ただ神によって

 「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:9-13)

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 イエスは「すべての人を照らすそのまことの光」として、世に来られた。
 すべての人を照らすにもかかわらず、「ご自分の民は受け入れな」い。

 しかし、中には「この方を受け入れた人々」が現れる。
 「その名を信じた人々」だ。
 彼らは、血筋柄信じることができたというわけではない。
 つまり、アブラハム以来の血統によって信じたのではない。
 また、「肉の欲求や人の意欲」、つまり、信じたくて信じることができたわけでもない。さらに、信じるために何かを行うことで信じるに至るわけでもない。
 実に、「ただ、神によって生まれたのである」。
 すなわち神の恵みである。

 この恵みなしには、「まことの光」をはっきりと見ることのできる目は閉じられたままだ。
 「ご自分の民は受け入れな」いのも、道理である。
 割礼によってではなく、神の恵み、すなわち聖霊によってのみ、目は開かれる。
 ちなみに聖書の登場人物の中では、サウロ(パウロ)が典型例だ(使9:3-19)。

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アダムの肉と神の恵み

 「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ5:19-23)

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 ここも有名な箇所で、人によっては「罪のリスト」だとか言う記述。
 個人的な話になるが、私の受洗時、どこかのおやじがこの箇所をひもといて、自分の毎日の行いをこの聖書箇所に従って点検せよという、それはありがたいご指導があった。

 人間は、アダムの肉をまとっている。
 そして、十字架と復活によって、アダムの肉は処罰された。
 すなわち、そのことを信じるならば、救われる。

 「肉の行ないは明白であって、……」と、以後色々と続く。
 例えば、「敵意」、「憤り」、「ねたみ」。
 そして、「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」と終える。

 たしかに、そのようなことを「している」、すなわち行動化してしまうのは問題だろう。
 ただ、行動化してしまったとしても、「神の国を相続することは」ないのであろうか。
 イエスの十字架と復活というのはは、そんなにも脆弱であろうか。

 まず、上のようなことをこころに思うことというのは、この世に生きていてごく自然なことだと思う。
 たとえば「この人に頼りたい」という偶像礼拝的な思いは、誰にだってある。
(実際に頼ってしまうかどうかは別だ。)

 さて、上の聖書箇所には、「しかし、御霊の実は、……」と続く。
 愛、喜び、善意等。
 これらは御霊の実であって、アダムの肉から出るものでは全くない。
 そして、御霊の実とは、キリストの復活が相成った事による神の恵みだ。

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仕える人

 「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
 あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
 また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。
 あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。
 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」(マタイ23:8-12)

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 パリサイ人は人から先生と呼ばれたがっている(7節)というのを受けて。

 先生などと呼ばれるな。
 そのような存在は、ただキリストおひとり、皆はキリストを信じる兄弟姉妹達という関係だから。
 父などと呼ばれるな。
 そのような存在は、天地万物をお造りになった唯一の神だけだから。
 師などと呼ばれるな。
 「あなたがたの師はただひとり、キリストだからです」。

 「先生」、「父」、「師」。
 そういう存在になろうとすること自体が、「自分を高くする」ということだ。
 21世紀、社会の多様性は実に広いので、ここには様々なものが入る。
 社長、大臣、CEO……。要するに、「自分を高くする」すべての存在。
 このような人たちは、人に仕えるということができない。
 たとえば社長がコピー取りをするものではない。つまり、仮に仕えたいと思っても、立場上できなくなってしまう。

 イエスが仰るのは、仕えよ、ということ。
 そのためには、「自分を高くする」ことは妨げになってしまう。
 だから人の上に立とうという誘惑それ自体が、わなとなる。
 仕えることは、天の御国で報いが大きい。

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神の御前に日々悔いなく

 「それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』」(ルカ12:16-20)

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 このたとえ話は、「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」(21節)ということを例えている、という。
 しかし、それだと「神の前に富む」ということがどう例えられているのかが分からない。
 そこで、たとえの目的とされる事柄とは全く別のことを書いてゆこうと思う。

 溜め込んだ男は言う。
 「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」。
 何年先までも困ることは何もない、さあ、我が魂よ、安んじて食べて飲んで楽しもうじゃないか!
 そんな男を神は嘲笑する。
 「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる」。

