イエスはいつでも食わせるパン屋のおやじなのだろうか

 「そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
 人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。
 食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。
 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。」(マタイ14:19-22)

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 前々から不思議なのだが、どこまでもしつこくイエスを追いかけてきた群集は、給食の奇跡で満腹するや実にあっさりとイエスから離れてくれる。
 四千人の給食(マタイ15:32-39)でも全く同様に、満腹するや、あっさりとイエスから離れる。
 次から次へと飛び出るパンには喜んでも、イエスのこのしるしの意味には全く目が行かない。
 イエスが与えたいものは「いのちのパン」(ヨハネ6:48)であって、マナのような、それを食べていっときの空腹はしのげても死からは逃れることのできない(ヨハネ6:49)ようなものではない。
 だがこの群集はイエスを便利な存在としかとらえておらず、それでは単なるご利益宗教にすぎないのではないか。
 もっともそれも無理はない。
 私たちにはイエスがどのような存在なのかがわからないのだ。それもまったく分かっていない。
 イエスがいつでも食わせるパン屋のおやじに見えるのは、上の群衆と大同小異なのだ。
 しかし、復活のイエスの方から戸を叩いて会いに来る時が来る(黙3:20)。
 その時イエスは「いのちのパン」を与えてくれ、私たちもイエスがどのような存在であるのかをはっきりと了解するのである。

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[一版]2007年 7月22日
[二版]2010年 7月13日
[三版]2012年 4月28日
[四版]2013年11月24日
[五版]2016年 4月17日
[六版]2018年 4月22日
[七版]2022年 5月29日(本日)

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世のものなど惜しみなく売っ払うほどの宝

 「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)

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 この聖書箇所を初めて読んだときの自分は、持ち物を全部売り払わなくてはならないことのあまりのもったいなさに、まだ見つけてもいないのに後ろ髪を引かれる思いでいっぱいだった。
 賛美歌「キリストにはかえられません」の歌詞にある「世の楽しみよ、去れ、世のほまれよ、行け」も同じ思いで歌っていた。
 だが、そんな自分もそのときにはすべてを大喜びで売ってこの畑を買うのである。
 なにしろこの世に死んですばらしいいのちに生まれ変わったのだから、世のものなど惜しみなく売っ払えるのである。

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信仰とは金塊に一気に変わることで金メッキをつけることじゃない

 「すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」
 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。
 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」(マタイ13:10-13)

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 「持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまう」というとき、何を持っているのだろうか、または何を持たないのだろうか。
 端的に言って信仰なのだが、ここにいう信仰とは、御父に与えられるものであって、自分でもぎ取る類いのものではない。イエスの敷いた道に導かれて十字架に死に御父によって新しいいのちによみがえることである。
 だから、私たちを石にたとえると、この石に信仰が与えられると金塊にごろっと変わるのである。全く変わるのであり、石の表面に金メッキを付けたのとは全く異なる。メッキは簡単にはがれて石の地肌が見えてしまう。
 昔日出た礼拝の説教で、牧師が「毎年聖書を通読するのですが、私はヨシュア記を読むのがもうすごく苦痛で戦争は嫌で」云々と脱線した。さてこの礼拝が終わりにさしかかって連絡がアナウンスされる中、執事の方がマイクの前に立って「私は自分の国は自分で守るべきだと考えます。」と発言して場の雰囲気が一気に固まり、この牧師は何も言えなくなってしまったということがあった。礼拝なのか政治なのか分からなくなってしまったこれが、上に書いた石の地肌の一例だろうと思う。

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実を結ぶかどうかはともかく恵みという種はどこにも蒔かれている

 「イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
 耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13:3-9)

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 種がさまざまな場所に蒔かれた。ちなみに蒔いたのは「種を蒔く人」だ。
 種を蒔く人は場所を選ばずどんなところにも蒔いている。
 日の当たらないところ、雨の降らないところにもまんべんなく種は蒔かれた。
 この種には名前がある。恵みという名の種である。
 この恵みの種が実を結ぶ良い地があるが、それがどういう場所なのかは人には分からない。
 あの放蕩三昧のアウグスティヌスは、実を結んだのである。

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イエスは私にもまむしのすえたち呼ばわりしているんじゃないか?

