に死んだが復活した赦し主イエスとの出会いによって、この絶対的存在を認めざるを得なくなり、その結果、調和が取り戻される。
 このときに、頭が絶対者なのではないことに、否応なしに気付かされるのである。実際、この出会いに頭は何の役にも立たなかった。

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[一版]2017年 9月17日
[二版]2019年 8月14日
[三版]2021年 6月 6日(本日)

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