イエスが愛、愛がイエス

 「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」(ヨハネ13:1)

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 ユング心理学者の河合隼雄さんは、「物と心、自と他などと明確に分割することによって、近代人は多くのことを得たが、…………。つまり、明確に分割した途端に失われるものが「たましい」だと考える」と書いている(「物語を生きる」,p.13)。
 このことを「愛」という言葉に当てはめてみると、愛だけを分割して取り出した途端に愛とは何かが分からなくなるということになるだろうか。
 そうすると、イエスが愛であり、愛がイエスである、という方がより近いだろう。
 愛の乏しいこの私にも、十字架と復活というイエスの愛は惜しみなく注がれた。

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イエスの言うことを聞くとは

 「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。
 わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」(ヨハネ12:47-48)

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 イエスの言うことを聞くか、それとも受け入れないか。
 受け入れないというのはわかりやすい。この世に多くいる。
 では、イエスの言うことを聞くとはどういうことだろうか。
 それは、イエスのことばがその人の内に入って、その人の古い人が死ぬことである(ローマ6:6)。

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ブラックな世界に射し込むイエスという光

 「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」(ヨハネ12:46)

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 イエスは光として世に来た。ただ、多くの人は盲目であったため、光を光とは分からなかった。
 光を光といやでも分かった人もいる。目が一時的に見えなくなったサウロがそうだ。
 そこからすれば、盲目のため光を分からない人々はやみの中にとどまっているのだろう。
 ここでやみとは何だろうか。御父という唯一の神が分からずに、好き勝手やっている状態ではないだろうか。言い換えるとブラックであって、利権が神であって、正義も何もあったもんではない。
 このブラックさに息苦しくなったら、イエスに照らされることを祈ろう。このやみの原理とは異なる創造主の原理がある。

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かたくなな心

 「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。
 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。
 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。
 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」
 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」(ヨハネ12:37-41)

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 ラザロのしるしを目の当たりにした多くの人々は、イエスを神の子とは信じなかった。
 イザヤによれば、御父が彼らの目を盲目にし、彼らの心をかたくなにされたからだという。
 なにより、「祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた」(ヨハネ11:57)という状況にあったのだから、多くの人々はイエスを色眼鏡で見ていたに違いない。
 そうであるなら、イエスが何をしても何を言っても、ラザロをよみがえらせてすら、この群衆は舌打ちするだろう。
 世の常として、自分の仲間内が過ちを犯しても大目に見るが、敵対する人がどんなに素晴らしいことをしても悪く言うものであり、神の子イエスもこの世の常にさらされ続けた。
 このことを指して、御父はイザヤを通してかたくなな心と仰ったのかもしれない。

 しかし、私たち人間がこんなにかたくなであっても、復活のイエスの方から私たちに会いに来てくれるのである。
 このことについて、イエスは「わたしは、戸の外に立ってたたく。」(黙示3:20)と約束している。
 そしてこのとき、私たちのかたくなさは瞬時にして解けイエスを分かるようになる。サウロがまさにそうであった。
 このように、信仰は獲得するものではなく与えられるものであり、この神からの大きな愛を受けて、私たちは瞬時にして回心していやされるのである。

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[一版]2021年 1月24日
[二版]2023年 3月17日

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死ななければ生きない

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12:24-25)

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 聖書という書物は、十字架と復活についてもっぱら書かれている。
 死ななければ生きないのである。
 一粒の麦が地に落ちたとき、死ななくてはその麦が生きていのち輝くことはできない。
 しかし、この麦が地に落ちたのは御父によってであり、麦がみずから落ちたわけではない。
 マモニズムに満ちたこの世にあっても、死んではじめて、このマモニズムを超えて生きるようになる。このこともまた、御父の働きであり、イエスの十字架も、自ら選んだというよりは御父の命令に従ったものだ。
 自分で自分をどうこうしようとする者に、御父が働くことはない。聖書はいわば他力本願を求めている。

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運命

 「この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。
 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。
 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
 父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」(ヨハネ12:21-28)

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 希代の芸術家である岡本太郎は、次のように書いている。

    「運命とは自分で切りひらいていくもの---というより、
     向こうから覆いかぶさってくるたいへんな重荷だ。
     圧倒的に重い。やりきれない。
     だからこそ言いようなく惹きつけられるんだ。
     それをまともに全身に受け止め、自分の生きがいに転換するか、
     あるいはていよく逃げるか。
     人間的な人間は、幸・不幸にかかわらず、
     まともに運命を受け止める。」
         (「孤独がきみを強くする」,p.68)

 イエスは、自分がなぜ受肉してこの世にいるのかをあらかじめわかっている。
 いままではその時は来ていなかったが、ついにその時が来た。
 神の子イエスをして、この重荷に圧倒されている。
 受け入れる以外にはない運命に戸惑い心が騒いでいる。

