十字架-復活というペア

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12:24-25)

---

 同じことがらを、異なる言い方で繰り返している。

 聖書のメッセージは、十字架と復活というペアに終始し、それはそのことを成し遂げたキリストが与える個人の内的な救いに関することである。
 多くの人々の役に立つとか有り難がられるとか、そういうこととは第一義的には関係がない。
 だから、上の引用聖句にみられる「死」(「失」う)-「豊かな実」(「永遠のいのち)というペアは、個人の内的に関する問題であり、それ以外のものではない。

 ここでいう「死」とは、肉体の死のことではない。
 イエスの十字架、イエスの肉の死は、イエスを信じる者にとって自身の象徴的な死なのであり、彼は神によって象徴的に死ぬ時が来る。
 そのことをどうやって本人が知るのであろう。
 神によって死んだ者は、イエス同様、神に承認されてよみがえり、「いのち」が神から与えられる。
 この「いのち」は死ぬ前に持っていたものとは質的に異なるので、そのことによって十字架-復活というペアを体験したのだと、その人は気付く。
 その「いのち」とは、罪深い肉が神に赦されることであり、すなわち、律法による肉への責めから解放されることである。

 そういうわけで、「死ねば、豊かな実を結」ぶのであり、「この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至る」のである。

 そのように、同じことがらを異なる言い方で繰り返しているので、「一粒の麦」だけ取り出すと、それが勝手に独り歩きしてしまうことになる。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

あなたの王

 「その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、
 しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。
  「ホサナ。
  祝福あれ。
  主の御名によって来られる方に。
  イスラエルの王に。」
 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。
   「恐れるな。シオンの娘。
  見よ。あなたの王が来られる。
  ろばの子に乗って。」
 初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。」(ヨハネ12:12-16)

---

 いわゆるエルサレム入城。
 歓喜の渦の中、イエスは王としてろばの子に乗ってエルサレムへと向かう。
 「イエスが栄光を受けられてから、これらのことが……」とあるように、この入城は「栄光」ではない。

 「あなたの王」が、ろばの子に乗って来られた。
 それを「あなた」は、「ホサナ」と叫んで出迎える。
 だが、今日「ホサナ」と叫んだ人が、明日には「十字架につけろ」と憎悪の大声を張り上げる。
 そんなことはお構いなしに、「あなたの王」は「あなた」のための十字架につく。
 それこそ、そのような「あなた」に神の赦しを与えるための栄光なのである。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

神の子イエス

 「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。
 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。
 そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。
 もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」(ヨハネ11:41-48)

---

 イエスがラザロをよみがえらせた箇所。
 そのわざに際して、イエスは「しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために」と仰っている。
 つまり、人々が御自身を神の子と信じるようになるためにラザロをよみがえらせるのだと、宣言している。

 では、人々がイエスを神の子と信じたら、何だというのだろう。
 祭司長やパリサイ人たちは、そうなることを恐れている。
 信じた人々がイエスを王に立てて、イスラエル独立運動へと発展するだろう。 これまでの支配階級は放逐され、ローマが立ち上がる。
 ちなみに、ヨハネ福音書でのイエスは、御自身が王と祭り上げられることを避けている(ヨハネ6:15)。

 だが、それにもかかわらず、イエスは御自身が神の子であることを人々が信じるために、ラザロをよみがえらせる。
 神の子イエスは、人間と同じ肉をまとった神である。
 その肉は、人間のそれとは異なり罪を宿していない。
 罪のないただひとつの肉、それが神の子イエスである。
 だが、そのイエスが極刑の十字架に架かる。
 それも、自ら架かるために世に来られた。
 それは、全人類の罪深い肉が受けなくてはならない極刑を、罪のない肉が身代わりに受けることで、人間をその罪から救うためである。
 罪ある肉の十字架には、そのような効力はない。イエスの両脇の2人の十字架には、全く何の意味もない。
 神の子イエスというけがれなき捧げものが受け入れられて、イエスは復活して人間の罪は処理された。
 このイエスを信じることが出来るならば、その人は罪から解放されるのである。

 そのために、大前提として、イエスが神の子であることを信じさせる必要があったのである。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

よみがえりの権威

 「イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります」
 マルタはイエスに言った「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」(ヨハネ11:23-27)

---

 マルタが言う「彼」とは、葬られた兄弟のラザロ。

 アダムの違反以来、すべての人は罪の下にあって死の中に閉じこめられている。
 その死から解放していのちを与えるのが、キリスト・イエスの十字架と復活である。
 それでイエスはここで、「わたしは、よみがえりです。いのちです」と仰っている。
 実際、イエスは死んだラザロをよみがえらせる。
 このことは復活の型であり、また、それよりもっと難しいよみがえりのわざを為す権威があることを示している。
 その権威によって、信じる人に罪の赦しをもたらされる。
 「わたしを信じる者は、死んでも生きる」のである。
 そして、「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことが」ない。
 それは罪赦されて解放されたからである。

 ところでマルタは「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております」と受け答えしているが、こういうのを口先が軽いだけの不信心者という。
 もっとも、彼女はこの時点で十字架と復活を知らないので、無理もない。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

復活という光

 「イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」
 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」(ヨハネ11:9-10)

---

 イエスが世におられたあいだ、イエスは光であり世は昼間だった。
 十字架に架かってそのイエスが死なれると、光は消え世は再び夜に入る。
 今もってそうだ。
 ところが、十字架以前とは異なり、キリストの復活という光を内に宿す人はつまずくことがない。

 何につまずかずに済むのだろうか。
 この世での世渡りにつまずかずに済むのではない。
 復活という光を宿す人は、御国への道につまずかないのである。
 この人には、今も十二時間の昼間がある。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

