示された神の義

 「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:20-24)

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 律法が人に、その肉が持つ罪を暴く。
 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ」ないのである。
 だが、では律法を知らないままであったなら、神の御前に立ったときにどう申し開きが出来よう。

 律法を行うことによって義に到達することはなく、神の基準はそれほど高く、アダムの肉はそれほど罪深い。
 ところが、ここに「神の義が示され」たのである。
 「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義」、信仰により義に至る道が、イエス・キリストの十字架と復活によって切り開かれた。
 罪を宿さない肉を極刑で処して、それをよしとしてよみがえらせた、このことによって、私たちのアダムの肉に宿る肉の罪も、信じるならばよしとされ、つまり罪赦されるのである。

 それは恵みによるのであり、行ないによるのではない。
 イエスが来たのに行ないによるとしたら、肉の行ないによって自分の肉の罪を処理しようということになり、少なくとも救世主イエスはその人と無縁になってしまう。

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律法の機能

 「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)

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 自分語りをする。

 12年前に教会の門を叩き聖書を読み始めた。
 当時ぎくりとさせられたのが、「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27-28)だった。

 その当時買い物に行ったときのこと、とても可愛らしくてしかも器量の良い若い娘がレジをしていた。
 それを見ていて、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」、即座にこの聖句を思い出した。
 私は姦淫の罪をそこで犯したのである。
 この罪のとげは、ことさら痛かった。

 律法がもたらすのは、この罪の意識である。
 より正確に言うと、肉に宿す罪を白日の下にさらして私たちに突きつける。「お前は罪人なのだ!」と。
 そうすると、買い物に行っただけでも罪を見いだす私などは、どう取り繕おうと神の御前に不義とならざるをえない。
 もし私が律法を(山上の説教を)知らなかったら、このような罪の意識は全く生じなかったに違いないが、もしそうだとしたら、何が私の罪深さ、つまり本当のことを指摘するだろうか。
 その本当のことを知らずに終わりの日を迎えたとき、イエスを知らない私は御神の前に一体何を申し開きすればいいのだろう。「電車の中でおばあちゃんに席を譲ったことがあります。」とか言うのだろうか。

 このように、律法は私たちの罪深さを嫌と言うほど知らしめるために、そしてそこから救いへの道筋を付けるために必要不可欠なものである。上に書いた自分の経験に照らしても、そう思う。
 そして、この律法がキリスト・イエスによる罪の救いへと私たちを導く。
 律法が養育係(ガラテヤ3:24)たる所以であり、この養育係なしに救われるということは、すなわち罪の意識のない者が救われることは、以上のことから原理的にありえない。

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すべての人が罪の下にある

 「でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。
 「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。――私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、――もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。
 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:7-10)

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 私たちが神の律法を遵守しないのは、遵守しないことによってかえって神の律法の素晴らしさを光り輝かせるためであろうか。
 単にそうであるとしたら、私たちはやろうと思えば律法遵守をきちんとできるということになる。しかし、聖書には次のように書かれている。

 「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。」(ローマ2:21)

 つまり、誰一人として神の律法を守り通すことは出来ない。
 義人はいない。一人もいないのである。
 それは人間の肉のゆえ、罪を宿すこの肉の故である。
 そしてそのことは人種にはよらず、また、律法を知っているかどうかにに限ったことでもない。
 「すべての人が罪の下にある」のである。
 ただ、そのことに気付くか気付かないか、理解できるかできないかが、人によって違ってくるが、このことは専ら恵みによることである。

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誰が神のさばきを免れるのか

 「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
 彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。
 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。
 私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。
 そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。
 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(ローマ1:29-2:4)

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 神の定めによれば死罪に当たることを行う者。
 そのことをさばくことによって、自らも同じ罪に当たることを明らかにしてしまう者。
 そして、そう書くことによって自らも罪に当たることになるパウロ。
 そうすると、一体誰が神のさばきを免れるのだろうか。
 およそすべての人が、神の前に死罪に当たるのである。

 そのことが分かって自分の罪深さに思い至った人に、はじめて神の慈愛の戸口が開かれる。
 「私の罪深さ」を自覚することが、救いへの入り口である。
 罪が無くなることはないが、イエスの十字架と復活ゆえに赦され、解放される。

 そのためには、まず自分の内にある罪を罪と自覚する必要がある。
 神の律法は、その自覚のために機能するものである。パリサイ人がやったように、さばくために用いるものではない。
 だから、「あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者」が自分をそうと自覚できれば、そうでない者よりもずっと救いに近いのである。

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偶像

 「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。
 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。
 子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」(1ヨハネ5:19-21)

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 この手紙の最後の箇所。
 唐突に「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」と記されて、この書物は終わる。
 このことに、長い間大きな違和感があった。

 イエス・神の御子がこの世に来られて、何が一番変わったのだろうか。
 「真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったこと」である。
 ただ、誰かれにも、この理解力を与えられたわけではない。
 長血の女の箇所(マルコ5:25-34)でも、イエスに押し寄せる群衆達には何もなく、ただ長血の女だけが癒される。
 両者ともイエスに押し寄せた点では変わるところはない。
 ただ、イエスを御子と信じる信仰があったかどうかが、決定的に異なっていた。
 この長血の女は、「真実な方を知る理解力」があったのである。

 この長血の女のような人々は、キリストにある( in Crist )。
 今は見えないこの方をのみ、信仰し礼拝するのである。
 そうであればこそ、なおさら「偶像を警戒」する必要がある。
 なぜなら、偶像はその人をキリストからたやすく引き離してしまうからだ。

 この偶像というのは「像」に限ったものではない。
 私は仏像を見ても何とも思わない。鳥居も寺もそうだ。
 仏壇も神棚もなんとも思わないし、お焼香もする。
 例えばそういうもの(行為)自体よりも、そういうもの(行為)を偶像として警戒せよと指導する人に影響を大きく受けて大きな制約が生じてしまうと、その人はキリストの「いのち」からたやすく離れて「指導する人」という偶像に脆くも屈するのである。

 大切なことはただひとつ、御子が来られて「理解力」を与えてくださったということである。
 ところがこのような偶像は、このキリストの本質から私たちを大きく引きはがしてしまう。
 そういうわけで、偶像を警戒せよと書いたヨハネさんを今はよく分かる。

 それにしても、例えば雛人形を偶像礼拝だからというので片付けろという人間にキリストを理解する力が備わっていないことは明らかである。
 以前、私はその手の指導によって仏壇や神棚その他を異様に恐れていた。
 しかし、恵みによって「理解力」を与えられ、それで今は何とも思わないのである。

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[付記]
 本日の記事について。
  [第一版]2007年10月27日
  [第二版]2008年 3月 9日
  [第三版]2011年 7月17日 (本日)
 いずれも大幅に書き換えました。

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神のあかし

 「もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。
 神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。
 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(1ヨハネ5:9-12)

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 神は御子について、私たちにあかしされた。
 それで私たちは、御子を信じる信仰を持つに至った。
 人間は、体験した出来事などであかしをしようとする。頭の上での理解に至ってもらおうという営みだといえる。
 だが、神のあかしはそうではなく、出会いであり体験であり、それによって人は否応もなく御子を信じざるを得なくなる。
 そして何より、神のあかしは「いのち」である。
 罪赦され、唯一神たる神への後ろめたさがなくなり、今までとは似て非なる生を歩むことになる。
 誤解を恐れずに踏み込んで書くと、生きる上での大きな障壁がなくなったので、その分ぐっと生きやすくなり生きる力が湧いてくる。

 では人間のあかしには意味がないかというとそんなことはなく、この神のあかしという恵みによる救いへの希望をつなぎとめるために必要だと思う。

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イエスを御子と信じる

 「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(1ヨハネ5:3-5)

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 私たちの信仰こそ、私たちが世に打ち勝ったことの、なによりの証拠である。
 では、その信仰とは何であろう。
 「イエスを神の御子と信じる」ことである。
 つまり、どのようなイエスを知っているか、ということに帰結する。

 福音書を読んでイエスをあわれみ深いと信じることは、かなり容易だ。
 同様に、イエスを「癒し主」と信じることそれ自体も、たやすくできる。
 だが、そのようにイエスを理解した場合、その人はこの世を乗り越えることが出来るのだろうか。
 なぜなら、あわれみ深い人は今の世にも少しはいるだろうし、「癒し主」を称する人々も多い。
 だから特にイエスである必要、イエスを信仰することの必然性が希薄なのである。
 そうではなく、イエスが神の御子だと分かったので、このイエスを信仰するのである。
 分からざるを得なくなった、と言ってもいい。

 そもそも、このイエスは何のためにこの世に来られたのだろう。
 なんといっても、その罪なき肉を身代わりのいけにえとして極刑の十字架につけて死に、しかし神の御子のゆえに三日目によみがえって多くの人の罪を処理済みにするためである。
 神が人の罪深さを背負って死に、よみがえって、罪の赦しを与えている。
 この復活のイエスに出会ったとき、イエスについての一切を了解し、唯一の神の唯一の御子であるイエスを、それゆえに信仰する。
 復活のイエスによって罪赦されたことを知ったとき「いのち」にあずかり、それで私たちは世を乗り越えることができるのである。

 そういうわけで、イエスを神の御子と信じることが、神の命令なのである。

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神の愛

 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(1ヨハネ4:9-10)

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 私たちはもともと、神を愛していなかった。
 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マタイ22:37)という律法の最たるものを守り通すことができない存在なのである。
 そのような罪深き存在であるにもかかわらず、「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされ」た。
 御子イエスは、十字架上で神をなだめるためのいけにえとなる。
 その十字架のいけにえが神に受け入れられ、それで私たちの罪深さは神によって赦された。

 これが救いであり、つまり、神のいいつけを何一つ守れないにもかかわらず、守れないが故にいいつけを守ったことにしてもらったということである。
 ここにこそ、神の愛がある。

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[付記]
 本日の記事は、2008年7月3日付記事に筆を加えたものです。

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死からいのちに

 「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。
 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。
 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。
 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(1ヨハネ3:13-16)

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 私たちは、キリストが「ご自分のいのちをお捨てにな」り更に復活されたことを知ったからこそ、「死からいのちに移った」。
 そのことを知るためには、「いのちを捨て」る必要がある。つまりキリストが最初に切り開いた道を自分も実際に歩む必要がある。
 そうすると、いのちを捨てた先によみがえりがある。

 「死からいのちに移った」人は、おのずと原理が異なってくる。便宜的にキリストの原理とでも書いておこう。
 すると、世は世の原理で動いていてキリストの原理では動いていないから、キリストの原理の人を訝しみ気味悪く感じて、そして憎悪する。
 そのことは、少しも不思議ではない。
 死といのちとは、水と油のようなものだからだ。

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[付記]
 本日の記事は、2008年7月2日付記事に筆を加えたものです。

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私たちは罪人である

 「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」(1ヨハネ1:5-10)

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 アダムの肉を持つ人間はそれゆえに罪深く、それどころか日々罪を犯し続ける。
 このままでいくと破滅するしかないそのような私たちを、イエス・キリストが恵みによってその破滅から救ってくださった。
 この救いとはアダムの肉に巣くう罪を赦すこと、赦し続けることであり、罪そのものを犯さなくなるということではない。私たちのアダムの肉が変わったわけではない。
 だから、罪を犯してなどいないと言うなら、「神のみことばは私たちのうちにありません。」、つまり、聖書のみことばを通したイエスとの出会いをまだ果たしていないのである。
 だがそのようであっても、恵みによってイエス・キリストはみことばを通して出会って下さる。
 そのとき、自分が本質的に罪人であることが分かるようになる。そのぬぐいようのない罪を赦していただいたからである。

 つまり、私たちは罪人である、というのが、光に照らされて分かる真理なのである。

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