自力

 「私は私の弓にたよりません。
 私の剣も私を救いません。
 しかしあなたは、敵から私たちを救い、
 私たちを憎む者らをはずかしめなさいました。」(詩44:6-7)

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 私たちは、自分の力でなんでもやるようしつけを受け学んできた。
 ところが、この自力というものは、悲惨なほどあてにならない。

 今の私があるのは、自分で道を切り開いたから、では全くない。
 というより、どうやれば「こんなへんてこな道」を歩くことができるのやら、振り返ってみて不思議ですらある。

 今、私は「弓」を持っている。「剣」を持っている。
 だが、それに頼るのはやめにしよう。
 「へんてこな道」を振り返れば、頼らない方が賢明なことが一目瞭然だ。
 「へんてこな道」のラインを描いてくださった方に、お任せしよう。
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復帰

 「不正を喜ばずに真理を喜びます。」(1コリント13:6)

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 さあ時が来た、背筋を伸ばそう。

 ほんじつ、仕事に復帰する。

 さくじつ私は、ある判決文を解析していた。
 懸命に。

 しかし、ふとぱらりと開いた聖書には、こうあった。
 「不正を喜ばずに真理を喜びます」。
 判決文なんかよりこれぞ唯一無二の「マニュアル」、そう素直に喜べた。
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約束のもの

 「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。
……
 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
……
 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」
 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
……
 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(ヨハネ4:6-7,13-14,17-19,42)

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 先日、新聞で小さい仏像の宣伝を見た。
 またこの手か、と思いつつ眺めていると、この仏像には開運なんとか商売繁盛云々かんぬん、あわせて十の御利益がございます、とか、そういうのがあった。
 聖書は、この類の御利益を、ものの見事に全く約束していない。
(キリスト教系には、病気の治癒(いやし)を表看板に出す一群が存在するが、警戒すること。)

 旧約はここでは措こう。
 新約が約束するもの、それはひとこと、「いのち」だ。
 そしてこの「いのち」は、あるいはあすにでも授かることができる類のものである。
 そのことを思い、上にヨハネ第4章「サマリアの女」の骨格を抜き出した。

 この女は井戸に水を汲みに来る。
 たったひとりで。
 旧約聖書に井戸汲みの場面が幾度も登場するが、どれも、集団でわいわいやりながら、というものだ。
 それからこの一帯は昼間暑く、夜寒い。だから、活動しやすい時間帯というのが決まっており、その時間帯に人々は一斉に活動する。
 ところがこの女は、ひとりぽっちの水汲み。
 人々に顔を合わせたくない。人々の活動時間帯を避ける女。
 のちにあきらかになるように、5人もの男と結婚離婚を繰り返し、今はまたも同棲中なのだから、人に会いたくもないのは(特に水汲み役の女性達)しごく当然だろう。
 何人の男をとっかえひっかえしても、どうにも満ち足りない、そんな女だ。

 さてこの女は、イエスに出会う。
 話は飛んで最後、人々の方からこの女に、「この方がほんとうに世の救い主だと知っている」と話しかけてくる。もちろん、喜びの表情で。
 このサマリアの女は、「渇かない水」(いのち)を得た。
(もしかすると町中の人がそうかもしれない。)
 想像にすぎないのだが、このサマリアの女は、同棲中の男と結婚し、そうして落ち着いた生活に入ったような気がする。

 イエスが約束するものは、実にこの「いのち」である。
 「御利益」ではない。
 むしろ「御利益」とは逆のものかも知れない。
 「御利益」、それは、人から「いのち」を失わせてしまうものだから。

 サマリアの女は、男を何人も取り替えて、ある意味「モてた」かもしれない。
 だが彼女は「モてた」から、さいわいだったか? 心満たされていたか?
 取税人レビ(マルコ2:14)は、イエスの招きに応じて、すぐさま全てを捨てて従った。
 取税人の頭で金持ちのザアカイ(ルカ19:2)、彼がイエスを求めるさまは、こっけいですらある。それほどまでに、イエスによるさいわいを求めていた。
 カネもまた、心満たす何物も有していない。
 彼らはみな、多大な「御利益」にあずかっていた人々だ。

 ほかの何物によっても埋めようのないもの。
 そして、それがあれば、もうなにも必要ないとすら思えるもの。
(参/マタイ13:44-46)
 それが、「いのち」、イエスが下さるもの、聖書が約束するものだ。
 しかも、気が遠くなるほどのはるかかなたの約束というわけでもない。
 サマリアの女は、すぐ約束のものにあずかった。
 レビも、ザアカイも、約束のものにあずかった。
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パンのみにて生きるにあらず

(1)
 「すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:3-4)

(2)
大事を成そうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった

より偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことができるようにと
病弱を与えられた

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった

人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆるものを喜べるようにと
生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りは
すべてかなえられた
私はあらゆる人々の中で
最も豊かに祝福されたのだ
(「病者の祈り」)

