人の救い

 「神よ。あなたご自身が
 私たちを拒まれたのではありませんか。
 神よ。あなたは、
 もはや私たちの軍勢とともに、
 出陣なさらないのですか。
 どうか、敵から私たちを助けてください。
 まことに、人の救いはむなしいものです。
 神によって、私たちは力ある働きをします。
 神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。」(詩60:10-12)

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 今日、初めて「田植え」をやった。
 義父が兼業農家で、「田植え」初日の手伝い。

 いや、何ということはない。
 苗が植わっている「四角い皿」、この皿をバケツリレーして田植機に運ぶだけのことだ。
 「四角い皿」は、田植機に適した規格品。
 単なるバケツリレーで、泥につかったりとかいったことは、ちっともなかった。
 それでも、そのバケツリレーはとてもありがたがられた。
(確かに、その作業を夫婦ふたりでやるのはきついと思う。)

 だが、人の助け、救いには限界がある。
 ときには人は、足を引っ張る。
 そうであっても、協調しなくてはならないときには、そうする。
 そうするが、人の助け、救いには、一定以上の期待を掛けてはなるまい。

 そのような助け、救いというのは、神のみが与えてくださる。
 それも、不思議な形で。
 今、こうして書いていて、私がいのちあるのは、聖書を手に取ったその日からの日々を思い起こして、「神の救い」としかいいようのない種々の事々が積み重なってのことだ。
(それは今日いちにちの歩みを振り返っても、そう思う。)

 この軸が、しばしばぶれる。
 人に頼りがちになる。
 個人的には、神との強固な信頼関係があってこそ、人とどうこうできるのでは、と思わずにはいられない。
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シオンへの大路

 「万軍の主。あなたのお住まいは
 なんと、慕わしいことでしょう。
 私のたましいは、主の大庭を恋い慕って
 絶え入るばかりです。
 私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。
 雀さえも、住みかを見つけました。
 つばめも、ひなを入れる巣、
 あなたの祭壇を見つけました。
 万軍の主。私の王、私の神よ。
 なんと幸いなことでしょう。
 あなたの家に住む人たちは。
 彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。セラ

 なんと幸いなことでしょう。
 その力が、あなたにあり、
 その心の中にシオンへの大路のある人は。
 彼らは涙の谷を過ぎるときも、
 そこを泉のわく所とします。
 初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。」(詩84:1-6)

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 「シオンへの大路」という道路は、ない。
 しかし、こころの中に、「シオンへの大路」は、ある。
 詩人は詠う。「なんと幸いなことでしょう。 あなたの家に住む人たちは」。
 そこへの道のり。

 この道のりのさなかにあろうとも、涙の谷は避けられない。
 到達点まで、いくつもの涙の谷へと沈み、そして昇ってゆく。
 かつてのそこは、泉となった。
 さあ、この道のりを歩んでゆこう。
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ほんとうの自由

 「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32)

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 「自由A」と「自由B」。
 上の聖句にある、イエスの仰る方を「自由B」としよう。

 自由Aは、例えば身の自由とか経済上の自由等。
 そういうものをどんどん自由にしていって、しすぎてゆくと、例えばナチスにまでいってしまう。
 例えば、特急電車の中で当たり前のように強姦をしてしまう。
 自由Aというものは、それを保ち続けるのに大きな責任をずっと持ち続ける必要がある。

 「真理はあなたがたを自由にします」。
 自由B。
 これは、人間の内面を捕らえているもの(罪)、こいつを真理という快刀で解放されて得た自由だ。
 この自由Bを得て、ようやく行動の真の自由を得ることができる。

 自由Aと自由Bとの、そのあまりの違い。
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仕事(その2)

 「たえず何か有益な仕事をし、あせったり、心配したりしないこと。
 (中略)
 あまり働きすぎてはならない。また、一般に、秩序ある暮らし方をすれば、その必要もない。一方、適度な仕事は、力を維持する最上の方法であり、また非活動的な力やたるんだ力を救う唯一の、無害な刺激剤でもある。」
(「眠れない夜のために・1」、ヒルティ、草間・大和訳、岩波文庫の1月3日)

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 「自分のしている仕事の『意味』って、何だろう……」。
 デスクワークの僕は、そういうわけでそんなことをしばしば考える。
 この「問い」に「こたえ」は、ない。
 「こたえのない問い」を考えるヒマさ、というか、デスクでぐにゅぐにゅやってると、やはり煮詰まってしまうもので。
 今日は、全くのまぐれで有用な昔の論文を見つけ、さらにぐにゅぐにゅしているうちに定時になったので、さっさと途中で切り上げた。
 帰宅し、クリーニング屋に行き、風呂を入れ、云々の家事。
 体を動かすので、これで少しバランスが取れる。