 それにしても、運命とはどうしてこうも突然やってくるのであろう。ベートーヴェン交響曲第五でのあの有名な出だしも正にそうで、向こうからいきなり扉が叩かれる。
 こういうことが一生のうちで多分数回はある。
 上の聖書箇所でのイエスは、イエス自身の運命を受け入れる以外にはない。
 その点私たちはていよく逃げることもできる。しかしそれでは人生の方から見限られるだろう。
 逆に自力で切り開いてやろうと力むほど、よけいにこじれて収拾がつかなくなる。
 そしてこういうとき、人はまったくあてにならない。ヨブの友人たちを見ればよく分かる。
 私たちにできるただ一つのことは、自分の全存在を御父にお委ねすることだろう。上の聖書箇所でのイエスも正にそうだった。

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[一版]2020年 1月19日
[二版]2021年 1月22日
[三版]2023年 3月12日

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スケープゴート

 「もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」
 しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。
 ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」
 ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、
 また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。」(ヨハネ11:48-52)

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 希代の芸術家である岡本太郎は、こう述べている。「この現し身(うつしみ)は自分自身の、そして社会の、象徴的な生けにえであってかまわない。そう覚悟したんだ。」(「自分の中に孤独を抱け」,p.45)
 私は現代アートを好きになれないので、岡本の芸術も好きにはなれない。だが、通勤電車の中で上の一文に接したときに、この覚悟に感極まり不覚にも涙を流してしまった。自らスケープゴートになるというのは、この社会との軋轢を起こす自分を鑑賞者にさらしていこうということだろうか。

 イエスの公生涯、特に十字架は、やはり自らスケープゴートを自ら買って出ている。これは多くの人を救うための御父からの命令である。イエスは誰からも理解されずに極刑に死に3日目によみがえる。この救いの道を開拓したことこそ神の愛であろう。

 一方、大祭司カヤパは、「ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策」と言っている。イエスをスケープゴートにして国民を救えと言っているのであるが、救いたい対象が国民というより自分自身であることは明らかである。

 私たちアダムの子孫が他者のために自らスケープゴートになるということは、なかなかなれるものではない。むしろこの点についてはカヤパのように打算的あるだろう。しかし、三浦綾子の「塩狩峠」の主人公のように自ら命を投げ打った人も中にはいる。それに比べると些細なことだが、私も仕事でスケープゴート役としかいいようのない職務を買って出て2年目に入る。
 自分を生きるのか、漫然生かされているのかの違いであり、言い換えると、「いのち」の有無の違いである。

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死とよみがえり

 「わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」(ヨハネ11:42-44)
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 イエスは、死者ラザロをよみがえらせた。
 これは、「あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるため」のしるしである。
 その神の子イエス自身は、苦しみの果ての十字架と三日目のよみがえりによって、最大のわざを成し遂げた。
 このわざによってイエスは人々を救う道を開き、恵みによって人を救いに導き続けている。
 その人は、苦しみの果てに死に、よみがえって信仰を与えられる。
 このように、死とよみがえりとはペアである。片方だけでは何も分からなくなる。

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[一版]2021年 1月17日
[二版]2023年 3月 9日

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よみがえり主

 「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)

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 よみがえり、ということ。死んで復活するということ。
 イエスはもっぱら、そのことを為すためにこの世に来られた。
 罪深い私たちのために神が極刑の十字架に架かって死んで、しかも復活を遂げてくださったのだから、神の愛とは正にこのことを指すのだろう。
 そのイエスに従わざるを得なくなり、私たちも死んでよみがえって「いのち」を授かるのである。

 ところで私たちは確かに生きている。
 だがそれは、生物学的な意味においてのことにすぎない。
 人間としては死に続けている。
 それは魂の死のことで、多くの人は、そのこと自体に気がつかないか、目をそらしてやりすごしている。
 イエスは、そんな私たちによみがえりを与えようとしている。人間本来の生が回復されるためである。
 「いのち」とは、外見上のこと、たとえば、見かけとか言動、魅力などを指すのではなく、人を真に生かす内側から湧き出る原動力を指す。
 いいかえると、人様からどう映るかではなく、自分の内面の方向性ががらりと変わることであり、「回心」という言葉そのものである。

 イエスは、私たちをこの回心に導くための、いわば「よみがえり主」であり、このことにこそイエスの本質がある。

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[一版]2014年 8月23日
[二版]2017年 5月16日
[三版]2021年 1月11日
[四版]2023年 3月 8日

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自分の内の光

 「その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。
 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」
 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」(ヨハネ11:7-10)

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 イエスは「夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです」という。
 つまり、私たちは自分の内に光を宿していない。「もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」(マタイ6:23)とイエスも言っている。
 神が受肉したイエスが世にいた昼には、自分の外に光があった。このイエスが光であり、病のいやしなどの奇跡を通して人々は神を見た。
 では、イエスが昇天された今はどうであろう。
 自分の外に今は光がない。だが、この光が自分の内に光を灯してくださるのである。
 光が内に灯る人は、この真夜中でもつまづかない。
 行き先を照らすサーチライトとは違って、光そのものが私たちを導いている。

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 健やかな一日をお祈りします!

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