十字架のいけにえ

 「また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、
 また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。」(黙示1:5-6)

---

 かつて祭司が毎年ささげた罪の赦しのいけにえの血によっては、誰一人として罪から解き放たれる者はいなかった。
 しかしキリストは愛ゆえに私たちを救おうと、御自身が十字架上で血を流して、私たちを罪から解き放たれた。

 そして、キリストは、「死者の中から最初によみがえられた」。
 「最初」なので、よみがえるであろう人はたくさんいるはずだ。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

キリストが代わりに死んでくださったほどの人

 「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。」(ローマ14:15)

---

 「おこごと」の中より。

 「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」。
 キリストとは救い主という意味だが、ではキリストはどうやって世を救ったのだろう。
 それは、神が人間と同じ肉を持った存在となってこの世に来られ、この世では極刑を受けて十字架の上で死に、神によってよみがえったことによって、である。
 全てアダムの肉を持つ者は、ただそのこと自体によって罪深い存在である。
 その罪を、キリストが身代わりに受けて死なれたのである。

 そのことを信じたとき、彼はキリスト同様、死んで、新たに生きることとなる。
 これがキリストによる人の救いである。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

キリストのために

 「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」(ローマ14:8-9)

---

 キリストに生かされ、そして死ぬときもキリストに印籠を渡されるはずだ。
 私たちは、主のもの、キリストのものだからである。
 キリストは、私たち生きている人の主であるばかりでなく、死んだ人にとっても主である。
 キリストは、そのような人をよみがえらせるため、死んでまた生きられたからである。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

『いのち』の触媒

 「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:13-14)

---

 引き続き、ロマ書の「おこごと」より。
 ちなみに、「おこごと」を馬鹿にしているわけではない。
 聖書のみことばは、字面とは全く異なる意味で働くことがあるのだから。
 だから、聖書のみ言葉は、むしろ霊的なものなのである。

 「昼間らしい、正しい生き方」とは、キリストに与えられた「いのち」の歩み。
 なので、このみ言葉を読んで「正しい生き方」をやってみようなどということは到底できない。
 だが、神が働いて「いのち」が与えられたならば、気付くとそういう生活ができている、そういう類のものだ。
(ここでいう「正しい」は、神にとっての正しさであり、この世にとっての正しさではない。)

 上の14節のみ言葉は、煩悶きわまったアウグスティヌスが、このみ言葉に触れて回心を果たした、そういうみ言葉である。
 アウグスティヌスにとっては、ロマ13:14が「いのち」の触媒だった。
 触媒は、その人その人によって全く異なり、予想のしようがない。
 こんな「おこごと」の箇所からでも、アウグスティヌスは煩悶から解放されてしまうのだ。

 アウグスティヌスの煩悶というのは、古い自分に死にゆく十字架である。
 そして、みことばという触媒によって新しくよみがえって「いのち」のうちを歩む。
 死なせるのもキリストならば、新しく生かすのもキリストである。
 このとき、今まで読んでいた聖書のどこかが、全く異なるきらめきを放って迫ってくる。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

復讐

 「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:19-21)

---

 ロマ書12章から始まる「おこごと」を、個人的には真に受けていない。
 しかし、上の聖書箇所は、まあそうかな、と思う。

 「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」。
 悪に対して善で応えるのは、悪を行う者に処するには、そちらの方が有効だからだ。
 神はどの人にも、良心というものを与えておられる。
 善で応えることによって、その良心の部分にフックを与えることができるのだ。
 このフックによる痛みが、「神の怒り」であり「燃える炭火」なのである。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

キリストの道筋

 「もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。」(ローマ11:15)

---

 イスラエルと異邦人とについての文脈の中でのみことば。

 「もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう」。
 この「彼」は、ここではイスラエル。
 だが、イスラエルだけでなく異邦人でも、私でも彼でも、誰にでも当てはまることだ。

 キリストは世界中の憎悪のもと、極刑の十字架につけられて死んでいった。
 しかし神によって、キリストはよみがえる。
 そのキリスト同様、「彼」は世界から捨てられて、そのことによりその世界は和解をする。
 その一方で、捨てられた「彼」は神に受け入れられて、死者の中から生き返る。
 そのことに、イスラエルも異邦人も、私も彼もないのである。

 キリストを信じるというのは、キリストも通られたこのような道筋を経るということだ。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )

恵みの選び

 「それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。
 もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。」(ローマ11:5-6)

---

 「選び」とは、救い等、言葉はなんでもよい。
 ともかく、神の恵みによって選ばれる。
 もし行ないによって選ばれるとすれば、それはその人自らが行ないの末に神に自己推薦するという、大変苦しいことになってしまう。

 しかし今や、救い主キリストの年である。
 このキリストを信じることができるならば、そのことが義とされてその人は救いに預かる。
 その信仰は、ただ神の恵みによってのみ与えられる。
 恵みの選びとは、そのようなことを指す。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

全地に響き渡る福音が聞こえるかどうか

 「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
 でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」(ローマ10:17-18)

---

 「キリストについてのみことば」とは、端的に福音のこと。
 この福音は、全地に響き渡った。今もなお、響き続けている。
 この福音を聞くことによって、その人は信仰に至る。

 ところが、すべての人が「耳のある者」(たとえばマタイ13:9)なのではない。
 聞く耳がないために信仰とは無縁の人がいる。
 否、無縁の人は多いのである。
 言い換えると、福音を聞く耳というのは、ただ神の恵みによる。
 人間のいかなる努力をもってしてもどうなるものでもなく、もっぱら神の主権の下にある事柄なのだ。
 そのような構造にあって、「耳がある」という神の恵みにより信仰に至る。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

信仰による救い

 「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9)

---

 「このことを信じるならば救われる」ということについて、「神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じる」ということが挙げられている。
 このことを信じるためには、その前提となることがらもセットで信じる必要がある。

1)神が御子イエスを、人間と同じ肉を持たせてこの世にお送り下さったこと
2)そのイエスは極刑である十字架に架かり、人間の罪深い肉と同じような肉をその十字架上で処罰されたこと
3)イエスは死んだが、神がよみがえらせたこと

 ざっとこんなところだろうか。
 その人の罪深さはイエスの十字架と共につけられ死ぬのだが、身ぎれいになって復活する。
 それが罪の赦しであり、救いである。
 その人は、まとわりついていた罪から解放されたのだ。

 そうであってのみ、イエスがその人にとって主人となる。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

信仰による義

 「では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。
 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。
 なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
 それは、こう書かれているとおりです。
    「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。
    彼に信頼する者は、
    失望させられることがない。」(ローマ9:30-33)

---

 律法の行ないによって義を追い求めた人たちは、その義に到達することはできなかった。
 ところが、そのような義というものを追い求めていなかった人たちが、信仰によって義と認められる。
 それは、つまずきの石によってである。
 このつまずきの石とは、イエス・キリストのことだ。
 このキリストは、旧い約束を終わらせ新しい約束を携えて、この世に来られた。

 律法は、神の完全な秩序をあらわし、不滅のものだ。
 だが、この律法を行い通すことは、罪深い人間にはできない。
 けれども、その罪深さが赦されることを信じる信仰を、イエス・キリストは与えてくださった。
 キリストは御自身を極刑の十字架上で肉を処罰し、なおかつ復活なされた、そういうお方だ。
 だから、このお方への信仰が、自身の罪深さを共に十字架につけて、その人をよみがえらせるのである。
 そのことは、行ないによって意固地に義に到達しようとする人たちを、したたかつまずかせる。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