さばかずにいられるか

 「さばいてはいけません。さばかれないためです。
 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」(マタイ7:1-2)

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 山上の説教でのイエスの律法。

 私たちはいったい、人をさばくことをやめることなどできるのだろうか。
 アダムは神の命令に反して善悪の知識の実を食し、目が開かれてしまった(創2:16-3:7)。
 善悪を知った以上、その善悪を他人に適用することはごく自然のことだ。
 そのアダムの肉の罪深さを、イエスはここでも指弾している。

 それでも私たちは、この神の掟に従って、人をさばかないことをどこまでも追求するのである。
 心に思ってすら、掟に反する。
 そして、律法の神々しさとそれを守ることのできない事実に激しい葛藤を起こす。
 守れるどころか、全く守ることができない自らの姿に気付いて絶望するとき、その人に神の恵みが降り注ぐ。
 人をさばいてばかりの私たちはそのとき、十字架と復活のイエスゆえに義とみなされる。
 人をさばいてなどいない、そう神にみなされるのである。
 ここに、私たちの内のアダムの肉は、神によって赦されたのである。
 イエスを仲介者とした、御父と私たちとの和解がなされる。

 律法を完全に遵守することによっては救われない。
 到底できないからだ。誰一人救われようがない。
 イエスがやってこられたのは、律法を守れない肉を救うためである。
 そのアダムの肉を処刑する十字架と、肉の処理がよしとされた復活。
 このイエスの十字架と復活を恵みによって信じることが、私たちにできる唯一のよきことである。

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急がば回れ

 「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:31-33)

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 私たちは二者択一を迫られている。
 飲み食いを専ら追い求めるか。
 「神の国とその義」を第一に求めるか。

 神の国とその義とは、御父との和解を追い求めることであり、アダムの肉に苦しむ私たち自身が救われるのを追い求めることである。
 アダムの肉は神の国とその義とは相容れず(アダムは神のいいつけを破った)、自らをお造りになった方との間で不整合、大きな葛藤が生じてしまった。
 私たちが「神の国とその義」を第一に求めるとは、この不整合、葛藤がなくなることを願うということであり、御父との和解とそれによってもたらされるこころの安らぎを求めるということである。

 「神の国とその義」を第一に求めることによって、「そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とイエスは仰るが、これは実際そうなのである。
 パフォーマンスが低いままで飲み食いを求めるか、高いパフォーマンスで飲み食いを求めるか、そういう違いに例えると卑近だが、御父との和解によって本来のパフォーマンスが取り戻されてゆくのは確かなことだ。
 「そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

 人は飲み食いなくして生きてゆけないが、急がば回れで第一にどうしてもやるべきことが人にはある。

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野のゆりとソロモン

 「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」(マタイ6:28-31)

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 肉を持つ私たちは、どうしてもソロモンの栄華絢爛の方に目がいってしまう。
 ソロモンの繁栄、イスラエル王国の絶頂期。
 ここで、以前に書いたものを引用する。

 『ソロモンは賢王で、イスラエル王国に繁栄をもたらした。
 「ソロモンの栄華」というやつだが、一方で彼は、伝道者の書(コヘレトの言葉)で「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」(1:2)と虚しさをむき出しにする。
 ソロモンは全世界を手に入れたかも知れないが、まことのいのちを損なってしまったのである。』
(以上2010年7月18日付より。)

 そこでイエスは、働きもせず紡ぎもせず、明日には燃やされてしまうような野のゆりの方を「神はこれほどに装ってくださる」と言う。
 神が恵まれた花の美しさは、ソロモンの虚栄とは比較にもならない。
 そして、野のゆりと同じように、神は「いのち」そのものをイエスを通して私たちに恵んでくださる。
 それがあれば、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」を思い悩む必要もない。
 何故かというと、「いのち」とはそれらを自分で調達できる力、生きる力といっていいからだ。

 私たちは生きること、生ききることが大切なのであって、資産の大きさを競うために生きているのではない。後者こそ正にマモニズムである。
 私たちが何もできない者であっても、虚しさなく生きることができるよう、求める者に神は等しく必要なものを恵んでくださるのである。

