響き渡り続けている声

 「でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」(ローマ10:18)

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 「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた」というところの「その声」とは、ヨハネ3:8にある「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。」とあるところの「風」と同じである。
 その声は全地に響き渡り地の果てまで届いているのだが、「彼らは聞こえなかった」し、風の音を聞いても「それがどこから来てどこへ行くかを知らない」。
 声であれ風であれ、それはいつもどこにもあるのだが、あるときそれが自分を貫くのである。苦しみ抜いたその果てに貫かれる。
 このとき、貫く側に絶対的な主権があるのであり、貫かれる自分がどうこうしようとして聞こえるようになるものではない。頭の考えは思っていたよりはるかに愚かで、今まで聞こえなかったのは、振り返るとむしろ自然なことだった。

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観念ではない信仰

 「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:8-10)

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 信じるとはどのようなことなのだろう。
 それは観念的な確信ではない。
 私が教会にいたはるか昔、上のローマ10:10を引用して、口で告白したので自分は救われるという旨のことを言う人たちをよく見た。自分もそうだったと思う。
 しかし、ここで問われているのは、何を信じるかだろう。

 むしろ、信じるというよりは、イエスによって信じさせられるのである。
 そのとき、私たちはイエスの十字架での死とよみがえりをくぐりぬけさせられる。
 「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、」とあるが、これはその人の体験に依っている。

 1日に聖書を3章読むとか、暗唱聖句とか、こういう営みは、石ころの表面に金メッキをつけてゆくのと同じで、そのメッキの厚みをどれだけ増しても、石ころであることには変わりはない。傷を付ければ剥げてしまって地である石の面が見えてしまう。
 しかし、イエスによってねじ伏せられるかのようにして与えられる信仰はそうではなく、石ころが金そのものに変わるのである。よみがえったのである。どこまで削れても金なのである。

 「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」というのは、暗唱したものがいつでもすらすら出てくるというのではなく、自分自身がみことばの本質なのである。
 「口で告白して救われる」というよりも、石ころが金になったので、口にする内容が異なってくるのである。

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[一版]2015年 7月26日
[四版]2024年 5月19日

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信仰は聞くことから始まる

 「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。
 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:15-17)

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 もう随分前のことだが、教会にいた頃の私はトラクト配りを2回やった。
 各戸のポストにビラを投げ込む、ただそれだけのことだが、私の足は少しは立派になっただろうか。最近は冷え性に悩まされている。
 そのように、イエス・キリストや教会そのものを知ること自体は、イエスを通した御父との和解に至るためのきっかけになる。
 ここで、上の聖句「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」は、上に書いた両方共にあてはまる。
 というのは、聖書の文字というのは、いつもは他の書物の文字となんら変わることがないが、「ことばは神」(ヨハネ1:1)というほかない時が来て、みことばを文字面とは違う神のことばとして聞いて御父と和解するからである。
 トラクト配りというのを今もやっているのかどうか、今の私には分からないが、何らかのやり方で十字架と復活による魂の救いが伝え続けられればと思う。

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十字架と復活を信じる

 「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:8-10)

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 イエスは十字架に死に、神によってよみがえった。
 このことを信じて人は救われる。死とよみがえりという形の救いを信じるのである。
 そして実際、よみがえったイエスは会いに来て下さる。このときに御父と和解でき、聖霊をいただく。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある」とあるとおりであり、心強い助け主なのである。
 毎日がつつがなく日々幸福、という日々が約束されているわけではなく、死とよみがえりという大きな起伏によって砕かれて神の子とされることが約束されている。たとえばヨブもそうである。

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