 人についての数少ない絶対的平等の中に、「人は必ず死ぬ」というのがある。
 ただ、いつ死ぬのか、それは全くもって誰にも分からない。
 極端な話、私はこの記事をアップして5分後に脳卒中を起こす可能性が、全くのゼロではない。
 明日外出すれば、事故の可能性が、ゼロではない。
 この、いつ死ぬのかが分からないということは、神の知恵のような気がする。
 なぜかというと、死の有限性が、今日一日を全うしようというインセンティブを与えるであろうから。
 言い換えると、「いつ死ぬとも知れぬ身だから、今日も悔いなくやろう」ということ。
 「悔いなく」というのは、この場合、もちろん神の御前に悔いなく、という前提がある。
 曲がりなりにも人が一日一日を大切に過ごすために、神は「死の可能性」を見せつけているように思う。
 「死の可能性」を見るのは、「生への欲求」の裏返しなので、むしろ分かりはよい。

 「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」。
 この男にとっての「安心」とは、食い物(飲み物)にしばらく困らないということだ。
 だが、彼はもし死なずに済むとしても、次第に無聊さをかこつことになってしまったであろう。
 だから、もしかすると「いつ死ぬとも知れぬ身だから、今日も悔いなくやろう」というスタンスこそが「神の前に富む」ということなのかも知れない。

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主は私の羊飼い

 「主は私の羊飼い。
 私は、乏しいことがありません。
 主は私を緑の牧場に伏させ、
 いこいの水のほとりに伴われます。
 主は私のたましいを生き返らせ、
 御名のために、私を義の道に導かれます。
 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
 私はわざわいを恐れません。
 あなたが私とともにおられますから。
 あなたのむちとあなたの杖、
 それが私の慰めです。
 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
 私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」(詩23:1-5)

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 あまりにも有名な詩篇23篇。

 「頭に油をそそ」ぐ、というのは、多分洗髪する位の意味だと思う。
 的を前にして、神はそいつをやっつけるのではなく、神を信じる者の食事を整え、身の回りのことをして下さる。
 ここは「死の影の谷」だ。
 だが、神はこのように共にいて下さる。

 では、何故死の影の谷を通り敵に対さなくてはならない必要があるのか。
 そのことが、「私を義の道に導かれ」ることだからである。
 神は、導くがための試練を、このようにお与えになる。
 だが、いつも共にいて下さる。
 「主は私の羊飼い」なのだから。

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いのちの光

 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4-5)

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 「この方」とは、イエス。
 このイエスの内にはいのちがあり、そのいのちとは「人の光」であるという。
 「人の光」とは、なんだろう。

 希望、というと少し違うような気がする。
 端的に、いのちは輝いて光を発するものではなかろうか。
 その光は、闇の中を突き通す。

 イエスは、このいのちを信じる者に与えるためにこの世に来られた。
 信じた人が、闇の中にあってさえも光り輝く光を持つためである。

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世に勝ったイエス

 「イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。
 見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。
 しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。
 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。
 あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:31-33)

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 あなたが神から来たことを信じますと言う弟子たちに対しての、イエスの返答。

 このあと、イエスはこの軽薄な弟子たちからいともあっさりと見捨てられ、たったひとりで十字架に向かうのだが、父が共にいることをイエスは疑いを持つことなく信じている。
 このことは、「型」だ。
 何の「型」かというと、イエスを信じる者の「型」、お手本である。
 上の引用箇所のもう少し前に、こうある。

 「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」(ヨハネ15:19)

 イエスを信じるということは、そのイエスによって世から分け隔てられるということだ。
 そして世のものではない彼はこれから、世にあってはひとりで歩む、否、イエスと共に歩む。
 イエスは彼に声を掛けられる。「勇敢でありなさい」、そう、声を掛け続けられる。
 彼は、このイエスだけは常に共にいて下さると信じきっている。
 そういうわけでイエスは、世のものではないが世にある人々の「型」、またお手本なのである。
 よって彼らは、イエスを離れては何もできない(ヨハネ15:6)。
 この意味において初めて、イエスが「主」となる。

