新たに生まれることの恵み

 「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:1-8)

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 ニコデモのあいさつに対して、イエスはあいさつでは返さない。
 「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。
 指導者ニコデモは、返す。「もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」。

 この「もう一度母の胎」というのは、なかなかの名言だと思うことがある。
 これは要するに、人生をやり直したい、やり直すことができるならば、ということで、うまくいかないとき、誰でも思う発想だろう。

 だが、こと「神の国」ということについては、そういうわけにはいかない。
 議員ニコデモは、「神の国」について分からなくなってしまって、それで自分より二回りも年下のイエスの下を訪れている。
 ニコデモの発想は、この「神の国」を見失ったので、人生をやり直せばいいのでしょうか、というところにある。
 それに対してイエスは仰る。「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」。
 アダムの肉がそのままである限りは、何度やり直しても変わるところはないということだ。
 なので、やり直しは意味がない。

 しかし、イエスはこうも仰る。「水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」。
 これは新しく生まれる、ということの言い直しである。
 さらに仰る。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」。
 風の音自体は耳にするのだが、風の在処は全く分からない。
 「御霊」もそれと同じで、確かにあるらしいのだが、それをどうやっても捕らえることはできない。
 「新しく生まれる」、「水と御霊によって生まれる」とは、そういうことで、つかみようのないものをつかまえるようなものだ。

 だから、神の国(いのち)のためには、恵みによって「風」が自分を捕らえるのを、ただ受動的に待つ以外にない。
 「風よ来い!」と命じたところで、けっして来ない。
 「待つ」と言葉にした途端、もう「風」と縁遠くなるだろう。
 しかし、この「風」を一身に浴びると、アダムの肉はアダムの肉のままに赦されて「いのち」を授かることができる。
 このアダムの肉というのは、いずれ滅びる。
 だがこれが滅びても、頂いたいのちが残る。
 そうであるならば、「いのち」をもっていなかったとしたら、その人はどうであろうか。

 この「いのち」を得るには新たに生まれることが必要であり、やり直すことによっては得ることはできない。
(「新たに生まれ」たからこその「いのち」である。)
 御霊という捕らえようのない「風」に捕らわれることによってのみ、新たに生まれ変わることができる。
 これは復活のイエスが与えてくださるもので、それが与えられたならばそれが大きな恵みである。
 「恵み」という語句は、この意味でのみ用いられるものだと考えている。

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[付記]
 本日の記事は、2007年11月4日の記事を大幅に書き直したものです。
 タイトルも改題しました。

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わたしは渇く

 「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(ヨハネ19:28-30)

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 十字架のイエスを描写する箇所。

 この箇所について、2006年9月22日に「十字架について今思うところ」という記事を書いた(こちら)。
 今読み直すと、お恥ずかしい限りだ。

 さてイエスは常々、人々にこう呼びかけてきた。
 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)
 渇ききっている人々に呼びかけ続け、枯れない水が内から流れ出ることを保証した。

 そのイエスが、満ち満ちていてそれを分け与えることのできるイエスが、十字架の上でこう仰った。
 「わたしは渇く」。
 十字架の上で、イエスはこころの飢え乾きを覚えられた。
 人々が抱えているこころの飢え乾きと同じものだ。

 今、神が死のうとしている。
 あくまでアダムの肉をまとった人間として、死に往こうとしている。
 それは、そのアダムの肉自体を処罰するためだ(ローマ8:3)。
 そのことが、人を救い渇きを癒す。
 その処罰が「完了」して、肉としてのイエスは死ぬ。
 そしてイエスの復活は、そのアダムの肉を処罰してなお生きるということ、このことの初穂、また、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)とイエス御自身が仰ったことの成就である。

 神であられるイエスは、人として死ぬ間際に、人間の味わう様々な辛さを実体験しておられる。
 「私は渇く」は、その最たるものだろう。
 だからこそ、イエスは人間の弱みを、我が身を持ってご存じであられる。
(「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」ヘブル2:18)

