イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
一回限りの正餐
「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」(ヨハネ6:53-55)
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イエスの肉を食らいイエスの血を飲むということ。
この肉と血とは、イエスの十字架で裂かれた肉、流された血である。
この十字架のイエス、復活のイエスが私たちに会ってくださるときが来る。
そのとき、私たちは「いのち」をはじめて与えられる。それは今までにはなかったものだ。
また、聖書の文字というのは、いつもは他の書物の文字となんら変わることがないが、「ことばは神」(ヨハネ1:1)というほかない時が来る。
異なる表現だが、どちらも同一の本質を指している。
このようなことは、この一回限りである。
一回出会いがあって赦されれば足りるからである。
毎月(あるいは毎週)の儀式にはまた、別の目的がある。
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わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」(ヨハネ6:53-55)
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イエスの肉を食らいイエスの血を飲むということ。
この肉と血とは、イエスの十字架で裂かれた肉、流された血である。
この十字架のイエス、復活のイエスが私たちに会ってくださるときが来る。
そのとき、私たちは「いのち」をはじめて与えられる。それは今までにはなかったものだ。
また、聖書の文字というのは、いつもは他の書物の文字となんら変わることがないが、「ことばは神」(ヨハネ1:1)というほかない時が来る。
異なる表現だが、どちらも同一の本質を指している。
このようなことは、この一回限りである。
一回出会いがあって赦されれば足りるからである。
毎月(あるいは毎週)の儀式にはまた、別の目的がある。
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神に教えられる
「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
わたしはいのちのパンです。
あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6:45-51)
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イエスは仰る。「またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」。
イエスは「世のいのち」のために、自らの肉を与える。
肉をまとった神がその肉をささげて、「世のいのち」に供する。
どのようにして供するのか。それが十字架である。
イエス御自身が極刑を受けて、この肉を処断された。
そして御父はこのイエスを復活させ、肉そのものに赦しを与えられた。
このイエスの道が人々を救う。
私たちも、イエスのようにこのアダムの肉を十字架で処断される。そして、赦されて復活するのである。
ここでいう赦しは、マナとは何の関係もない。
今イエスは、パンを目当てに追ってきた群集を相手に話されているが、彼らが欲しいのはあくまで空腹を満たすマナであって、それはイエスが与えようとする「いのちのパン」とは全く異なる。
だからイエスは、この群衆にこう仰る。
「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます」。
群集はイエスのところに来たのではない。
パンのありかを探しに来ただけだ。
ところが、恵みによって「神によって教えられる」とき、その人はおのずとイエスのもとに駆けつける。
十字架が、字面をはるか超えてはっきり了解できたからだ。
もちろんイエスは、彼を受け入れる。
---
[一版]2007年11月19日
[二版]2009年 1月 5日
[三版]2010年 3月22日
[四版]2010年12月30日
[五版]2014年 7月 7日
[六版]2017年 3月12日(本日)
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だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
わたしはいのちのパンです。
あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6:45-51)
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イエスは仰る。「またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」。
イエスは「世のいのち」のために、自らの肉を与える。
肉をまとった神がその肉をささげて、「世のいのち」に供する。
どのようにして供するのか。それが十字架である。
イエス御自身が極刑を受けて、この肉を処断された。
そして御父はこのイエスを復活させ、肉そのものに赦しを与えられた。
このイエスの道が人々を救う。
私たちも、イエスのようにこのアダムの肉を十字架で処断される。そして、赦されて復活するのである。
ここでいう赦しは、マナとは何の関係もない。
今イエスは、パンを目当てに追ってきた群集を相手に話されているが、彼らが欲しいのはあくまで空腹を満たすマナであって、それはイエスが与えようとする「いのちのパン」とは全く異なる。
だからイエスは、この群衆にこう仰る。
「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます」。
群集はイエスのところに来たのではない。
パンのありかを探しに来ただけだ。
ところが、恵みによって「神によって教えられる」とき、その人はおのずとイエスのもとに駆けつける。
十字架が、字面をはるか超えてはっきり了解できたからだ。
もちろんイエスは、彼を受け入れる。
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原動力
「群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。
そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」(ヨハネ6:24-27)
---
五千人の給食にあずかったこの群集は、イエスをはるばる追いかけてきた。
ただ、彼らがイエスを追うのは、神の子とあがめているからではなく、パンを出してくれるからに他ならない。
それでイエスは仰る。
「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。」
群集は今、なくなる食物を追い求めて、ここまで来ている。
パンが与えられてそれを食べても、しばらくするとまた腹は減る。
そうしたら、パンが再び与えられるのをただ待っているだけなのだろうか。
イエスが与えるものは、永遠のいのちに至る食物である。
パンそれ自体ではなく、パンを自ら得る原動力、それを聖書は提供する。
「いのち」とは、そういった類の原動力を指す。
それは、高揚した精神状態でも爆発的な喜びでもない。
そういうことは、仮にあっても一時的なものにすぎない。
「いのち」は静かに、しかし確実にごろっと動く。
この「いのち」を群集に知らせたかったからこそ、イエスは五千人の給食をなされたのかも知れない。
繰り返しになるのだが、イエスが下さるのは「いのち」であって、パンそれ自体などではない。
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[一版]2008年 5月 8日
[二版]2017年 3月 5日(本日)
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そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」(ヨハネ6:24-27)
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五千人の給食にあずかったこの群集は、イエスをはるばる追いかけてきた。
ただ、彼らがイエスを追うのは、神の子とあがめているからではなく、パンを出してくれるからに他ならない。
それでイエスは仰る。
「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。」
群集は今、なくなる食物を追い求めて、ここまで来ている。
パンが与えられてそれを食べても、しばらくするとまた腹は減る。
そうしたら、パンが再び与えられるのをただ待っているだけなのだろうか。
イエスが与えるものは、永遠のいのちに至る食物である。
パンそれ自体ではなく、パンを自ら得る原動力、それを聖書は提供する。
「いのち」とは、そういった類の原動力を指す。
それは、高揚した精神状態でも爆発的な喜びでもない。
そういうことは、仮にあっても一時的なものにすぎない。
「いのち」は静かに、しかし確実にごろっと動く。
この「いのち」を群集に知らせたかったからこそ、イエスは五千人の給食をなされたのかも知れない。
繰り返しになるのだが、イエスが下さるのは「いのち」であって、パンそれ自体などではない。
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[一版]2008年 5月 8日
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