 その主イエスは宣言する。
 「わたしはすでに世に勝ったのです」。
 世「で」勝ったのではない。
 イエスは世を超克した。それも「すでに」。
 イスカリオテ・ユダの裏切りを受け入れることによって、また、それにより多くの人々を救う十字架への道を完遂することによって、世を超克する。
 さらにイエスは復活する。
 まさしく世に勝つ。
 この復活のイエスと出会って、私たちはこの世から分け隔てられてイエスを信じている。
 この信仰こそイエスが世に勝利した証拠、その最たるものに違いあるまい。

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[付記]
 本日の記事は、2008年1月6日の記事に若干の変更を施したものです。
 これでデフラグ作業はおしまいです。おつきあいくださって、ありがとうございます。
  このブログは毎日の日課として書いているものですから、どうしても日によって内容が飛び飛びになってしまいます。
 ですので、ときどきこのようなデフラグ作業をすることによって、「小まとめ」をしております(前回は去年の6月だったと思います)。
 このブログで書きたいことというのは、ただひとつ、「いのち」です。
 ではなぜこのことを書き続けるのかというと、自分でもはっきりとは分からないのですけれども、あるいは伝道とか宣教と言われたならば、まあそうかな、と思います。
 この「いのち」のことをすらりと書くということなど、私には到底できません。
 それでも、毎日試行錯誤しつつですが、聖書に依って書き続けてきました。
 今回のデフラグ作業を通して、はずれ記事もたくさん見いだしました。
 それでもこうしてまとめ作業を重ねるにつれ、微かに筋が見えてきたかなという感を持つのですがいかがでしょうか。
 今までお読み下さり、またコメントを下さり、クリックしてくださったことを深謝いたします。
 これからもよろしくお願いします。

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聖書の目的

 「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:30-31)

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 イエスは多くのしるしを行われた。
 多くの病人、体の不自由な人々、ハンセン氏病の人々を癒された。
 多くの人から悪霊を追い出した。
 死人をすら、よみがえらせた。
 知恵に優れ、巧みな例え話の数々で民衆に接し、策略をも見破った。
 そして、誰よりいつくしみ深かい。
 聖書には、とりわけ福音書には、こういった記述が溢れている。

 しかし、「これらのことが書かれた」聖書は、イエスの癒しや悪霊の追い出しに期待をもたせては、いない。
 例え話を例え話として読む者には、容赦がない。
(「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです」マタイ13:13)
 そして所詮は書物の登場人物なのだ、いつくしみ深い人(お方)にじかにめぐり会うということもない。

 だがそれでも、聖書記者達は書いた。
 イエスを伝えるため?
 というよりは、もっと積極的に、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため」だ。
 イエスを知識として知るためでは、ない。
 イエスを「キリストと信じる」ためだ。
 そのためには、キリスト(救世主)とはどのような存在か、ということを知る必要がある。
 つまり「救われる」ということについて。
 聖書記者達は、「しるし」ではなく文章などという愚かしい伝達手段によって、そのことを分かってもらおうと書いたのだろう。
 そうしてやがて、集められて聖書が編まれた。

 この聖書をはじめに一回読んでも、知識として文章や想像上の光景がいくばくか記憶に残るだけだ。
 二回読んでも、記憶量がもう少し増えるだけだ。
 百回読んでも、やはりその延長線上にすぎない。
 また、ひたすら大量に暗記しても、やはり「知識」は「知識」にすぎない。
 ところがここが聖書の不思議なところで、百一回目目に、「知る」が「信じる」に飛躍する。
 「キリストを信じる」。
 ある人は二十一回目かも知れないし、またある人は二百五十六回目かも知れない。
 ともかく放擲さえしなければ、いずれ「救われる」が分かって「信じる」に至り、「イエスの御名によっていのちを得る」ことになるはずだ。
 聖書を開いた時点で、すでにその道を歩みだしている。
 そしてそのため、人々に「いのち」を与えるためにこそ、聖書がある。


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[付記]
 本日の記事は、2007年9月7日の記事を少々修正したものです。
 長らく続きましたデフラグ作業も、明日で最後になります。

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偶像

 「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。
 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。
 子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」(1ヨハネ5:19-21)