 イエスは、人間の渇きを実体験してご存じの上で、今も「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と呼びかけている。
 その道はイエスによって、既に切り開かれている。

---
[付記]
 本日の記事は、2007年12月6日の記事に加筆修正を施したものです。
 もうしばらくデフラグ作業が続きそうです。

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油注がれると

 「サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。」(1サムエル16:13)

 「指揮者のために。八弦の立琴に合わせて。ダビデの賛歌
 主よ。御怒りで私を責めないでください。
 激しい憤りで私を懲らしめないでください。
 主よ。私をあわれんでください。
 私は衰えております。
 主よ。私をいやしてください。
 私の骨は恐れおののいています。
 私のたましいはただ、恐れおののいています。
 主よ。いつまでですか。あなたは。」(詩6:枕-3)

---

 今日は二箇所から。
 最初は、少年ダビデがサムエルによって油注がれた箇所。
 旧約にいう「油注がれた」というのが新約にはどのような概念に対応するのか(または対応する概念はないのか)、私には分からない。
 ともかくダビデは、幼くして油注がれた。

 次に詩篇第6篇。
 「あわれんでください」、「衰えております」、「いやしてください」、「恐れおののいています」、「いつまでですか」……。
 油注がれた者というと、順風万般とか天下太平とか、あるいは力強い、自信満々、恐い者なしといったイメージがある。
 しかし、油注がれたダビデは、そういうイメージとは全く逆のことを詠っている。

 さて、話を新約に。
 「いのち」でも「救い」でも「回心」でも、言葉は何でもいいと思うが、そういうことがあったからといって、あとは順風万般、悩み知らず、全てうまくいくということでは凡そない。
 そのことは、上のダビデの詩からも明らかだと思う。
 苦しみのない人生というのは、ない。
 ただ、「いのち」(このことばに代表させよう)があると、なんというか、たくましくなると思う。
 タフというか。
 根は変わらないのだが(あたりまえだ。急に品行方正になどなるものか)、脈々と力強い何かが流れているような、と言えばいいだろうか。
 イエスはこれを、いのちのパン(ヨハネ6:48)、生ける水の川(ヨハネ7:38)と例えている。
 そういうものをイエスから頂いても、悩み苦しみがあることは相変わらずだ。
 そして、今まで同様、いや、今まで以上に、 「あわれんでください」、「衰えております」、「いやしてください」、「恐れおののいています」、「いつまでですか」と、もっぱらイエスに祈るのである。

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[付記]
 本日の記事は、2007年10月2日の記事に若干の修正を施したものです。

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自分の十字架

 「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:24-26)

---

 「自分の十字架」とは何か。
 随分前の私は、「課せられた役割」というような意味のことを書いたはずだ。
 割と最近の私は、「役割とは違うような気がする」とだけ書いた。

 「自分の十字架」、これは文字通り、それを背負ってゴルゴダの丘に登り、それにはりつけにされて死ぬ、そういう意味ではなかろうか。
 これは自死するという意味では全くない。
 また、殺されたり、また病死するという意味とも、全く異なる。
 「わたしのためにいのちを失う者」になるべくイエスの道をなぞるために与えられた、正に死するがための十字架だ。
 ちなみに、殉教とかいう意味でも、全くない。

 「わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」
 自分の十字架は、いのちを「見いだす」ためのものなのだった。
 それはイエスが死んで復活したのと全く同じことだ。

 そのイエスは「ついて来なさい」と仰る。
 このイエスは誰をも拒まない。
 そしてイエスは、約束の「いのち」を与えてくださる。
 ただ、そのためには一度「死ななくてはならない」。
 この死には、神が働かれるものである。自分の意志や他人の意志によってでは、ない。
 そしてイエスがそうであったように、復活して「いのち」にあずかる。
 その人は一見、何の変化も見られないのだが。

 「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」とあるように、「生きているようで実は『いのち』のない人」というのがたくさんいる。
 それでイエスは、「まことのいのち」を与えるためにこの世に来られた。
 だから、「自分の十字架」の重みを感じる人は、幸いだと思う。