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 「パンのみにて生きるにあらず」。
 実際、(2)の詩では、もっぱらパンを求めたら、結果パンは得られなかったものの、そんなものを遙かに超えた「生命を授かった」。
 この「病者の祈り」という詩は、ニューヨークの病院に掲げられているという。
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いつも共にいる

 「たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。」(イザヤ30:20)

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 少し前、孤独に悩んだ時期があった。
 その「感触」は、もう随分前に、やはり孤独を思ったときと、ほぼ同じものだった。
 ただ、少しだけ違っていた。
 その孤独感自体はあっても、「誰か」がいつも共にいる、という、確信めいたものがあったことだ。

 「誰か」、という呼び方はおこがましいだろう。
 私はその「誰か」を「神」だと決め込んでいたものだから。
(「イエス」と呼んでもいいのだろうけど、なんとなく「お父様」と呼んでいる。)
 「誰か」が神であり、私といつも共にいてくださるという根拠なき?確信の程は、今、とても深い。

 上の聖句にあるように、今日も私の目は「私の教師」を見続けている。
 神……。
 そうであれば世間の波風のことなぞどうでもよい、そう実にあっさり割り切ることができたから、あの孤独感の「感触」からは、じきにあっさりと抜け出ることができた。
 ちなみにその前の時は、抜け出るのに相当の時間を要したものだ。当時、既に教会には随分通い詰めていたのだが。

 神が共におられる(イエスがおられる)、 ”心底” そう思えるというのが「信仰」というものではなかろうか。
 信仰、即ち義であり、それは自ずと善行に進ませるはずだ。
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約束の成就

 「あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。
 あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。」(申8:17-18)

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 「富」と限定してしまうと非常に狭くなるので、「為すこと」と、かなり広く捉えてみることにする。
(為すことを無事為し終えたときに得る報酬、その蓄積が富である。)

 「為すこと」を無事やりとげること、それをやり遂げるために与えられた力量、時間、助け等。
 これらは全て、いにしえからの神の約束によって与えられたものだ。
 それ以上でもそれ以下でも、ない。

 これを、自らの力量でやりとげたんだと思いこみ、「自らの力」(そんなものは、ほんとうは存在しない「影」のようなもの)を誇り出すと、上の聖句にあるように、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」となってしまう。
 そうして天狗の鼻がみるみる高くなり、自分をすっかり見失う。
 最近では、野球・バファローズを解雇された中村ノリに、その典型を見る。
 偉そうに書いている私自身も、実はこのパターンだった。

 「為した」のは神の約束の成就であって、自分の力などではない。
 事が成就したときには、自分にこのことを「為さしめて」くれた神、この方に感謝しよう。
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順序

 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

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 まず第一に求めるもの。
 それは、五日後の金銭や二日後の休暇ではなく、まずは、常日頃知らず知らずのうちに問われ続けている「神の国とその義」を行うことだろう。
 これは、日夜、瞬時瞬時に問われ続ける。
 休暇の日であろうが金銭を頂く日であろうが。
 「神の国とその義」をもっぱら求めるならば、後ろ向きのネガティブな発想はそもそも浮かばず、常に今がベターになるはずだ。

 やはり物事、順序通りにやらねばならないようだ。
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慰め

(1)
 「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

(2)
 「慰めは苦しみのすぐかたわらにある。これは、神が、ほかのだれよりも、このようなみずから進んで苦しみを堪え忍ぶ人びとのそば近くにいられるということである。そこで、彼らには苦難そのものが実に甘美な、堪えやすいものとなるばかりでなく、すべてのことがよい結末を得るのである。
 このような慰めがなければ、だれもあの「狭い道」を歩みえないであろう。すでに多くの人が多くの苦しみのなかにありながら、この慰めを得て幸福であった。」(「眠られぬ夜のために・1、ヒルティ、草間・大和訳、岩波文庫の1/9)

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 「慰めは苦しみのすぐかたわらにある」。
 日本のことわざにも、「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」とある。
 四方八方暗黒に覆われているわけではない。
 「慰め」が必ず、それもすぐ脇にあったりする。
 私自身も何度も経験したことだし、多くの人々もそうだろうと思う。
 そのことを繰り返してこそ、この「狭き道」を全うできよう。
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評価

 「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」(マタイ6:1-2)

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 イエスの山上の説教より。

 「人にほめられたくて」、すなわち、人からの評価を求めて、なにがしかのことを行っているのか。
 それとも、もっぱら天の父からの報い(評価)を求めんがために、そのことを行っているのか。

 「偽善者」の受けた「自分の報い」、それは、「人に(そのときだけ)ほめられた」ということのみである。
 ただ、天のみを、あこがれ見よう。
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なんのために

 「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」(ヨハネ6:27)

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 様々な職種がある。
 お偉いさんから下っ端まで、実にさまざまだ。
 病中の者だっている。
 もっぱら今日のために「何かをやる」ようにみえても、それは同時に、見果てぬ「永遠」のために行っているのだと思う。
 個人的には、もっぱら「永遠」のために、今日のためのことをやろうと思っている。
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