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 この手紙の最後の箇所。
 唐突に「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」と記されて、この書物は終わる。
 このことに、長い間大きな違和感があった。

 イエス・神の御子がこの世に来られて、何が一番変わったのだろう。
 「真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったこと」だ。
 ただ、誰かれにも、この理解力を与えられたわけではない。
 長血の女の箇所(マルコ5:25-34)でも、イエスに押し寄せる群衆達には何もなく、ただ長血の女だけが癒される。
 両者ともイエスに押し寄せた点において、なんら変わるところはない。
 ただ、御子と信じる信仰があったかどうかが、決定的に異なる。
 この長血の女は、「真実な方を知る理解力」があったのである。

 この長血の女のような人々は、キリストの内にいる( in Crist )。
 今は見えないこの方をのみ、もっぱら礼拝するのである。
 だからこそ、「偶像を警戒」する必要がある。
 なぜなら、偶像はキリストからその人を引き離してしまうからだ。

 偶像というのは「像」に限ったものではない。
 私は仏像を見ても、何とも思わない。鳥居もそうだ。
 お焼香もする。
 例えばそういうもの(行為)を偶像として警戒せよと指導する人に影響を大きく受けて思考や行動に大きな制約が生まれたとき、彼はキリストのいのちから離れて「人」という偶像にあっけなく屈する。
 つまり、偶像というのは、人が勝手にイメージして作り出してしまう類のものであり、そのイメージが投影される対象は何でもよい。
 だから、その投影の対象は「像」に限った話では全くない。

 いずれにせよ、偶像はキリストという本質からは大きく引きはがしてしまうもので、大切なことは、キリストの内にいるということだけだ。

 偶像を警戒せよと書いたヨハネさんを、今はよく分かる。

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[付記]
 本日の記事は、2007年10月27日の記事に大幅な修正を施したものです。

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最後のささげもの

 「すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。
 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
 これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」(ヨハネ6:52-58)

---

 「彼ら」の疑問それ自体は、しごくもっともである。
 「どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」。
 だが私たちは、確かなところイエスの肉を食らい、またイエスの血を飲んで、そうしてこんにちがある。

 イエスの血肉。
 それは、神にささげられた子羊や山羊が、その小さな相似形である。
 少し長くなるのだが、以下に引用する。

 「イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。
 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
……
 そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。その夜、その肉を食べる。それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。
 あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。……これは主への過越のいけにえである。」(出12:3-11抄)

 ヨハネ6章は、過越の祭りを間近に控えている時のことを書いているので、この箇所を引用してみた。
 子羊や山羊は、いけにえ。
 神にささげるものだから、傷一つあってはならない。
 焼いたときに出る煙が神の分で、肉そのものはささげた人の取り分になる。
 しかも「食べなければならない」。

 肉をまとったイエスは、肉を持つにもかかわらず、ただの一度も罪を犯したことのないお方である。
 つまり、傷が全くない。
 そのイエスが、十字架という形でいけにえになられた。
 傷のあるいけにえは、神が受け入れなさらない。
 だから、世の罪を贖ういけにえは、イエスしかいない(参/ヘブル9:14)。

 だから、いけにえとなったイエスの肉を食らい血を飲め、そうイエス御自身が仰っている。
 それらを飲み食いしない限りは、その人はイエスとはまったくの無関係だ。
 そして、「飲み食い」ということば自体は抽象的なのだが、十字架がはっきりと見えてそこにたどり着いたとき、確かにそこにある「天から下ってきたパン」たるイエスの血肉を「飲み食い」することで、私たちは生き返って「いのち」を得ることができる(参/ヘブル7:23-25)。
 これは、「食べなければならない」ものだ。
 イエスはそのためにこそ、十字架に架かられた。
 子羊や山羊では、何度やっても無理だった(cf:ヘブル7:23-25)。

 だからイエスの十字架は、神から与えられた最後のいけにえである。
 この十字架を、はるか遠くから眺め見ても意味はない。
 すぐそばに寄って、その十字架に預かる必要がある。
 それはイエスの血肉を食らい、罪赦されて「いのち」を得るためだ。

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[付記]
 本日の記事は、2008年2月3日の記事をリファインしたものです。
 デフラグ作業も、あと少しです。

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