助けることのできるお方

 ヒルティ、「眠られぬ夜のために 第一部」(草間・大和訳、岩波文庫)、5月26日の項より。

 「人は原則として、助けることのできるお方に訴えねばならない。人間に向かって訴えるべきではない。人間はしばしば他人を助けることができないし、またそれを欲しないことが多い。しかも、ほとんどつねに、人を助けることには多少とも恐れか、嫌悪を覚える者である。」

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 ある動機あって、「解説」を読んでみようと思い立った。
 どうもつまらないので、本全体をなんとなくぱらぱらとめくることに。
 すると、上の言葉に接した。
 ほんとにその通りだな、しみじみ思う

 じゃあ、ヒルティは「人助け」を全くしなかったかというと全然そんなことはなく、どこぞの少女の生活費を長期にわたって出したり、「100年前の救世軍」の「人助け」メソッドに感じ入っている。

 人に助けを求めると、癒着構造に陥ってしまう。
 すると、助けを求めたつもりが却って自らの脚力が落ちる結果になったりしてしまう。
 また、助ける側も、フロイトが編み出した「訓練」(めちゃめちゃしんどいと聞いた)を余程受けていないと、盲人が盲人の道案内をする恰好となってしまって、案内役側も苦しくなってしまう。
 つまり、互いにとってアンハッピーな癒着構造。

 「絶えず祈りなさい。」(1テサロニケ5:17)。

 以前、このパウロの言を「命令」の類と考え、「祈り続けることこそ生きること」だと思っていた時期があった。
 今は寧ろ、「パウロが遺した人生訓」の類に、受け取っている。
 「命令」されたからでも何でもなく、「絶えず祈って」いる自分に気付く。
 「そこ」ならば、寄りかかってもアンハッピー構造になることはない。
 寧ろ、ハッピーだ。

 「人は原則として、助けることのできるお方に訴えねばならない。」
 けだし名言と感じ入る。
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正しい人と罪人

 「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:9-13)

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 ここを読んでいて、10節で引っかかった。
 「取税人や罪人」。
 「取税人」とは、そういう職業の人、謂わば肩書き。
 「罪人」これは、肩書きなどではない。単なる罵詈雑言。
 なぜゆえに、両者が並記されている?
 そして、「罪人」なる罵詈雑言を浴びせかけたのは誰か?
 実に。「正しい」人、「パリサイ人たち」ではないか。
 パリサイ人は、自分が「正しい人」たらんとする人種である(ルカ18:9-14に顕著に表れている)。
 よーするに、「正しきパリサイ人」は、自分がクズと思っている連中を専ら「罪人」と呼んでいて、そのクズどもの中でも、肩書きからしてクズ、そんなやつを特に「取税人」と呼んでいるのだろうな、そう思い至った。
 基準は「正しき自分」にあり、神などではない。
 そして、そんなことばっかり考えるやつに、ろくな者はいない。

 自らを「正しい」と思う輩こそ、実は一番手に負えない。
 ただ、そのことに自ら気付いたとき、その人は「正しい人」転じて「罪人」と堕す。
 もう、まっしぐら。
 自覚できるかどうか、そこが大きな分岐点のように思う。

 そして、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」に突き当たったとき、私は泣きそうになってしまった。
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山上の説教より(2)

「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」(マタイ7:1-2)

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 それにつけても、以前にも書いたように、今の僕は、山上の説教に、ただただ驚嘆するほかない。
 たとえそれが心の中であっても、人の悪口を言うとき(マタイ9:3を参照)、その悪口を自らに適用すると、驚くほど、実に驚くほど、「その悪口」が自分にも当てはまってしまって、苦しむことになってしまう。
 精神分析では、このことを「投影」と呼ぶらしい(まだ生かじりですけど)。
 すべての人の罪人たる所以であろうか。

 だから、人を裁けば裁くほどに、「あなたがたもさばかれ、」、つまり、自分が苦しくなってしまう。
 精神分析なんてのができるよりはるか2000年前、イエス様は「投影」を仰っていたなんて!

 昨日たまたま目にした書物、トマス・ア・ケンピス「キリストにならいて」より。
 第三巻第二十五章3の箇所。

 「万事につけ、自分が何をするか、何を言うか、を、よく省みなさい。
 そして、お前の意図をことごとく、ただ私(註:キリスト)だけの心に遣うこと、私以外には何も望まず、私を求めることのみ向けなさい。
 だが、他人の言うことを易々と、決してやたらに批判してはならない、
 またお前に委ねられていない事柄に巻き込まれてはいけない、
 そうすれば、あまり、いや、それどころか、滅多にしか(心を)乱されずに済もう。」
(岩波文庫版 大沢章・呉茂一郎 訳  適宜改行を施し、一部のかなを漢字に直した。)

