イエスの血肉

 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
 これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
 しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。
 それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。
 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:56-63)

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 63節「肉は何の益ももたらしません」について、この箇所を英語聖書のTEV(あまりメジャーとは言えない)は、ストレートに
  " human power is of no use at all. "
と訳出している。
 まったくもってそのとおりで、人間の自力によってはどうにもならないこと「いのち」について、上の聖書箇所が述べている。

 端的に、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」のである。
 だがそれは、差し出されない限りは、飲み食いすることはできない。
 それが差し出される前、人はイエスのこれらのお言葉を「これはひどいことばだ」ととらえている。
 ところが、ヨブの苦しみの果てに血肉が差し出されるとき、もはやそうとは全く思わなくなり、その血肉を飲み食いする。
 そのようにイエスを飲み食いした人は、イエスによって生きるようになる。
 そのことを「いのち」という。
 「いのち」には、自力はない。イエスによって生きているのだから。
 ちなみに、上に書いた「ヨブの苦しみ」も、ヨブはそこに自力で飛び込んだわけでは全くない。

 イエスの血肉、それは人としてまとったアダムの肉であって、十字架で引き裂かれて、したたり落ちたものだ。
 だから、イエスを飲み食いすると言うことは、イコール、イエスの十字架を受け入れるということである。
 そのことによって、イエスの復活にあやかるように、その人は「いのち」を得ることができる(参/ローマ6:4-5)。
 これももちろん、どこまでも他力だ。
 律法を守るというような自力の行いで救いを得ようと思うから、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」ということになる。

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