---
[付記]
 本日の記事は、2007年7月23日の記事に若干の修正を施したものです。
 デフラグ作業も、もう少しです。

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よみがえり

 「イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」(ヨハネ11:23-27)

---

 ラザロが死んで墓に葬られた後、イエス達は残された姉妹マルタ・マリアのところに来られた。

 イエスは仰る。
 「わたしは、よみがえりです。いのちです」。
 聖書というのはこれだけ分厚いのだけれども、要約してしまうと、上のひとことだけになるような気がする。
 キリストはよみがえった。
 そしてすべての人が死んでいても、その中で御自身を信じる人をよみがえらせることができるお方だ。
 よみがえるとは、キリストによって、「死」から「いのち」へと移されることを指す。
 不老不死の類の話などではない。

 ただ、イエスが身をもって道筋を示してくださったように、よみがえる前には十字架(最高刑)の苦しみと、続くよみの状態がある。
 ラザロも、上の聖書箇所では、墓の中で眠っているさなかにある。
 よみがえるには、どうしてもそのようなところを通り抜ける必要がある。
 生まれ変わるのだ、よみがえるためにはいったんは、「死ぬ」。

---
[付記]
 本日の記事は、2007年9月29日の記事に少々の変更を施したものです。
 デフラグ作業がまだ続きます。

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ヨブ記のすごみ

 「あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。
 あなたには神のような腕があるのか。神のような声で雷鳴をとどろき渡らせるのか。」(ヨブ40:8-9)

---

 ヨブ記。
 この大部作を何度読んでも、もののみごとにさっぱり訳が分からない。
 何人もの人物が登場するのだが、ヨブも含めてどの人の言っていることにも一理あるように思えて、するとこの書物は何を言いたいのか、ますますさっぱり分からなくなってしまう。

 ここで、ヨブ記のプロットを記そう。

 1章:幕開け
 2-31章:四人の友とヨブとの「とんちんかんなやりとり」
 32-37章:エリフ乱入、滔々とヨブに「説教」
 38-41章:神が孤独なヨブを容赦なく「メッタ斬り」
 42章:ヨブの「真の悔い改め」、そして幕引き

 冒頭の聖句は、上に書いた神の「メッタ斬り」、その中でも、これが際だって情け容赦ない、そう私が感じた箇所だ。
 この厳父・神と対峙して、一体誰が耐えられようか。

 そしてヨブは、「一点」、そこで「真の悔い改め」に至る。
 この「一点」までの、その長いこと長いこと。
 もっぱらその「一点」に至るまでを綴った書物、それがヨブ記であり、一言一言の解釈それ自体というのは本質から外れる、今の私はそう理解している。
 「たったひとつのこと」を説明するがための大部作、それがヨブ記だ。

 四人の友と「とんちんかんなやりとり」をやっている頃のヨブは、言われると、かえってかたくなになってしまう。
 一箇所だけ取り上げて例証するならば、「ヨブはまた、自分の格言を取り上げて言った」(27:1)。
 「自分の格言」という頑固さを丸出しにするヨブ。
 しかしヨブは、ここを通り抜け「一点」を迎えて、生まれ変わった。

 このヨブ記を丹念に読むということは、今後私はしないだろう。
 だが、今の私はヨブ記を最も身近なパートナーだと位置づけている。

---

[付記]
 本日の記事の初出は2006年9月17日、それに大きく修正を施して2007年7月13日に再び出し、更に修正して、本日、みたび出すものです。
 デフラグ作業は続きます。

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苦しみののちの完全

 「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
 どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」(1ペテロ5:10-11)

---

 世界はすべて、神の御支配の下にある。
 その神は、「あらゆる恵みに満ち」ておられる。
 どれくらい恵み豊かなのかというと、キリストの十字架という「しばらくの苦しみ」の下に私たちを置かれるほどだ。

