『いのち』のための働き

 「イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(ヨハネ6:26-29)

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 五千人の給食にあずかった群集は、もっとパンが欲しくてイエスを探し当てる。

 食べる(生活する)、ということ自体はとても大切だ。
 だが、それよりも大切なことがある。「いのち」を頂くことだ。
 恵みによって「いのち」が与えられれば、食べるための働きは、おのずとできるようになる。

 では、「いのち」が与えられるための働きとは何であろう。
 それはイエスを救い主、神の子と信じることに他ならない。
 「信じる」というとかなり違って、より正しくは「信じさせられる」のである。
 だから、これは大変な働きになる。
 承服させられるのだから。
 この「信じさせられる」というのは、神のわざである。
 その過程で、私たちは今までになかったような苦しみを味わうことになる。
 極刑に死んでよみがえるためだ。
 そして、よみがえったときに、この御父から「いのち」が与えられる。

 誰もが恵まれ得るのである。行ないではない。
 給食にあずかった五千人も、わざや身分によってパンにありつけたわけではない。

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[一版]2010年12月25日
[二版]2014年 6月28日
[三版]2020年 8月23日(本日)

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ヒューマニズムと聖書

 「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。
 互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。
 わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。」(ヨハネ5:43-45)

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 ヒューマニズムというものがある。
 人間をすばらしい存在ととらえ、互いに評価し合う。
 人間の良い面も醜い面もありのままに認めるというのならばまだ分かるのだが、このヒューマニズムは良い面だけを見て、人間の全存在に信頼を置こうとする。
 彼らは自分の内側にある醜い面、嫌な面から無意識に目をそらしているのかもしれない。多分そうだろう。

 このヒューマニズム観は、聖書からは最も遠い。
 なぜなら、聖書は人間を良き存在とは見ていないからだ。
 むしろ逆で、アダムの違反以来、神の御前に罪深い存在として人間は絶えず糾弾され続ける。
 私たちは、律法を授かったモーセから絶えず訴えられ続けているのである。
 それは、私たちがどうやっても神の律法を守り通すことができないからだ。
 その罪の苦しみ。自分の内面の醜さを、律法という鏡越しに嫌と言うほど見なくてはならない。
 ここからの救いをもたらしてくれるのが、救世主イエス・キリストである。

 自分の内面から目をそらすか、それとも自分の内面をみつめてゆくか。大まかには、その違いである。
 どちらの方が心豊かに歩むことができるだろうか。
 それで私は、救ってくださったイエス・キリストに感謝しているのである。

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[一版]2014年 6月22日
[二版]2020年 8月16日(本日)

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『承認欲求 なくしたい』

 「わたしは人からの栄誉は受けません。
 ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。
 わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。
 互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。」(ヨハネ5:41-44)

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 希代の芸術家である岡本太郎は、著書「自分の中に毒を持て」の中で、「考えてみると、人生には、世渡りと、ほんとうに生きぬく道と二つあるはずだ。」(p.122)と書いていて、それを読んだときには膝を打つ思いだった。
 「ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れる」人々というのは、上に言う世渡りとしての信心、方便としての信仰にすぎないのではないか。それでイエスを受け入れる余地がないのかもしれない。

 それとは異なり、上に言うほんとうに生きぬく道とはイエスが山上の説教でいうところの「狭い門からはいりなさい。」(マタイ7:13)と同じで、気づくとこの道を歩むこととなって、やがてイエスを介して御父が認めてくださる。

 このイエスは御父からの栄誉で足りるので、「人からの栄誉は受け」る必要はそもそもない。
 この点私たち肉を持つ者は、その肉ゆえに人からの栄誉をほしがるところがどうしてもある。
 このことを調べようと「承認欲求」をググったら、「承認欲求 なくしたい」という候補が出てきて、本来のマズローによる用法とは違う気もするが、人の悩みはそう変わらないと分かり妙にうれしかった。
 そして、「承認欲求 なくしたい」と思ったなら、その人は広い道ではなく、ほんとうに生きぬく道の入り口に入ったのかもしれない。

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何を求めるのか

 「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:39-40)

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 「あなたがた」であるところの彼らは、「永遠のいのち」を求めて聖書に当たる。
 一方で、「いのち」を与えるのはイエスなのに、そのイエスのもとには行こうとしない。
 「永遠のいのち」、「いのち」と敢えて抜き書きしたが、この両者は違うもののように思える。

 彼らが欲しがっている「永遠のいのち」とは、死なないことなのではないか。
 死ぬのが恐いのだ。もしかすると、老化しないことまで含まれるかもしれない。
 一方、イエスのいう「いのち」とは、創造主との和解を通じて、死んでいた魂がいきいきとよみがえることをいう。
 そのためには、むしろ死ぬことがどうしても必要なのだ。つまり罪に死ぬことである。

 死はなににも増して恐いもので、彼らの気持ちに理解はゆく。あるいは、その不安を鎮めるために彼らは聖書にすがっていたのかも知れない。
 しかし、聖書は精神安定剤の類ではないし、いやしを与えるものでもない。
 この聖書の言葉が生きて入ったとき、その人は死ぬのである。そして、復活のイエスによってよみがえる。このように、聖書とは峻厳とした何かだ。
 聖書に何を求めるかというのは、とても大切なことだろう。

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[一版]2018年11月23日
[二版]2020年 8月 2日(本日)

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