イエスの声

 「それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」
 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。
 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10:24-28)

---

 イエスの声は、誰でも耳をそばだてれば聞こえるという類のものではない。
 そうではなく、あるとき、それをイエスの声を聞き分けてしまう、そういうものである。
 「告白」の著者アウグスティヌスも、その一人だ。日本の内村鑑三も、おそらくそうだろう。
 聖書を通して、イエスの声を聞き分けてしまったのだ。
 他にも、たくさんの無名の人々がいることだろう。
 このことなくして、イエスへの信心はない。

 イエスはそのような人々をご存じであり、彼らにいのちを与えて保護する。
 保護というのは、この世での厄よけというものではなく、わき道へそらさずその羊を牧する保証のことだ。

 そのイエスは、御自身がキリストであることを幾度となく語っておられるし、また、しるしもされておられる。
 それにもかかわらず「もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください」と言うような大部分の人々は、何があってもイエスを信じることはない。
 「わたしの羊に属していないから」だ。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

イエスの言

 「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」
 このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。
 彼らのうちの多くの者が言った。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」
 ほかの者は言った。「これは悪霊につかれた者のことばではない。悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」(ヨハネ10:18-21)

---

 イエスについて、多くの人々が「悪霊につかれて気が狂っている」と言っているが、これは仕様のないことだ。
 彼ら多くの者には、イエスとその言は狂人のものとしか映らない。
 単に盲目だからだ。

 また、盲人の目を開けたイエスは悪霊になどつかれてはいない、そういう少数意見もある。
 しかし彼らは、イエスのしるしを認めざるを得ないとは思っていても、イエスの言そのものは全く理解していない。
 両者とも、イエスを理解していないことには違いはない。

 しかし、イエスがいのちを「もう一度得」たときに注がれる御霊によって、私たちはイエスの言そのものをその通りに受け取ることができるようになる(ヨハネ14:26)。
 それはイエスが与える「いのち」そのものだ。
 「わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります」。
 「いのち」は、それを得るということを初めてなしたキリストから与えられる。

 十字架と復活こそが、イエスが全人類の救いのために与えた唯一最大のわざなのである。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

捨てる権威、よみがえる権威

 「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」(ヨハネ10:17-18)

---

 イエスによる、十字架と復活の予告。
 
 「自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てる」ということを理解することは、とても難しい。死人がどうやって生き返るのだろうか。
 しかしそのことをなすがゆえに、御父はイエスを子として愛するのである。
 人間イエスは、人間の罪深い肉と同じ肉を極刑の十字架に釘付けにして処分されて死に、そしてそれを脱ぎ去ってよみがえられた。
 しかも、そのことを自分から行われる。十字架は、「受難」、難を受けた訳ではない。
 キリストがキリストである所以は、このように人間のそれと同じ肉に処罰を施して、その肉に内在する罪から解放したしたことにある。

 イエスには、いのちを捨てる権威とともに、よみがえる権威が与えられていた。
 であるから、このイエスが復活の初穂である。
 初穂というからには、イエスの切り開いたこの道に続く者が続出している。
 肉のいのちを捨て、その肉を脱ぎ去って本当の「いのち」を得る。
 これが救いであり、信心である。
 そしてそうなるのは、イエスの権威に基づく恵みによってなのであり、努力や行いは全く役立たない。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

牧者キリストが与えるもの

 「牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」(ヨハネ10:12-15)

---

 羊の所有者、それは御神を指す。
 そして「良い牧者」がイエス・キリストである。

 「狼」とは、この世の諸々のことであろうか。
 そして「雇い人」には、聖職者階級が当てはまる。
 この階級は、所詮は罪深い肉を持つ弱くて限界の低い人間にすぎないので、この世の諸々のことがあると、あっさりと羊を置き去りにして逃げてしまう。
(そのこと自体はこの階級に限ったことではないが、「雇い人」を自認するところが厄介なのだ。)

 牧者キリストは、羊がキリストを知るようになるため、また、知ってこの世の諸々のことに打ち勝てるようになるため(参/ヨハネ16:33)、「わたしのいのちを捨てます」。
 キリストは、十字架に架かって死に、そして復活して「いのち」の初穂となられた。
 このキリストが御自身の羊に与えたいものは、襲いかかってくる狼から守るための盾ではなく、狼に処するための「いのち」なのである。
 死んで復活したキリストに出会って、このキリストをはっきりと知ると、「いのち」にあずかることがかなう。

 「わたしはわたしのものを知っています」、キリストのものであればそのようになるのであり、そしてそのことがすなわち救いなのである。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

わたしは羊の門です

 「そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:7-11)

---

 「わたしは羊の門です」。
 門というと、例えば家の門というのは、入ると家の内側、出ると家の外側というように、空間を分け隔てる機能があるように思う。
 私たちが聖書に接する唯一の目的は、イエスという門の中に入って救われることである。
 この門の外側と内側とでは、全く空間が異なっている。
 ただ、この門がどこにあるのかが、分からない。
 それで、これがかの門かと思いこんで入っては、盗人にやられてしまう。

 イエスは「羊のためにいのちを捨て」た門である。
 すなわち十字架に自ら架かる。
 これは、単に羊のためには自らの命をも惜しまない、というだけの意味ではない。
 この極刑の十字架と復活こそ、罪深き肉から解放される「いのち」の初穂であり、また救いの型なのである。
 キリストのこのわざを信じることができたならば、イエスの門がその人を吸い込んでくれる。
 救いは自力では到底叶わず、ただ神の御恵みによるのである。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )