羊はキリストの声を知っている

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
 しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。
 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」(ヨハネ10:1-5)

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 牧者はキリストだけである。
 その他大勢が声を掛けてくるのだが、それはただ自身の利得のためだけに声を掛けてくるにすぎない。
 もっぱら羊の利得を考えて先頭に立つのは、このキリストだけである。

 「すると羊は、彼の声を知っているので」。
 羊という存在は、既にキリストの声を知っている。
 前は知らなかったのだが、あるところで知るに至った。
 だから、そのような人はキリストの声に専ら従う。
 キリストの声ではない知らない声には、ついて行かない。
 まだ羊の声を知らない人、自分の牧者が誰かを知らない人は、声が掛かれば何であれ、どこにでもついて行ってしまう。

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信仰告白

 「彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
 神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
 盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。」(ヨハネ9:30-34)

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 「彼」とは、目が見えなかったがイエスによって見えるようになった人。
 この「彼」はパリサイ人たち相手に、上のように毅然と言いのけている。
 立場としても内容的にも、こういうのが信仰告白である。

 人間はアダムの違反以来盲目な存在であり、それゆえ、はからずも「彼ら」パリサイ人が言うように「罪の中に生まれ」た存在である。
 その罪から人間を救うべく信じる者に「いのち」を与えるために、キリスト・イエスはこの世に来られた。
 そのイエスによって目が開かれたとき、上の「彼」同様、イエスが誰であり、またどこから来たのかを一瞬にして了解するようになる。

 ではキリストは、人間をどのようにして罪から解放なさるのだろうか。
 それは十字架と復活によってである。
 人間の罪深い肉と同じ肉を十字架上で処罰し、その処罰がよしとされてよみがえられた(ローマ8:3-11)。
 信仰とは、この十字架と復活を信じることである。
 これを人知やわざによって信じることは不可能である。
 上の「彼」のように、ただ恵みによってのみ信じることができるのである。

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村八分

 「彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。
 そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください。」と言ったのである。」(ヨハネ9:22-23)

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 「その者を会堂から追放すると決めていた」。

 「会堂」とはシナゴーグのことなのだが、ここではコミュニティ位の広い意味。
 そうすると、「会堂から追放する」ということはコミュニティーからの追放、つまりは村八分にするということである。

 では、誰を村八分にするのかというと、「イエスをキリストであると告白する者」である。
 自分を救ってくださったのはキリスト・イエスであるということで村八分に遭う。
 キリストによって救われた人は原理や法則が違ってしまうので、おのずと排斥されて村八分にならざるを得ない。

 だが、「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」(マタイ5:11-12)
 この世では狭き道を歩んでも(マタイ7:13)、救われた人は大きな報いを信じて疑わない。

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恵みとわざ

 「彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:38-41)

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 「彼」とは、イエスに目を癒していただいた、かつて盲目だった人。
 この人はかつて盲目であったが、イエスに癒していただき目が見えるようになって、イエスを拝した。
 イエスはこの人だから癒そうとしたわけではない。盲目の人は、膨大な数に上る。
 たまたまこの人がイエスの目に入ったから、この人が癒されたにすぎない。
 たまたまなのであり、因果関係(断食をしたから、等)によってではない。
 これが神の恵みである。
 この神の恵みによってのみ、罪深い人間はイエスを信じることができる。

 一方、律法の勉学を修めて「目が見える」と思っているのがパリサイ人であるが、彼らの目が開かれることは、ついになかった。
 かえってその勉学というわざが、イエスという光からパリサイ人を盲目にしてしまう。
 そして、イエスは人間を罪から贖うために来られた救世主であるから、このイエスが見えないということは、アダム以来の罪が贖われることのないことを意味する。
 「あなたがたの罪は残るのです」。

 救いの壁は非常に高く、人間のわざによってはどうやっても登ることができない。
 だが、たまたまあずかる神の恵みという力強い援護によってのみ、この壁を乗り越えることができる。

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『悪魔』呼ばわりされる『信者』

 「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。
 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
 しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。
 あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。
 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」(ヨハネ8:43-47)

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 引き続き、「イエスを信じた」という連中とイエスとの会話より。

 人はアダムの肉を持つ罪ある者であり、その点で人となられたイエスとは似て非なる存在である。
 そしてここでは、その罪ある者についてイエスは「悪魔」とまで言っている。
 「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう」。
 「このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません」。
 それは、イエスが神から出たのに対して、連中が神から出ていない「悪魔」だからだ。