 人というものはどうしようもないもので、そのどうしようもない人間からわき上がるどうしようもない気持ち、こいつを専ら「キリストに心砕く」ことに転嫁するときに、大きな慰めと平らかな心持ちが訪れよう、ということのように思う。

 だからこそ、自らの中にキリストを迎える。
 そのために新約聖書に接する。
 新約聖書、その深き理解のために、旧約聖書を読む。
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山上の説教のなぐさめ

 「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。」(マタイ4:23-25)

 「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:31-34)

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 このごろ、山上の説教を読んでは思いめぐらし眠りに就く、そのような晩が多くなった。
 人によっては、僕のこの「睡眠儀式」を「デボーション」、それも「デボーションの邪推な方式」と呼ぶかも知れない。
 なんとでもいわせておけばよろしい。
 私は、「デボーション」なぞという語句は、シュレッダーに掛けてしまった。

 さて、ゆうべは、上のマタイ6:31-34を何度も繰り返して読みふけっていた。
 「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」という「心配」について。

 日本は先進国、飽食の国とのこと。今のところは。
 ステーキ食べよか、しゃぶしゃぶにしよか?
 ビール、発泡酒、「第三のビール」。
 クールビズ、最近はどうやらベージュが流行りの模様。

 今、僕が読んでいる「悩み」は、どうも、そのような「悩み」の類ではなさそうだ。
 そう考えて、この「山上の説教」の「前振り」に目を通すことに。
 「山上の説教」の聴衆は、病人、クソ貧しい人、カケラでも希望が欲しい人。
 そういう人々が、あちらこちらから集まってきた。
 メシ、ニアリーイコール、パン、それも明日のパンすらあるかどうか。
 パレスチナという地は水が貴重なので、飲み水自体の確保、あとは代替物としてのワイン。

 そうすると、上の「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」という「心配」に関して、現代飽食日本に山上の説教をそのまま「適用解釈」するのは、明らかな誤り。
 しかし、それにしても、心配のない世の中や人生というものは、およそあり得ないではないか。

 「心配」が東に在るなら、西の地平線には「神の国とその義」が見えるではないか。
 ならば、西を向いて歩めばよい。
 東の「心配それ自体」がなくなるかどうかは、どうでもよい。
 西に向かって歩む、歩み続ける、その地平線が見えているかどうか。
 それだけでも随分と「こころもちが違う」ように思える。

 ややして今度は「その義」について、思いめぐらす。
 「神の国」だけなら、分かりはいい。
 「と、その義」。
 ……やっぱ、ペアだよね、天国と「正義」とは。
 「労苦」、それこそが、「西行きの切符」。

 そう思い至り、スタンドのスイッチを消して眠りに就きました。
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「山上の説教」について

 ヒルティは、「眠られぬ夜のために 第一部」、その1月6日の箇所の中で、次のように書いています。

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 今日、「山上の説教」と呼ばれて、その概要だけが伝えられている聖句を、一度注意深く読んでみなさい。そして、あなたもその教えに驚嘆するか、それとも、それらすべてをいわゆる「理想的」な命令(すなわち理想的な意味に受け取り理解するが、実行するには及ばぬもの)と考えるかを検討しなさい。あなたが内的に進歩するかどうかは、その検討とその答え次第である。これらすべての教えが守れるようにと、少なくとも強く願わないなら、キリスト教はあなたにとって全く無縁であり、むしろ何か教会制度なり哲学なりで満足する他はない。

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                      (岩波文庫版、草間平作・大和邦太郎訳)


 この本を買い求めたのは、3年以上は前のことと思います。
 何故買ったか?
 「ひどい不眠に悩んでいたから」、これだけです。
 本を開いて、キリストについて書かれた本だったのかと初めて知ったほど、僕はヒルティについて無知でした。
 ちなみに、この本を読んで「不眠」があっさり治癒したということはなかったことを、付記しておきます。
 当時、上の記述を読んで、そいつはめちゃめちゃ厳しいな、そう思ったのを覚えています。

 今、マタイ福音書の「山上の説教」を、ひとことひとこと頷いて読んでいる僕がここにいます。
 なるほど確かに、ヒルティが言ったことは確かにそうだな、と得心しました。

 この岩波文庫版には、「解説」があります。
 その中で書かれているヒルティの生涯についての記述を、かつて斜め読みしました。
 スイスの法曹界で奮闘した、そんな生涯だったような覚えがあります。
 法曹界、法曹界、ねぇ……。
 まあ、その、実に実に様々な「局面」に遭遇したことかと。
 そのような人が100年前に書き遺したこと、それを、今、僕は頷きながら読み返しています。なにしろ「説得力」が全然違います。
 同種の説得力は、日本国際飢餓対策の方の話を聴いたときにも感じました。なにしろ、リアルな世界に接している人たちなのですから、ヒルティ同様、説得力が俄然違ってきます。