 仕事、それは「たるまない」がためにあるもののように思う。
 職場でのそれ、家でのそれ。
 もちろん働きすぎないことは大前提だ。

 全ての仕事は、意味はともかく、意義深い。
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double standard

 「もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。
 うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」(ヨハネ7:23-24)

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 安息日に割礼を施す。
 つまり「どっちか」を守るならば「もう片方」に違反する。
 自分たちのそれはよくて、人の「どっちか」違反には目くじらを立てる。
 イエスはその矛盾をついた。

 残念ながら、罪ある人間は、多かれ少なかれ、この double standard をやってしまう。人が「これ」をやるのは許せないのに自分はいい、とか。
 また、これも残念なことだが、罪ある人間は、種々の形式の「さばき」、これもしてしまう。

 私たち人間に、「正しいさばき」はできない。
 それをなさることのできる唯一のお方、その方の「正しいさばき」に委ねよう。
 そういうわけで人間のさばきというのは、話半分に受け取っておく程度でよさそうだ。
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カインの怒りはキリストがなだめる

 「彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。
 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。
 主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。
 それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創4:2-7)

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 カインとアベルは、ともにささげ物を神にささげた。
 アベルのそれを神は目を留め、カインのそれには顧みられなかった。
 怒るカイン。顔も真っ赤だったことだろう。伏せてしまう。

 私がカインの立場だったら、怒る。やはり顔を真っ赤にして。
 いや、たぶん、頭が真っ白になって、そして気絶し倒れてしまうだろう。
 隣にいるアベルと違って神から顧みられなかった、そういう状況なのだ。

 「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか」。
 「主よ、私のささげ物には、御目を留められなかったからです。アベルのささげ物には目を留められたにもかかわらず、です」。
 「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる」。
 「主よ、恐れ入ります、『正しい』ということが分かりません」
 「ああカインよ、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。愛するカインよ。」
 「主よ、主よ。その『正しく行なっていないのなら、罪』とはますます分かりません。いまにも怒りの感情が沸騰しそうです、主よ。」……


 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:23-24新共同訳)

 アダム以来、人は罪を犯している。
 だから、アダムの子・カインは「正しい」というのが出来ない
 ここでいう「罪」は、(アベルへの)殺人という具体的行為だ。
 その類の心象や衝動を有しているという点で、私たちはなんら変わらない。
(アダムが善悪の知識の木の実(創2:17)を食べたから。)

 ただイエスの十字架によって「無償で義とされ」た。
 このことを信じることが出来れば、その人はとても安らぐことだろう。
 誰だって、多かれ少なかれ、殺意は抱く。
 この時点でアウト、罪だ。
 そういう罪深い存在であっても「神の恵みにより無償で義とされる」ということがストンと落ちていれば、行動にまで行ってしまうことは、まずあるまい。
 その意味では、神がカインに対して仰った「罪」というのは、現在はイエスの十字架によってすっかり贖われた。
 ときは新約なのだ。

 話は戻って、私は「カインとアベル」を不思議に思う。
 ささげ物について、ふたりは何の相談もしなかったのであろうか。
 アベルは、自分のささげ物が受け入れられたときに、単純に喜んだだけだったのだろうか。隣で打ち震えるカインのことを、どう思っていたのだろうか。
 カインとアベルは一体、競争相手なのだろうか。兄弟ではなく。
 これは畢竟、アダム達の子どもだからなのだろうか。

 私は信じる、キリストがアダム以来のこの状態を快復するのだ、と。
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霊なることば

 「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:63)

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 ほんじつ、タイトルを「霊なることば」とした。
 霊? この取扱注意かつ茫漠とした用語もまた、私は滅多に使ったことがないはずだ。
(なぜ「取扱注意」なのかというと、たとえば「オーラの泉」とかいうテレビ番組が流行っているそうで、その番組の説明を読んでいて、やはり今はまずいと思う - こういう時勢だということが「取扱注意」にしている理由だ。)

 それでも書き留めておきたい。
 「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」。
 イエスのお言葉は、そこで聞いていたであろう人々にも、2000年のふるいを経て「聖書」という書物を通して接している我々にも、霊として作用し、そしてこの霊は「いのち」を与えてくださる。