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あなたのうちの光

 「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」(マタイ6:22-23)

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 イエスが行った山上の説教の中での一節。
 長い間、私はこの箇所の意味が全く分からなかった。
 今も分かっているとはとても言いがたい。
 それでも、こういうことでは…? というのを書いてゆこう。

 「目」というのは、「全身」へと光を導き入れる採光窓のようなものだ。
 目が明るければ全身が明るいし、目が暗ければ全身は暗い。

 次にイエスはこう仰る。
 「もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」。
 今まで用いてきた「全身」ということばではなく、「あなたのうち」という言葉が用いられている。
 だから、採光窓としての目の話から切り替わっている。
 というより、目の話は単なる導入にすぎない。
 「もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」。

 「あなたのうちの光」。
 これが私たちの中で光放たなければ、その暗さは耐え難い。
 福音書の登場人物で言うと、ニコデモ、彼がこの暗さに絶望している。
 その点ではどの人もニコデモとなんら変わるところはない。
 その暗さ自体に気付いていないところが、ニコデモとの違いだろう。

 「あなたのうちの光」、それは「いのち」だ。
 この「いのち」の光が、内側から輝く。
 内側から輝くいのちの光が、体内を明るく照らす。
 イエスは、すべての人が失ってしまっているこの「いのち」を与えるために、この世に来られた。

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[付記]

 記事の更新履歴。
 [一版]2007年11月18日
 [二版]2010年 5月 4日
 [三版]2012年 1月15日(本日)
 その都度筆を入れました。

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七度を七十倍するまで

 「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ6:14-15)

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 ここでイエスが言っているのは、やはり行ないについてである。
 「人の過ちを赦す」という行ないを果たすことができれば神から赦され、そうでなければ赦されない。
 山上の説教での今までの箇所と同じように、ここでも「人の過ちを赦す」とはどういうことかが暗黙の内に問われている。

 「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」(マタイ18:21-22)

 アダムの肉に果たして、「七度を七十倍」ができるだろうか。
 律法は遵守することで救われるためにあるのではなく、白旗を揚げて降参し、どうしても遵守できない罪人であることを否応なく認めざるを得なくなる、そのためのものなのである。

 そのように律法が人を罪の認識に追い込む。
 そして「私は罪人である」ということに気付かされて初めて、私たちはイエスがどうしても必要になる。

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天の父が完全なように、完全でありなさい

 「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:43-48)

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 神はあなたの上にもあなたの敵の上にも、太陽を昇らせ雨を降らせる。
 まったく分け隔てがない。
 あなたもあなたの敵も、またあなたを迫害する者も、神が等しく愛しておられる。
 それは「天の父が完全」だからに他ならない。

 私たちはそれと同じように「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」とできるだろうか。
 アダムの肉を持つ無力な私たちが、自分を迫害する者を愛せるだろうか。
 一瞬でも、人を憎むことなく暮らせるだろうか。
 私たちは、果たして神だろうか。完全だろうか。

 「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」というのは、そういうわけで究極の律法である。
 私たちの肉は、愛憎ということばもあるように、ある人を愛すると同時にその人を憎みさえするが、そのような肉ある私たちであっても、律法によって救われるためには神に等しい完全さを行なわなくてはならない、イエスはここでそう律法を教えている。

 だから、自分を憎み迫害する者を愛してゆこう。
 そのことで神の完全さに近づいてゆこう。
 おそらく私たちはぼろぼろになるに違いない。
 だが十字架のイエスがそこでぼろぼろの私たちを待っていて、共に復活してくださるのである。

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目には目で

 「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」(マタイ5:38-41)

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 「目には目で、歯には歯で。」は、出エジプト記中の「しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。目には目。歯には歯。手には手。足には足。」(21:33-34)より。
 目に被害があっても殺傷まではするな、目までならよろしいという旨だと思う。

 律法の字づらは、行ない、それも表面上の行ないを問題としている。
 やられたから「目を」つぶしてしまえという表面上のことは復讐心に由来する。
 しかしイエスを通した律法は、「手向かわない」といううわべの行いそれ自体よりも、復讐心、手向かう心そのものを射程に含めている。

