キリストの光

 「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネ3:20-21)

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 「生きがい感というものは、そぼくな形では生命の基盤そのものに密着しているので、せいぜい生きるよろこび、または『生存充足感』としてしか意識されない。デュマのいうように、ひとの生活が自然な形で営まれているときには、一種の自動性をおびて意識にのぼらない傾向があるからであろう。したがって『あなたは何を生きがいにしていますか』とたずねても即座に返事のできない人が多い。或る調査用紙にこの質問を入れておいたところ、『この問いをみてギョッとした』という感想をのべた婦人もある。」
(神谷美恵子 著、「生きがいについて」2004年版、p.30)

 引用が長くなってしまったが、「生きがい」という個人内面のことをいきなり尋ねられて、この問いそのものに「ギョッとした」婦人がいるということが書かれている。
 この婦人は、自分の内面にいきなり光が当てられて、あわてている。
 もっとも、この場合の光はキリストが照らす光ではないのだが、自分の内面など見たくもないという人が少なくないのかもしれない。

 そうであるなら、キリストが照らす光、人間の内面をくまなくまさぐる光を受け入れる人というのは、一層少ないに違いない。
 その光は、その人の罪をつまびらかに照らし出して明らかにする光だからである。
 「悪いことをする者」、「真理を行なう者」の判断軸が何かはあまりよくわからないが、そのような光自体を、人は日ごろ嫌がるだろう。目先のことに忙殺されているのだ。
 しかし、心に深い悩みを抱えた人、大きく傷ついた人、行き詰まった人、つまり、先ほどの婦人とは異なり内省的になって立ち止まっているときにこのキリストの光が照らされると、その人は光を喜び光の方へと向かうだろう。あるいはそのことを真理を求めるというのかもしれない。
 このキリストの光は、その人をただ糾弾するためのものではなく、それどころか、十字架と復活を通してその人に「いのち」を与えるためのものである。

 キリストの光は、どの人の上にも、いつも照っている。
 日ごろ人は、その光を避ける。
 だが、誰にでも闇夜は訪れる。
 キリストはずっと待っていてくださって、そのときその人を迎えてくださる。

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[一版]2014年 6月 6日
[二版]2017年 1月29日(本日)

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光によって子供に生まれ変わる

 「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。」(ヨハネ3:18-19)

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 世俗の垢にまみれていると、あくどいことや小ずるいことにばかり頭がくるくる回る人に難儀させられることがある。そっちの方にばかりくるくるっと頭が働くようで、かえって感心するほどだ。
 上の聖書箇所からすれば、そのような人はやみを愛している、と言えるのかも知れない。

 では、「御子を信じる」、光を愛するとは、どのようなことだろう。

 「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ18:3新共同訳)

 私たち肉から生まれた人間は、どの人もやみに属しており、罪の中にいる。
 そして、光は私たち自身の罪を容赦なく照らすので、その罪から解放されたいと私たちは切に願っている。
 子供のようになることがすなわち信仰なのであり、それは御子の十字架と生まれ変わりを受け容れて罪赦されることによってはじめて可能となる。ちなみに、子供のような言動をすることではない。
 私たちは、アダムの肉を持つ罪まみれのものではあっても、罪赦され神を喜び、御国が中心となる世界観へと変わってゆく。

 イエス・キリストという光に照らされて分かった自分の罪を認めるか、それがいやでこの光から身を隠すかのどちらかなのだろう。
 冒頭に書いた頭が変にくるくるっと回るような人たちも、窮地に陥ってはじめて光を認めることはあるはずだ。

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[一版]2012年 9月29日
[二版]2014年 6月 1日
[三版]2017年 1月22日(本日)

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新生とやり直しの違いについて

 「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:1-8)

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 イエスと議員ニコデモとの問答。

 ニコデモの話を遮るかのように、イエスは言い放つ。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
 対するニコデモは、「もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」などとこぼす。