 神の子・キリストは、十字架の苦難に遭われた。
 苦しみの期間は短かったが、文字通り苦難であった。
 この苦難は、私たちのためにキリストが受けたものだ。
 私たちのために、というのは、道なきところにキリストが道を切り開いてくださって、私たちがその後をついて行けるようにして下さったからだ。
 この道こそ、十字架の道である。

 私たちが十字架に架かることは、ありえない。
 また、何もしないで絞首刑等に処せられるということも、ない。
 だが、恵まれた人は、キリストの十字架の苦しみ、あの狭い道を通る。
 その期間は長い。少なくともキリストよりはるかに長い。
 アウグスティヌスは一体どれだけの期間、苦しみ抜いたことだろうか。
 そのアウグスティヌスにとっての「とどめ」は、ロマ書13:14。
 彼はこの聖句を、100回は読んでいただろうが、ほんとうに入った、分かったのは、苦しみが頂点に達した時の101回目だ。
 彼のこの道程こそ、「自分の十字架」を全うするということだ。
 キリストが切り開いた狭き道を、アウグスティヌスは無事通り抜けた。

 キリストは十字架に死に三日目に復活する。
 それと同様に、狭き道を通る苦しみの後には、「完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者」といった類の、ある種の変容がある。
 外形上、表面上は、ものの見事に何の変化もない
 しかし、決定的に異なる変化がある。
 「いのち」の有無だ。
 たしかにそれは、ある地点に堅く立っており、タフで、そして不動だ。
 イエスは、この「いのち」を与えるために十字架に死に復活された。

 苦しみを通り抜けたところにこそ「いのち」がある、ということ。
 その苦しみは短くはない、ということ。
 その苦しみを自分の十字架として、きちんと背負うということ。
 先が見えないようだがゴールがきちんと用意されていることは、イエスが御自身の歩みをもって教えて下さっている。
 この狭き道を見いだすということは、ただ神の恵みによる。

---
[付記]
 本日の記事は、2007年8月5日の記事に大幅に手を加えたものです。
 デフラグ作業は続きます。

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律法と十字架

 「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。
 私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。
 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。」(ローマ7:4-7)

---

 2006年9月8日に、「神の完全なる秩序」という記事を書いた。
 内容が稚拙なので、引用もしなければリンクも張らない。
 書いた事というのは律法についてであって、この神の完全な世界をあこがれ見ても、それらを守り通せる人など誰一人いない、それゆえすべての人が罪を犯しているのである、というようなことだ。
 「姦淫してはならない。」
 イエスが山上の説教で仰った厳格な解釈によれば、アダムの肉を持つ人間はこれ一つすら全く守ることができない。

 「律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました」、これは「死ぬ」前の話なのだが、律法が忌まわしいものというわけではない。寧ろ律法によって「死のために実を結」べば結ぶほど、「よみがえるためのアダムの肉の死」に近づいてゆく。十字架を背負ってゴルゴダの丘を登るあたりであろうか。

 そうして律法に照らし出されて自らの内に罪を見いだしたその人は死に、イエスの十字架と軌を一にしてよみがえり、罪赦されて「いのち」を授かる。
(「死者の中からよみがえった方と結ばれて」。)

 「いのち」を授かることによって、「キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです」、つまり律法への無力さを肌身で知ることとなる。
 律法自体は不変で、とこしえまで存在するものだ。
 だが、律法にあこがれ、または律法を遵守しようとすることからは、解き放たれる。
 なぜなら十字架によって、罪深いアダムの肉から解放されたからだ。
 アダムの肉から解放されたのであれば、罪を定めるための律法にはもはや反応しない。
 「しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」とあるとおりだ。

 「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。」
 上に書いたように、死んで罪( sin )から解放されたのであれば、「十字架の死」への印籠を渡してくれた律法は空気のような存在になる。
 そうすると、「いのち」へのとっかかりを与えてくれる律法はやはり良きもの、素晴らしきものであるから、それが「罪」かと聴けば「絶対にそんなことはありません」と瞬時に答える。