 確かに、「山上の説教」のひとことひとこと、それらは、「もてあそぶような類のもの」ではなく、実に「その教えに驚嘆する」しかないものだと思い知らされます。
 ただ、だからといって、僕が「内的に進歩」したのかどうかは、甚だ疑問なのですけれども。

 付記しますと、ヒルティは「哲学」書の類を読みこんでいる、その痕跡が、この文庫本のそこかしこに出てきます。
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希望

「そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:1-2)

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 聖書を読もう。
 ふと、そう思い立った。
 新約聖書のはじめ、マタイの福音書、それをはじめから読んでみる。
 で、上の箇所に当たった。

 なんたって、上の声に応じて、その人だかりの程ったらない。
 エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々(同3:5)
 なんと! パリサイ人にサドカイ人まで! (同3:7)

 聖書図鑑の類はぜーんぶカイカクしちゃったので調べようがないんですが、この頃のイスラエル人の歴史って、それはそれは惨めなものだったように覚えている。
 10年くらいしか保たなかったんじゃなかったっけ、独立国家。
 ここいら100年か200年てのは。
 で、ヘロデ王の傀儡政権があって(ルカ19:12に、当時の世相がありますね)。

 それを思うと、「天の御国が近づいた」ってのは、もう、希望にあふれた特大ニュースだったのでは、と、思いめぐらす。
 で、当時特権階級のだったサドカイ人までが、こんにちは。

 イエス様も、仰る、その第一声。
 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(同4:17)

 なんという希望に満ちたお言葉なのだろうか!
 こんなビッグニュースを伝えてくれて、…ありがとう。

 でも、……ちょっと「ガクモン」しだしちゃったら……、その、なんという、つまらないこと、 "metanoia " 。
 小理屈の類ではなかろうに、 "metanoia " 。
 僕も、ちっともわかんない。
 でも、希望に満ちたビッグニュースであること自体に、変わりはない。

 全くもって我田引水の解釈、施すならば、「希望の日が『近づいたから』、しゃんと背筋、伸ばせよな」、そのようなものかと、勝手に思う。
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義人はいない

「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)

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 ……どうしてこうも、悪循環なのだろうか?
 そして、この悪循環構造の中に、正に、自分もしっかり入っているとは!!

 まさしく、「義人」など誰一人として世におらず、そうすると、自分はただのクズ。

 いろーんなとこが荒れまくっている。
 気付くと自分も荒らしてしまい、友人からの、努めて冷静な、しかし意志の強さみなぎる抗議のメール。
 すぐさま電話を掛け、謝罪。

 そう、「自分は義人」、そんなもんは、全くの間違い。
 むしろ、自分こそが最もひどく、であるからしてとーぜんに、「そのひどい自分」が「ひどいところ、ひどいもの」に目が行って、で、「ひどい!」とやって、……、で、実は自分が一番ひどい、と。
 かくして、どうしてこうも、悪循環……。

 パウロはいくつかの名句を遺した。
 曰く、「イエスの焼き印」(ガラテヤ6:17)。
 曰く、「罪人のかしら」(1テモテ1:15)。

 「イエスの焼き印」は強力で、「そこ」の「不具合」を放っておくことが、どっしてもできない、その、あまりの「いいこちゃん」ぶり。
 そしてぐるぐるやって、そして気付くと「罪人の頭」、なんとも傲慢な、あたかも自分が神以上の存在に。

 この事象について、僕は何かを述べる立場には、全くない。
 ものの見事に、何にも分かってない、ということが、かろうじて分かるだけ。
 ただ、その都度その都度、「ごめんなさい」をするしかない。
 被害者にも、神にも。
 そして神のみを、再び拝する。
 ……気付くと、また、「自分が神」に、なってんのかな?
 かくして、自分が「ルシファー(堕天使)」、「サタン」に??

 多分、こういうことではあるまいか。

 「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(マタイ7:3新共同訳)

 イエス様がなされた「山上の説教」の、その素晴らしさと有り難みが、やっと最近、ちょっぴり分かった。
 確かに突き刺さっている、ぶっとい丸太。
 抜くのは無理だが、取りあえず気付け!
 気付いて、で、お前はそういう存在なんだ、と。
 で、俺の十字架を、しかと見よ、と。

 「被害者」の友人とは、謝罪後、与太話に。
 彼も聞かせる、「悪循環構造」。
 ……、そっか…、多かれ少なかれ、どこでも誰しも、思ってんのか…。

 僕は「イエスの焼き印」、帯びてます。
 でも、「そいつ、その価値観」を人様に押しつけると、今度は転じて、ルシファーに。
 自分の「丸太」に、気付けばよい。
 何者でもないんです。
 かくして、ただ十字架にのみ、目を向ける。
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