イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
罪と段階
「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)
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イエスのなされた「山上の説教」の中の一節。
上の引用聖句は、(新約)聖書の中にある。
この聖書を開くことがないならば、そもそも罪ということを知らないままだ。
聖書を開き、律法群や、それらを更に先鋭化させた上の「山上の説教」によって罪を知るという段階が、まずある。
さらに、この罪にさいなまれる段階がある。
上の引用聖句にある「義に飢え渇いている」とは、まさにこの状態を指す。
そして、イエスはこの段階にある者を「幸いです。その人は満ち足りるからです」と祝福する。
罪にさいなまれ続け、あるとき罪赦されるという段階(というより一瞬)がある。
そして、罪という概念から自由になる、言い換えると、罪を意識せずに済む、そのような段階へと落ち着く。
ちなみに、律法自体は厳然として存在し続ける。
罪( sin )というのは、窃盗罪とか、そういう犯罪の意味では全くない。
(だから、なぜ聖書の翻訳者が「罪」( guilty )という漢字を当てはめてしまったのか、私には不可解だ。)
アダムの肉である人間は、そのこと自体のゆえ神の怒りの下にいる。
このことを罪の下にあるという。
神の怒りの下にあるからこそ、人は神の御前に正しいという「義」を求め続ける。
そのアダムの肉がイエスの十字架と復活を信じたとき、「義」と認められ罪赦される。
神との和解だ。
アダムが善悪の知識の実を食したがために、人は自分勝手な善悪の判断をする存在、「アダムの肉」をまとうことになってしまった。
それでも人をお造りになった神は、アダムの肉をまとってしまった人間をやはりお救いになりたくて、毎日その救いの手を様々な人に差し出しておられる。
なによりも、御子の十字架という最大の愛をお示し下さった。
この御子の十字架が聖書から光輝いたとき、罪の赦しという一瞬が訪れる。
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[付記]
本日の記事は、2007年12月1日の記事に若干手を加えたものです。
デフラグ作業は続きます。
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イエスのなされた「山上の説教」の中の一節。
上の引用聖句は、(新約)聖書の中にある。
この聖書を開くことがないならば、そもそも罪ということを知らないままだ。
聖書を開き、律法群や、それらを更に先鋭化させた上の「山上の説教」によって罪を知るという段階が、まずある。
さらに、この罪にさいなまれる段階がある。
上の引用聖句にある「義に飢え渇いている」とは、まさにこの状態を指す。
そして、イエスはこの段階にある者を「幸いです。その人は満ち足りるからです」と祝福する。
罪にさいなまれ続け、あるとき罪赦されるという段階(というより一瞬)がある。
そして、罪という概念から自由になる、言い換えると、罪を意識せずに済む、そのような段階へと落ち着く。
ちなみに、律法自体は厳然として存在し続ける。
罪( sin )というのは、窃盗罪とか、そういう犯罪の意味では全くない。
(だから、なぜ聖書の翻訳者が「罪」( guilty )という漢字を当てはめてしまったのか、私には不可解だ。)
アダムの肉である人間は、そのこと自体のゆえ神の怒りの下にいる。
このことを罪の下にあるという。
神の怒りの下にあるからこそ、人は神の御前に正しいという「義」を求め続ける。
そのアダムの肉がイエスの十字架と復活を信じたとき、「義」と認められ罪赦される。
神との和解だ。
アダムが善悪の知識の実を食したがために、人は自分勝手な善悪の判断をする存在、「アダムの肉」をまとうことになってしまった。
それでも人をお造りになった神は、アダムの肉をまとってしまった人間をやはりお救いになりたくて、毎日その救いの手を様々な人に差し出しておられる。
なによりも、御子の十字架という最大の愛をお示し下さった。
この御子の十字架が聖書から光輝いたとき、罪の赦しという一瞬が訪れる。
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[付記]
本日の記事は、2007年12月1日の記事に若干手を加えたものです。
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