 イエスの言葉は、霊だ。
 「ことば」というのは、単なるコミュニケーションの道具にすぎない。
 コミュニケーションといっても多種多様だ。
 法律、通達、同僚・友人との会話、店でのやりとり、そして家族とのひととき。
 だが、そんな次元をはるか通り越してしまって、「ことば」は霊であり「いのち」を人に与えるものへと昇華する。

 「ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)
 数多く流通する「ことば」達は、人と人とのコミュニケーション手段の域を超えない。
 ところが、その「ことば」が「神」として振る舞うとき、「いのち」が与えられる。
(「神」が「ことば」を発されたとき、か?)
 「いのち」というと、脈々としたエネルギーの塊、そういうイメージがあるが、私は人それぞれだと思っている(たとえばルカ2章でのシメオン)。
 逆境には、少しだけかも知れないが強くなったような気がする。
(誰にだって「逆境」は、ある。)

 私にとっての「ことば」は「わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)、これが、そのような類のものとして働いてくださった。
 あれこそ決定打というのだろう。もう1年近く前のことだ。

 一方、「肉は何の益ももたらしません」、人がどたばたやっても、「得たいもの」は得られないということだと思う。「どたばた」、これこそ「肉」だ。
 「霊なる言葉」を頂けるために唯一許されている「肉」とは、それを願い祈り求める行為なのだろう。
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癒しの恵み

 「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。
 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。」(ヨハネ5:1-9)

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 イエスは短く、「よくなりたいか」と尋ねられた。
 「三十八年もの間、病気にかかっている人」は、イエスの問いに、妙な返答をしている。
 「よくなりたいです」が、まあ妥当な受け答えではなかろうか。
(このとき、問うた相手がキリストだなどとは、まず思わないだろう。)

 それに「三十八年男」の訴えは、要するにこういうことだ。
 「よくかき回された池に浸かることが出来れば癒されるに違いないのに、いつも人々に先を越されてしまう。」
 彼は、とにかく誰かにこのうっぷんを話したかった、そこにその話をする対象(イエス)が現れた、あるいはそういうことだったのかも知れない。

 信じがたいことに、イエスは、この「三十八年男」を癒される。
 こういうのこそ、「恵み」というのだろう。
 私は、この「恵み」という用語を、本ブログで初めて用いた。
(何故かというと、よく分からない概念だから。)
 「信じたから癒された」という人は福音書の中に大勢出てくるが、ここまで「信仰から程遠い」人が癒される。
 「恵み」以外の何物でもない。
 その信仰のなさは、もっぱら「よくかき回された池」に癒しを求め続けた38年を送ったほどだ。
 その「三十八年男」が、恵まれる。

 こういう「状態」を仮定してみよう。
 「ひたすら祈り続けて、部屋に閉じこもって灯りも消して50年、ひたすら「恵み」を求め続けた」。
 この人にいったい、どういう恵みがあるのだろう?
(ここが分からないから、「恵み」、この言葉は封印し続けてきた。)
 外へ出よう、祈りつつ。
 「主よ、恵んでください」と祈り、あとは天に任せてしまう方が、「ある回答」という形での「恵み」に預かれる、つまり、祈りが叶うのではなかろうか。
 「三十八年男」も、かつて祈ったことだろう。
 「よくかき回された池」にばかり目が行くようになってしまっても、結果的に祈りが聞き届けられて癒されたに違いない。
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有言実行のひと

 「 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。
 求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。
  『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:38-44)

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 帰りの電車を待つベンチの上で、ふと聖書を開く。
 上の箇所を読んで、思った。

 右の頬を打つような者に左の頬も向けたひとこそ、イエスだ。
 求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしたひとこそ、イエスだ。
 自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ったひとこそ、十字架上の、あのイエスだ。

 「あの十字架」にはそういう意味もあったのか……、しばし、ひたひたと感じ入っていた。
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ゆだねる、ということ

 「その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」
 イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。
 彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。」(ヨハネ4:49)

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 もし私だったら、イエスのお言葉に対して、ひざまずいて来てくれと懇願することだろう。
 息子の癒しについての、より確かな保証(?)を得たいから。

 一方、この役人は「ことばを信じて、帰途についた」。
 「この人は神で、仰ったとおりになる。事態は委ねて家に帰ろう」、そういう心持ちだったのではなかろうか。

 「より確かな保証」? 求めだしたらキリがない。
 「どこか」でぴーっと線を引いて、そこ以上は祈りつつ神に委ねてしまう。
 祈って、そして、ぽーんと。

 昨晩以来試し続け、今のところうまくいっている。
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