イエスの杯

 「イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」
 けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます。」と言った。
 イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」(マタイ20:21-23)

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 イエスはこれから十字架という杯を飲もうとしている。
 イエスの道を切り開くためだ。
 そののち、ゼベタイの子たちも、そのイエスの杯を飲むことになる。
 ただそれは、飲みたくて飲むのではなく、気づくと飲まざるを得なくなるのである。

 イエスの杯は、イエスと同じように実際に十字架に架かるわけではないが、それに類する大きな苦しみを味わう。
 このことについては、アウグスティヌスの「告白」に非常に詳しい。
 これは罪深い肉を処罰しているからであり、救いのためにどうしても通らなくてはならない。
 そうして肉が処罰されたらイエス同様復活し、罪の赦しに魂の安らぎを得る。
 ほかの弟子より偉いのなんのということは、もはや意味をなさなくなる。神-イエス-弟子という関係になり(参/ヨハネ17:23)、ほかの弟子とは競争関係にならなくなる。

 救われるためには、与えられた苦しみ、このイエスの杯を飲み干す必要があるのである。

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[一版]2013年12月16日
[二版]2016年 7月31日(本日)

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1デナリを待つ忍耐

 「また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』」(マタイ20:6-12)

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 救いについてのイエスのたとえ話。

 9時に雇われた人も5時に雇われた人も、同じ1デナリが報酬として与えられる。
 これは、罪の赦しとか神との和解すなわち救いについては、救われたか、まだ救われていないかという2つの状態だけだからである。
 言い換えると、信仰とは、あるかないかのどちらかしかない。
 「信仰が増す」とか「成長する」等ということは、ない。
 1デナリを与えられたか、まだ与えられていないかの2状態だけである。
 熱心に励んだから5デナリ分の救いが得られる、ということはない。

 その信仰は恵みにより、行ないにはよらない。
 だから長時間働いているかどうかよりは、主人の声に応じて働いたということが問われている。
 それにしても、5時までずっと仕事を探し続けた人々は、忍耐強かった。
 5時に遂に声をかけられた。ついに恵まれたのだ!
 信仰、救いを与えられるのに唯一、必要なものがあるとすれば、この1デナリを待ち続ける忍耐ではないだろうか。

 イエスは、求める者の戸の前に立ってたたく(黙3:20)。
 いつ訪れるか、求めつつ待ち続けるのである。

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[一版]2013年12月15日
[二版]2016年 7月18日(本日)

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いのちにはいりたいと思うなら

 「すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
 彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。
 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。」(マタイ19:16-22)

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 金持ちの青年のたとえ。

 イエスは言う。「いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい」。
 戒めを守ろうとし、戒めにつきあたり、戒めに死ぬところに、復活のいのちが見いだされる。
 そしてイエスはこれから、その十字架の道を開通させようとしている。

 しかし、この金持ちの青年は、ぬけぬけと言ってのける。
 「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
 戒めをみな守っていると思っていて疑いもしないところが、この青年の最大の欠けである。
 イエスは更に続ける。「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」。
 彼が全財産を施すということは、彼の価値観からすると自身の死を意味するので、この金持ちの青年は、このイエスの律法を守れそうになく、立ち去ってしまった。
 この青年は、「いのち」のために自分に死ぬこと、自分に死んでイエスにつきしたがうということができなかったのである。

 死ななくては、生きない。
 より具体的には、律法によって重罪人とされ十字架で処され、イエスと同じように復活して「いのち」を得る。金持ちの青年が欲しかったものは、この「いのち」である。
 「いのち」は、恵みによってどの人にも与えられる。貧乏人にも金持ちにも、いい人にも悪い人にも、分け隔てはない。
 現にこの金持ちの青年にも、イエスは大きなチャンスを与えている。「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」と。

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[一版]2010年 7月21日
[二版]2013年12月12日
[三版]2016年 7月17日(本日)

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大きな子供

 「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
 しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」
 そして、手を彼らの上に置いてから、そこを去って行かれた。」(マタイ19:13-15)

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 「天の御国はこのような者たちの国なのです」。
 単刀直入に、イエスの十字架で処刑されてイエスの復活同様よみがえったその人は、子供のようになってしまう。身なりの大きな子供になる。
 大人の原理が、その人の中で滅びてしまったのかもしれない。
 弟子たちはここで、邪魔だからというので子供達を叱るが、やがてこの弟子たちも大きな子供となり、そのときには子供達と喜びを共にするのである。

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聖書の力

 「パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」
 イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、
 『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。
 それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
 彼らはイエスに言った。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」
 イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。」(マタイ19:3-8)

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 聖書が何かを全く解しないパリサイ人について。

 離婚の是非については、ここでは問わない。
 また、この聖書の頃の離婚制度について、私は知らない。
 いえることは、パリサイ人の言動についてである。
 「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」と彼は抜かす。
 彼にとって聖書というのは、自分に都合のいい箇所(ここでは離婚できる根拠)を求めるための書物でしかない。
 それから、聖書がイエス攻撃のネタ元にすぎなくなっている。
 以前、酒を飲んでよい根拠を新約聖書から探し出す人々について書いたが、両者の聖書の読み方は変わるところがない。
(酒の善し悪しも、ここでは問わない。)
 このように自分にとって都合よく、我田引水的に聖書を拾い読みする限り、聖書が光を放つことはないだろう。

 「イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。」(マタイ22:29新共同訳)

とイエスが言うのと全く同じである。

 聖書は読む者に罪からの救済と「いのち」を与える書物であるから、「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)のとおり、その救済を求めて読み続ければ与えられる。
 かつてない苦しみの後に、突然聖書のことばが光り輝き、字面の意味をはるかに越えて飛び込んでくる。
 それが聖書の力であり、読む者を切り裂いて、そして回心が起こる。

 だから、聖書に何を求めるのかを予め明確にしておくことはとても大切なことだ。
 もっぱら我田引水をするための書物なのか、それとも救いを与える書物なのか。

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[一版]2013年12月10日
[二版]2016年 7月 2日(本日)

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