 だが、もしそうだとしたら、イエスそんな連中は、はなから相手にしなくてもいい。この連中とは、どこまでいっても平行線だろう。
 それでもイエスがこの連中に話し続けるのは、平行線でなくなる時が来るかも知れないからだ。
 彼らの中の何人かでも、新しく生まれ変わることにより真理がすとんと分かってイエスの話を理解できる、すなわちイエスそのものが分かって信じることもあるのだから。
 そういう生まれ変わりが起こるために、イエスは栄光、すなわち十字架の死と復活を完徹される。
 この極刑の十字架と復活こそ、新生の型であり、逆にイエスは新生の初穂である。
 極刑により「悪魔」が「悪魔」として死んで、しかし新たによみがえるのだ。

 この信じると言うことは、自律的な営みなどではない。
 信じますと言っても、上のように悪魔呼ばわりされてしまう。
 信じてなどいないのだから。
 イエスの十字架の栄光以後の今、信心は恵みによって神から与えられるものであり、そのことを指して「神から出た者」と言っている。

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真理と自由

 「イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。
 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。」(ヨハネ8:30-37)

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 「イエスを信じた」という連中とイエスとの会話(の一部)。
 この連中には、「わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていない」。
 要するに、信じたつもりなだけで、実際にはイエスをかけらも信じてはいない。
 信じるということは、非常に難しい。
 だが、信じる者は真理を知っているので、それでイエスのお言葉がすんなりと入ってきて馴染みがいい。

 そうなるのは何故だろうか。
 「真理はあなたがたを自由に」したからである。
 イエスはここで、「自由」と「罪」とを対置させている。
 アダム以来、人間は罪の奴隷であり不自由な身とされ続けている。
 自由とは、罪の奴隷状態からの解放のことであり、「自由だから何をやってもいいんだ」とかいうこととは全く異なる。
 そしてイエスは、「子があなたがたを自由にする」ためにこの世に来られた。
 罪から解放されて自由になると、人間が本来的に持っていた「いのち」もまた、解放される。
 イエスが与える自由は、「いのち」を回復するのである。
 その自由を得るための真理は、十字架と復活によって、既に与えられているのである。

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主ともにいませり

 「わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」(ヨハネ8:29)

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 救われた人には、神が共におられ、その人をひとり残されることはない。
 そのような救われた人のやることなすことというのは、常に神の御心に沿っている。
 というよりも、救われたならば、おのずとそのようになる。
 そのような「行い」は、世人が嫌い憎しむものである(ヨハネ7:7)。
 そうであっても、救われて頂いた「いのち」の喜びの方がはるかに優っている。
(ちなみに、ここでいう「御心」は、品行方正だとかそんなことではない。)

 「わたしを遣わした方はわたしとともにおられます」ということこそ、「いのち」の本質である。
 イエスは十字架に架かる前に、救われるとはどういうことかを、御自身の立場に照らして私たちに伝えておられる。

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わたしが何であるか

 「イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。」(ヨハネ8:28)

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 イエスは、人間の肉と同じ肉をまとって来られた神である。
 だからイエスの話は、イエスの肉の部分によるのではない。
 イエスの内にある御霊が、いわしめている。
 肉にいいものは何もないので、それでイエスは「わたしがわたし自身からは何事もせず、」と仰っている。

 この神がまとった肉を処罰することで、そのことを信じる者の肉を解放するのが、イエスの十字架だ。
 「あなたがたが人の子を上げてしまう」のである。
 御自身を上げるのではなく、人々がイエスを上げ、そしてイエスは自らを上げてしまった人々を救おうとなさる。
 このイエスの十字架が見えたときに、「わたしが何であるか」を了解するのである。
 そして、いいものの何もない肉の罪からは解放される。
 このことが、キリストのお与えになる救いである。

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罪の中で死ぬ

 「それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」(ヨハネ8:24)

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 アダムの違反以来、罪の肉が人間に入り込んでいる。
 なので、人は皆、「罪の中で死ぬ」のだ。
 ただ、ここには留保が附されている。
 「わたしのことを信じなければ」。

 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)

 キリストがなした十字架と復活という贖いの「わざ」を神の恵みによって信じるとき、その人は不義なる存在であるにもかかわらず義と認められる。
 キリストを信じる者は、罪赦されるのである(罪がなくなるのではない)。
 その人は、キリストが拓かれた道と同じ道を歩む。
 すなわち復活であり、その人が「罪の中で死ぬ」ことはない。

 行いや善行、倫理観、あるいは品行方正さによって義とされるのではなく、キリストを信じることによってのみ義と認められる。
 ここで問題となるのは、毎度の事ながら「信じる」ということの恵みについてである。
 行いや善行、倫理観、あるいは品行方正さによっては、けっして信心には到達しない。
 どこまでもイニシアチブは神の側にあり、ただ神の恵みのみによって信じることができるようになる。
 だから、御神に願うことは本質的にはただひとつ、「イエスを信じる信仰を下さい」だけになる。

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