 イエスは律法をここまで突き詰めて、あなたは果たして律法を遵守しているといえるのか? と私たちに問い続けている。
 このイエスの問いに接する復讐心だらけの自分は、たとえ実際に復讐をしたことはなくとも、神の目に照らした自分の罪深さに気付かされ愕然とするのである。
 そしてイエスは私たち全員に、愕然とさせたいのだ。

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[付記]

 [一版]2008年 7月12日
 [二版]2010年 5月 1日
 [三版]2012年 1月 8日(本日)

 大幅に加筆修正しました。

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偽りの誓いについて

 「さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
 地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
 あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。
 だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」(マタイ5:33-37)

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 山上の説教より。

 イエスは決して誓うなとまで徹底させる。
 天に誓って--する、地に誓って--する、聖都に誓って--する。
 ここまでおおげさでなくとも、今も暗黙裏に何かを担保にして誓うことは非常に多い。
 だが、その担保(天や地や聖都、その類)は果たして、私たちのものなのだろうか。
 天に誓って--する、と誓うときの「天」は、私の何らかを根拠付けるものでは全くない。
 私たちは「天」をほんの少しでも動かすことができるのだろうか。端的に、無関係なのだ。
 であるから、これら無担保の誓いは、誓ったその時点で根拠のない偽りの誓いとなってしまう。
 つまり、「あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできない」人間が頭を指して誓っても、それ自体偽りなのだ。

 そうなると、私たちができる態度は従うことだけだ。
 「『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』と」。
 だが、私たちアダムの子孫がこの究極の従順の姿勢を果たして取ることができるだろうか。
 先祖アダムは神の命令に反して善悪の知識の実を食し、それによって人に罪が入り込んだ。
 ここでもイエスは、そのようなあなたがたは本来の律法を全うすることはできない、と説いているのである。

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姦淫してはならない

 「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」(マタイ5:27-30)

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 「姦淫してはならない」は、「殺してはならない」同様、十戒にある戒め(出20:14)。

 私は実際に姦淫を犯したことはない。
 だが、情欲をいだいて女性を見ることなど、数知れない。

 「姦淫してはならない」という律法そのものを守ることは、実にたやすい。
 だが、「すでに心の中で姦淫を犯したのです。」という徹底的なイエスの律法解釈を耳にして、私はいつも、したたかつまずいてしまうのである。
 さくじつも、「殺してはならない」について、同じ意味のことを書いた。
 どの律法を持ってきても、イエスを通すとおなじになる。守れないのだ。
 イエスを通した律法は、もっぱら人間の性質を問題としているからである。

 そうすると、律法違反とならないためには、まずは違反の実行犯である右手右目を捨てるしかない。
 左手、左足も。
 だが、アダムの肉は依然として不自由極まりない。
 そうやって全てを捨てざるを得なくなったときに初めて、必要な全てをいただいて、からだ全体ゲヘナへの恐怖から脱して「いのち」に生きることができるようになる。
 必要な全てとは、十字架と復活、その意味である。

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 本日の記事の履歴。
  [一版]2008年 7月11日
  [二版]2012年 1月 3日(本日)
 筆を入れました。

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律法の解釈

 「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、
 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。
 あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。
 まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。」(マタイ5:21-26)

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 十戒の一つ、「人を殺してはならない」(出20:13)について。

 私はかつて人をあやめたことは、一度もない。
 だが、日々人に腹を立て侮辱する私は、イエスによれば殺人罪を免れない。
 仲直りしようと出向いた先で捕らえられ、牢にぶちこまれる。

 私たちはかつて人をあやめたことは、一度もない。
 だが、イエスによれば私たちの内から殺人罪を逃れる者は一人もいない。
 私たちは今、牢にぶち込まれており、不自由極まりない。
 イエスによれば、アダムの肉を持つ私たちはみな例外なく罪人なのである。

 そのことが全くわからない抜けた人間もいる。
 「この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」(マタイ19:20)

 律法に照らして自分が罪人であると気付くことが、この不自由からの解放への第一歩となる。

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