観念と実質

 「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
 というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」(マタイ7:28-29)

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 群衆が驚いたのは、山上の説教の内容そのものではなく、「権威ある者のように教えられたから」であった。
 では、律法学者のような教え方と権威者の教え方とでは、どう違うのだろうか。

 これは、頭だけの観念的な理解だけなのか、自身がその観念を体現しているのか、その大きな違いである。
 イエスの山上の説教というのは、律法の体現者である神の子によるものなので、頭だけのうわっつらなものとは全く異なっていたであろう。
 自分自身のことについてなのだから、まさに「権威ある者のよう」であったに違いない。

 ところが律法学者の律法解釈は、頭だけの、観念的な理解の域を出ていなかった。
 教えを教えとしかものにできず、教えを教えとして教え伝えていた。
 自分の身になったものではない、上っ面の解釈。
 すぐに剥げてしまうメッキの教え。

 それから上には、「群衆」という人々も出てくる。
 彼らはまったく何も分かっていない。分かっていないが驚いたりするのであり、五千人の給食でもなんでもいいが、彼らはただパンが欲しいだけなのである。

 上の聖書箇所ではこの三者だけがでてくるが、ここではでてこなかった人々がいる。
 信仰者のことだ。
 彼らについては、エレミヤ書に書かれている。

 「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:33)

 自分自身の中に律法があり、自分自身の中に神がおられる、そういう人々がいる。
 メッキなどではなく地金であり、イエスの十字架と復活を通して御父との和解に至った。
 もし彼が右の頬を打たれたら、躊躇せず殴り返す。
 分かった上でそうするのである。

 聖書というのは、観念的に理解するものではない。
 また、実践マニュアルの類でもないし、法令集でもない。
 それでは何かというと、十字架の死と復活という、信仰へと至るひな形を切り開いたイエスを明らかにするものなのである。

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こっぱみじん

 「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:24-27)

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 山上の説教の最後。
 山上の説教とは、イエスを通した徹底した律法解釈であった。

 さて、イエスが仰るように、「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行」ってみよう。
 この徹底した律法解釈を、どこまで行うことができるか。
 だが、肉を持つ人にはそれができない。全くできない。
 山上の説教を守り行おうとして、自分はそれを守れていると思っている人は、実際には守れてなどはいないから(そのことに気付いてすらいないだろう)、「砂の上」の家のようである。

 一方、山上の説教をどこまでも試みて、そうしてどうしても出来ない、という地点にまで追いつめられたとき、その人は暴風雨と洪水の前に倒れる。
 それも、こっぱみじんにひどく倒れる。
 だが、そのこっぱみじんのときに、復活のイエスと出会って「いのち」を得る。
 この「いのち」こそ、岩の上に立てられた家なのだ。

 大切なことは、どんな家を建てるかということではない。
 イエスを通した律法によって、こっぱみじんに倒されることなのである。

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[1版] 2008年 2月12日
[2版] 2008年 7月28日
[3版] 2010年 5月22日
[4版] 2012年 2月25日
[5版] 2013年11月 9日
[6版] 2016年 1月24日(本日)

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御父のみこころ

 「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:21-23)

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 私は教会を離れてから10年以上になるが、当時、どうにも違和感を感じていたことがある。
 フォークギターの伴奏で「ホサナー!」とか「我が主イエスよー」などと歌っている、あれだ。
 「『主よ、主よ。』と言う者」以前に、単に集団で歌うのが楽しかっただけなのではないか。
 ともかく、主よと歌っている。

 「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」

 救われるためには、単にイエスを慕うのではなく、御父のみこころを行う必要がある。
 では、御父のみこころとは何であろう。
 「善行」を積むことだろうか?
 それではなぜ、御父はわざわざイエスを遣わして受肉させたのか。「善行」はイエスなしでもできることだ。
 そうではなく、御父のみこころとは、イエスの十字架と復活の御業を通して私たちに「いのち」を与えて救済することだろう。
 言い換えると、御父のみこころを行うとは、十字架と復活のイエスに出会うことにほかならない。
 そして、救われたいのは自分の内面の罪からなのであるから、まずは神の律法によって自分の罪深さそのものに気付き苦しむこと、ここが御父のみこころを行うことの出発点となる。