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[付記]
 本日の記事は、2006年7月25日の記事に大幅に手を加えたものです。

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神の完全なる秩序(その2)

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)

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 最初の人アダムは、「善悪の知識の実」を食べてしまった(創3:6-7)。
 「善悪についての判断」を身につけた人間が、ほとんどの場合において悪の側にばかり走ったことは、旧約聖書をざっと斜め読みするだけで一目瞭然だろう。
 人間は、アダムの肉を身にまとってしまった。
 そんな人間のために、神はモーセを通して数々の律法を授けた。
 その大支柱とでもいうべきものが、十戒(出20:1-17)だ。

 この十戒に始まる律法群を守り行うことは、およそ不可能と思う。
 更に、「山上の説教」。

 「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:17-28)

 律法(「姦淫してはならない」)というものは、実にここまで厳格適用されるべきもの、イエスはそう説いてように見える。

 「 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39)

 聖書を小馬鹿にする類の人々は、この箇所をあげつらう。
 彼らが考えるとおり、確かに左の頬を向けることは、できない。
 情けないほど、できない。
 神の秩序、神の善の基準というのは、そこまでも徹底して完全なものだ。

 であるから、律法それ自体を守り行うことというのは、上に見た山上の説教のいくつかを見てきただけでも、およそ実行不可能だと言うことが痛いほど身に染みてくる。
 パウロは書いている。

 「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)

 実に人は、罪深い存在にすぎない。
 そのことに人を気付かせる(追い込ませる)がための「完全な律法」なのだ。イエスは、この「律法を成就」するために来られた。
 ここで、「罪」とは英語で sin であり、 guilty ではない。「罪悪感」の「罪」 ( guilty ) とは別物だ。

 この律法に照らされて、自身の罪があぶりだされる。
 イエスは、このあぶりだされた罪を神の御前に赦すための十字架に架かって下さった。
 アダムの肉を処罰するための十字架だ。
 そうすると、この罪は指弾するために存在する概念ではなく、解放されるがための概念とも言えるのかも知れない。

 神の完全なる秩序・成就された律法と十字架は、ペアである。

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[付記]
 本日の記事の初出は2006年9月8日で、翌2007年6月30日に大幅な修正を加え、今回、更に小変更を施しました。

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アダムの肉

 「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。
 神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:1-4)

---

 律法は素晴らしいものだ。
 ただ、この神の律法、完璧な律法を守ること、守り通すことが、人間にはどうしてもできない。
 というのも、人間にはアダムの肉が備わっているからだ。
 アダムの肉は、神の定めた律法を完遂しようとしてもできない、罪深い存在だ。
 聖書にはこのことについて、「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました」と書かれている。

 無力なアダムの肉の代わりに、何を「神はしてくださ」ったのだろうか。
 「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです」。
 神の子イエスにアダムの肉を被せて、その上で世にお遣わしになった。
 「人間・イエス」。
 人間・イエスは、処罰されるがために、この世に来られた。
 神がまとったアダムの肉は、最も罪深い人物として十字架の上で徹底的に処罰された。
 神が下した処罰だ。
 では、何を処罰したのだろう?
 イエス、ではなく、アダムの肉、これを処罰された。

 「アダムの肉の処罰」、これが「腑に落ちたとき」、その人のアダムの肉も処罰される。
 そのときに、「律法の要求が全うされる」、すなわち、律法に照らして罪( sin )はないとみなされる。
 実際には罪は、ある。
 だが、ないと「みなされる」。
 彼の「救い」だ。
 アダムの肉は処罰され、罪と死の原理から解放された。
 「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」。
 処罰されたアダムの肉を持ち続けていても無罪だ。安んじてよい。

 そういうわけで、アダムの肉は、自分で処理しようとしても、けっしてできず、どうしても、「処罰され」る類のものだ。
 だから、修行の類は、この「処罰」に関しては全く無意味だ。

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[付記]
 本日の記事は、2007年9月12日の記事に修正を施したものです。
 今日からしばらく、総まとめ(というかデフラグ)を行います。

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