御父のもの

 「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。
 わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。
 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。」(ヨハネ17:9-11)

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 イエスの祈り。

 私たちはどの人も皆、かつて世に生を受けた者であった。
 しかし今、私たちはイエスの恵みに預かって、御父のものとされている。
 そして、イエスというぶどうの木に実った実(ヨハネ15:1-2)のことで、イエスが栄光を受けたと御父に祈っている。
 私たちは今、世界を造った御父との間に平和があり、奥底には満足感の泉がある。

 一方で、世の人たちは、この満足感の代わりとしてあらゆる種類の刺激を求め続ける。
 要はごまかしている。
 私たちもまた世にいる者として、このごまかしの中で日々を送っている。
 イエスは、その私たちをとりなして御父に祈っている。

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『みことば』と『あなたがわたしに下さったみことば』

 「いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。
 それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」(ヨハネ17:7-8)

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 イエスの祈り。

 私たちは聖書を通して、日々みことばに接している。
 聖書に何かがあると思うので、日々みことばを調べている。
 そのことが無駄になることは決してない。
 だがそれは「みことば」であって、「あなたがわたしに下さったみことば」とは異なる。

 両者はいったい、何が違うのだろうか。
 復活のイエスは、みことばを通して私たちにお会いになる。
 まさに、「あなたがわたしに下さったみことば」を通して、私たちにお会いになるのである。
 このとき、みことばは字面の意味などはるかに超えて私たちの中に入ってきて、私たちは子を知り、御父を知ることとなる。

 違う言い方をすると、日ごろ接するみことばは、文字の連なり以上のものではない。
 ところがこのときには、みことばという剣で、イエスは私を一瞬のうちになぎ倒すのである。
 なぎ倒されてはじめて、私はイエスが誰かを知り、御父の全能さに圧倒される。

 どのみことばかが与えられるのかは、そのときにならないと分からない。
 だからこそ、日々みことばに接することが大切になってくる。
 みことばを知らないのに、みことばを介したイエスとの出会いがどうしてあり得るだろう。
 賢い娘と愚かな娘のたとえ話にあるように、備えが非常に大切なのである。

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[一版]2017年 7月 9日
[二版]2019年 4月20日(本日)

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彼らはあなたのみことばを守りました

 「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。」(ヨハネ17:6)

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 イエスの祈り。
 ここでイエスは、御父に私たちを取りなしている。

 一体いつ、私たちは御父のみ言葉を守っただろうか。守ることができたであろうか。
 第一私たちの肉は、そのようにはできていないではないか。
 そこをイエスは、「彼らはあなたのみことばを守りました。」とみなした上で御父に取りなしている。
 みことばを守ることの到底叶わぬ私たちを、みことばを守ったから義とみなして下さい、そうイエスは御父にとりなしている。
 そして、これからなされる十字架と復活のわざによって、私たちもイエスによるこの信仰義認にあずかるのである。

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[一版]2011年 5月14日
[二版]2017年 7月 2日
[三版]2019年 4月14日(本日)

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イエスを知るということ

 「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:1-3)

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 イエスの御父への祈り。

 聖書はいったい、何のためにあるのだろう。
 人の魂が救済されるためのものだろう。
 世界や宇宙の万物が書かれているわけではない。
 イエスの十字架と復活が、手を変え品を変え書かれている書物である。

 だが、読んで理解したから魂が救済されるというわけではない。
 聖書は教科書や参考書ではない。
 「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」とあり、全くそうなのだが、この箇所を読んで文意を理解したというだけでは、イエスを知ることからはほど遠いだろう。
 イエスを知る、イエスに出会う、ということは、頭の上の理解ではなく、端的に体験なのである(参/黙3:20)。

 このようにイエスに出会う体験をして永遠のいのちに授かるという、このような救いの道が十字架の道である。
 この十字架の道は、まさにこれからイエスが切り開く。
 私たちは、イエスが切り開いたこの狭き道を、これから歩んでゆく。
 つばきをかけられ殴られ、鞭で打たれ十字架に掛けられて死ぬ、そのような苦しみの道だ。かつてなかったほどの大きな苦しみが、間断なく襲い続ける。
 そして死んでのち、復活のイエスに出会ってイエス同様復活する。
 正にこのとき、自分の体験した苦しみは、あのイエスの道だったのだとわかるのである。

 それにしても一体、どのようにしてその道を歩むこととなるのだろう。
 それは人には分からない。
 この狭き道は歩こうとして入るのではなく、気付くと歩かされているのである。

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[一版]2014年10月19日
[二版]2017年 7月 1日
[三版]2019年 4月 7日(本日)

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