 もし神の律法に関心がないとすれば、その人は罪がわからず罪に無縁であるだろう。
 そうすると、彼は、罪の赦しを与えるイエスを、一体、どんな理由で慕っているのだろうか。
 「わたしはあなたがたを全然知らない。」となるのも、実際に知らないのだからもっともなことだ。

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イエスの狭き道

 「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

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 世の道は広く、誰しもがそこを通ろうとする。
 みんなと同じように振る舞うのは、さしあたり楽なのである。
 流されるように広い道を通る。
 そこにイエスは、狭き道を貫通させた。
 十字架と復活の、いのちへと至る道だ。

 この狭き道に入る門は、目には見えない。
 だから探してもみつからない。
 この門は、自分からはいる門ではなく、入らされる門であり、気付くとこのイエスの道にいる。
 そして、イエスと同じく死とよみがえりとをくぐってゆくその先には「いのち」がある。

 そののちも、私たちはこの狭い道を通り続ける。
 世とは異なる原理で歩むため摩擦も多く、その道は険しい。
 広い道で流されていた方が、よっぽどいいようにも思える。
 だが、そのように流されていたのではけっして味わうことのできない「いのち」の満足感、充足感が何者にも代え難いのである。

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[一版]2013年11月 7日
[二版]2016年 1月11日(本日)

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何を求めるのか

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)

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 山上の説教より。

 私たちは一体、何を求めるのだろう。何を探し、どこを叩くのだろう。
 それは、狭い道への入り口である。
 イエスは、救いを求める者は救われると、ここで言っている。
 探す者には、恵みが見いだされる。
 「だれであれ」、なのだから、これを福音と呼ばずして何を福音と呼ぼう。

 では、私たちは、果たして実際に求めているだろうか。探しているだろうか。
 見当違いをしてはいないだろうか。
 ここで私たちが求めるのは、私たちの罪深さからの救いである。
 金銭や、うまく事が運ぶことを求めるのではない。そのような御利益のことではない。
 罪の責めからの救いなのである。
 そうであれば、罪の責めに苦しんでいなくては、そこから救われようとも思わないだろう。
 何が罪かがわからなくては、罪の責めも生じないに違いない。
 罪を罪と気付かせて糾弾するのは、律法であり、イエスである。
 私たちが求めているのは、この罪の赦し、御父との和解による安らかさに他ならない。
 その和解を、御子イエスが仲介してくださる。十字架と復活によって、仲介してくださる。
 よって、私たちが求めるものの焦点は、イエスと共に十字架に死に、イエスと共に復活することだ。
 イエスは「だれであれ」、十字架と復活を共にしてくださる。

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偽善者たち

 「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:3-5)

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 上の引用聖句そのものについては措く。
 イエスはここで、私たちを偽善者呼ばわりしている。
 さらに、もう少し後の11節でもイエスは「あなたがたは、悪い者ではあっても、」と、悪い者呼ばわりする。
 何故だろうか。
 端的に、私たちが偽善者であり悪い者であるからだ。

 私たちはふだん、自分が偽善者、悪い者であるとは思いたくないし、気付きたくもない。
 イエスは、そのような私たちが自身の罪に思い至るために、この山上の説教を行っている。
 「偽善者」、「悪い者」、あるいは罪深さというのは、神の律法という絶対的な基準に照らしたときに、私たちはそう断罪されざるを得ない、ということである。
 Aさんからはあしざまに言われるがBさんからはほめられる、というような、相対的なものではない。私たちは、絶対的な意味において、偽善者であり悪い者なのである。
 そのことに気付いてストンと腑に落ちることこそが、救いのスタートラインである。
 イエスは、多くの人を救いたくて、それで挑発までしているのである。単に、私たちの悪口を言っているわけではない。

 救われると、神の律法は自分の魂の内に宿る。
 頭の計算づくで「善」をする時代は終わり、自分でも気付かないうちに善をなすようになるだろう(マタイ6:3)。

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