 「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。
 良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。
 わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。
 あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:34-37)

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 人はその肉に、よい倉も悪い倉も宿しており、良い物も取り出せれば悪い物も吹き出てしまう。
 ことばによって罪に定められるのならば、ことばでの失敗のない人間などいないのだから、全ての人間が神の御前に有罪なのである。私たちもまた、まむしのすえなのである。

 そのように、まず私たちはその肉ゆえに存在そのものが罪深いのだと気付かされる。
 そして、その罪をなくしていって天の御国に適う存在になることなど、自力では到底できないということに絶望する。
 このときに私たちはイエスの十字架にはりつけにされてイエスと共に死に、そして復活のイエスと共に復活する。
 その過程で私たちは罪に死に、依然として罪深い身でありつつもその罪が赦された。
 私たちは罪深い者だが、その罪から自由になったのである。
 罪を罪とも気付かないパリサイ人とは、似て非なるものなのである。

 だから、イエスが「まむしのすえたち」と言うのを聞いて、それが実は自分を指していると気付くことが救いのスタートラインになる。

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[一版]2012年 4月 7日
[二版]2013日11月21日
[三版]2016年 3月26日
[四版]2018年 4月 7日
[五版]2022年 5月 8日(本日)

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自分を救うためなのか他人を裁くためなのか

 「イエスはそこを去って、会堂にはいられた。
 そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。」(マタイ12:9-10)

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 現代に生きる私たちは、たとえば、あなたは窃盗をしたので有罪である、というように法律の条文を適用する。
 上の聖書箇所でも、彼ら(パリサイ人)は安息日を破ったとイエスを指弾している。
 安息日を守れとは確かに律法に定められたことであるが、しかし、律法は法律とは決定的に異なる点がある。
 それは、律法が御父と個人との救いについての契約だということであり、その個人が内面の罪を自覚して罪深さに気づくことが律法の目的である。一方、法律は、もっぱら人を裁くためにある。
 上のパリサイ人は、貶めたい対象であるイエスを貶めたいから安息日のことをイエスに言っているだけだが、これは律法を法律として扱っているからだ。
 自分を救うためなのか、他人を裁くためなのかが、ここでは問われている。

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[一版]2018年 4月 6日
[二版]2022年 5月 5日(本日)

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すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)

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 園で御父と共にあったアダムが違反を犯して追放されて以降、人は重荷に重荷を重ねて背負い、自縄自縛に陥り、苦労がさらなる苦労を生み出してきた。そうして遂に疲れ切ってしまった。
 すべてこのような人に、イエスは休ませてあげようと呼びかけている。
 たましいに安らぎが与えられるよう、十字架と復活の道のりをイエスとくびきを共にして歩めよといざなっている。
 絶縁し続けていた御父から罪を赦していただくためで、そのための道を仲介者イエスはこのように整備した。
 この御父と和解することで御父からの怒りが止み、それで園にたましいが帰るのである。

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世はコミュ力の時代でも周囲の評価より天との和解

 「この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、
 こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
 ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、
 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」(マタイ11:16-19)

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 バステスマのヨハネやイエスは悔い改めを説き、当時のパリサイ人の世と鋭く対立した。
 ヨハネは飲み食いしないというので悪口をいわれ、イエスは大いに飲み食いして悪口を言われる。
 飲み食いの多寡についての善し悪しで言われているのではなく、憎たらしい一心で言われているので理屈はない。
 憎たらしいからあいつは食べないと悪口を言い、憎たらしいからあいつは大酒飲みだと悪口を言う。
 近頃ダブスタと呼ばれるこのようなことはどの世にも数多い。口だけのコミュ力のこの世では、こういうことは特に多いかもしれない。
 しかし、うわべではない内実を見ると、イエスの飲み食いは取税人や罪人を思い彼らを救おうとするものであることが明らかである。もっぱら救うために、イエスは彼らの土俵に入って彼らと交わり彼らに合わせた。
 イエスにとって基準は御父にあり周囲にはないのであり、そのことは私たち内住の聖霊をいただく者もまた同じである。頭で考えた上で取税人と飲む(または飲まない)のではなく、脊髄運動のように聖霊に突き動かされるのである。言い換えると、自分が動いているのではなくイエスが自分の内で動いている。
 このような私たちは周囲から影で悪口を言われることが多いが、和解してくださった御父が私たちをいつも見続けていてくださるので、それが我が身の魂の安らぎにつながるのである(29節)。

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