神との平和

 「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ5:1)

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 人は本来、神との関係性の中にのみ存在していた。
 だが、アダムの違反によって、その関係は破綻してしまう。
 神はそのアダムを、園から追い出してしまうのだ。

 ところで、この神-人という関係性の中で、神が絶対的に上位であり、人は絶対的に下位だ。
 その絶対的上位にある神がアダムの違反によってお怒りであるならば、人はがたがた脅え続けるしかない。
 だが、和解が神の方から差しのばされた。
 神の子イエスが罪深い人の身代わりに十字架に架かって下さったこと、それが和解を勧める神の手である。
 この和解を信じることができるならば、神と人との関係には平和が宿り、そこに怒りは存在しない。
 キリストとの出会いによってもたらされた信仰は、その人をこの園へと導く。

 こうして、信じる者にとって世界とは神との絶対的二者関係に収束されてしまう。
 なぜなら、神はこの世界そのものだからだ。
 もちろんその人は、神にひざまずく立場であり続ける。
 平和を得たからである。

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[付記]
 本日の記事は、今年2008年4月6日付の記事を大幅に修正したものです。

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コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
Unknown (ネコ)
2008-09-21 19:38:30
心に平和を得ていたのなら
あれほどたくさんの人々を
殺さなかったであろうに・・・。
キリストの名の下に
どれだけの人々が殺されたか・・・。
 
 
 
Unknown (Levi)
2008-09-22 21:28:39
 ネコさんの仰ることは、歴史的に見てまったくその通りです。
 キリストを信じているつもりでまるで信じていない者達がキリストの名の下にいろいろやらかした、そういうことです。
 
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