 もう一度胎内から出てくるとニコデモが言っているのは、つまるところ、人生をもう一度やり直すということだ。
 だが、イエスが言っていることは、やり直しではない。全く異なる。
 新しく生まれるということである。
 やり直しではなく、新しく生まれること、これが「いのち」なのである。。

 やり直しはメッキにすぎず、こすればはがれて元の「地」が顔をのぞかせる。
 肉がやり直しをしても、罪深い肉であることに何の変わりもない。
 一方、産みの苦しみを経て新しく生まれるときには、表面は変わらないのだが、礎石がしっかりと据え付けられる(参/マタイ21:42)。
 このとき肉は御父によって赦され、霊が私を生かすようになり、生きる原理が一瞬にして変わる。「地」が変わるのである。

 そして、そのようなことは「風」が起こす。
 「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない」。
 このようなつかみ所のない風、自分ではどうすることもできない風が、ただ神の御恵みによって自分に吹くときに「御霊によって生まれる者」とされるのである。

 やり直すことと新しく生まれることは全く違うし、自力でできるか風頼みかということも全く違う。

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[一版] 2010年11月20日
[二版] 2012年 9月28日
[三版] 2014年 5月24日
[四版] 2017年 1月15日(本日)

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宮清め

 「ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、
 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。
 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」
 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。
 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
」(ヨハネ2:13-20)

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 宮清めとして知られる箇所。

 神殿は、もはや神殿というよりも「商売の家」に堕していた。
 「牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たち」というのはどちらも、捧げものを神殿で融通できるようにした商人たちのこと。
 宮参りに来る人が遠くから牛を引っ張ってくるのは確かに難儀だろうから、参拝の人々にしても両替人がコンビニエントな存在というのは確かなことだ。
 この聖書箇所には書いていないが、思うに、この商人たちは売り上げの一部や場所代その他もろもろを支配階級であるサドカイ人に納め、その見返りに神殿内でのこの独占的な商いを許可してもらっていたことだろう。
 なんのことはない、現代の日本や世界でごくありふれた利権の構図である。

 問題は、そのような利権が神殿という聖なる場でまかり通っていることであり、それでイエスは怒った。
 「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
 そして、この神殿はだめなので壊して、本当の神殿を建てる、それも三日で建てると約束する。

 ちなみに、その本当の神殿とは、復活のいのちにあずかった私たち自身のことである。
 このときその神殿は、私たちの内側にある。そこには誰かの利権の入り込む余地もないし、私たちは絶えず参拝している。
 「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:33)
 まさに、この預言がイエスによって私たちに成就する。

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[一版]2014年 5月18日
[二版]2017年 1月 3日(本日)

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ナタナエルはナタナエルだから目を掛けられたのか

 「ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(ヨハネ1:44-49)

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 ピリポやナタナエルの早合点は、ここでは措く。

 ピリポがイエスをナタナエルに紹介する。
 しかし、イエスはそれより前から、ナタナエルがいちじくの木の下にいたのを見ていた。
 他の多くの人々も、いちじくの木の下にいただろう。
 だが、イエスの目にとまったのはナタナエルなのである。
 それは、ナタナエルがなにがしかの点でひとかどの人物だというよりは、イエスの目にたまたまナタナエルが目に入ったにすぎない。
 いちじくの木の下の他の誰かがイエスの目にとまったとしても、全くおかしくはない。たまたまなのだ。

 私たちについても、そのことがあてはまる。
 私たちが復活のイエスに見いだされるとすれば、私たちの行ない、人格または立派さなどによってではない。
 もし、そのような観点で見いだされるのであれば、救われる人はきわめて希であろうし、さらに、そうした人を救えばよいのであれば、十字架と復活という全ての人にかかわるわざをなす必要もなかっただろう。
 私たちが復活のイエスに見いだされるとすれば、もっぱら恵みによってである。
 いいかえると、復活のイエスの目にたまたま入った人が救われる。
 私たちがやることは、行ないではなく、求め続けることである。「たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)は、確かな約束なのである。
 この復活のイエスは、救いを求めるすべての人に目を掛けてくださっている。

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[一版]2014年 5月17日
[二版]2017年 1月 2日(本日)

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