やみと光

 「イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。
 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。」(ヨハネ12:35-36)

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 「やみ」と「光」。
 これは、処世術についてのことではないし、成功や失敗といったことでもない。

 「やみ」とは、ここでは神を見いださないこと。
 何をしよう、とか、何をすべきかということについて、明確な信心がないとしたら、その人は一体何を頼りに歩んでゆくのだろうか。
 たとえばカネが原動力という人は少なくないが、それが「やみの中を歩く者」に当たる。
(思うに、カネは必要悪なのではないだろうか。)

 対して、「光」とは神であり、神と共にいるということである。
 その方向に向かって歩めば、心の平安、平穏、満たされる、そういった観点からは間違うことがない。

 どちらの方に価値を置くかは、人それぞれかもしれない。
 しかし、人間は頭や認知だけで生きているのではないのだから、唯物的な世界観では参ってしまうのではないかと思う。
 そしてそのように参ってしまった者が、光の方をみやる。
 復活のキリストは、今も聖書を通して光り輝いている。キリストは、その人を見捨てることは決してしない。

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いのち/永遠のいのち

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12:24-25)

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 いのちのことと、永遠のいのちのことについて。
 ここでいういのちというのは、生物体としての生命ではない。
(それについては、イエスが身代わりの十字架に架かってくださった。)
 死ぬことなしに、永遠のいのち、本物のいのちに至ることはないということである。
 死ぬ、とは、十字架のイエスと共に極刑に処せられることを意味し、そうするとイエス同様復活する。

 では、イエスのわざが私たちの中で豊かな実を結んで永遠のいのちをいただいたら、はたしてどうなるのだろう。
 外観上は、まったく変わらない。どうしようもないのは、やはりどうしようもない。
 性格が変わるわけでもないし、人助けができるようになるわけでもない。病が癒えるわけでもない。パワーがでるわけでもない。
 生きやすくなる、というのも少し違うような気がする。生き馬の目を抜くような世であることに、変わりはない。

 では、何が変わるのだろうか。
 今までは自分の外側にあった聖書が、自分の内側に据わること、言い換えると、私たちはもはや一人で生きているのではないということである。
 誰よりも心強いお方が、考えや行動を支えてくださる。それらは、世を生きる上では愚かであっても、自分のこころとは整合性がついているので、後ろめたいことがない。
 誰よりも心強いお方が、必要な原動力を与えてくださる。それは、人の目から見てよいかどうかではなく、自分の真の必要について自分で満たすようになる。

 そうなるためには、イエスが型として示すように、死んでこそ真に生きるというプロセスをたどる必要がある。

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主客転倒

 「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」(ヨハネ11:41-44)

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 イエスが死んだラザロをよみがえらせる。

 その前にイエスは宣言する。「この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために」。
 イエスの目的は、自身の神性の証明にあるのである。ラザロは、そのための手段という位置づけになる。
(もっとも、イエスがラザロを愛していたというのは大きい。)
 ラザロのよみがえりそのものが目的なのではない。

 各福音書には、数々のイエスのわざが紹介される。
 そのどれもが、イエス自身の神性を証明することが目的だ(たとえばマタイ16:11)。わざそれ自体が目的なのではなく、手段なのである。
 もしも大勢の病人をいやすために来られたのだとすれば、イエスは誰にも優る名医として「治療」に専念すればよく、たった3年世にいただけであの十字架に架かる必要も動機もない。
 そうではなく、神が人となって現れたこと、救世主がやってきたということを、イエスは悟って欲しいのである。

 私たちが聖書を読むのは、御子イエスに出会うためである。
 それを悟らせようと、イエスは様々な手段を駆使している。
 そのことについて主客転倒してしまうと、イエスとは誰なのかがまるで分からなくなる。

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よみがえり主

 「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)

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 イエスの本質について。

 よみがえり、ということ。すなわち「いのち」を与えてくれるということ。
 イエスはもっぱら、そのことを私たちになすためにこの世に来られた。
 神の愛というのは、正にこのことを指すのだろう。神が罪深い私たちのために十字架に架かって死んで、しかも復活してくださった。
 これは、型である。
 その型に従わざるを得なくなって、私たちも死んでよみがえり、「いのち」を授かる。

 ところで私たちは確かに生きている。
 だがそれは、生物学的な意味においてのことにすぎない。
 人間としては死に続けているのである。
 それは魂の死のことで、多くの人は、そのこと自体に気がつかないし、気付かないようにすらしている。
 イエスは、そんな私たちによみがえりを与えようとしている。人間本来の生が回復されるためである。
 「いのち」とは、見かけとか言動、魅力、つまり外見上のことではなく、その人を真に生かす内側から湧き出る原動力についてのことだ。
 いいかえると、人様からどう映るか、ではなく、自分の内面がどのような方向性を持つようになったか、ということで、「回心」という言葉そのものである。

 イエスは、私たちを回心に導くための、いわば「よみがえり主」であり、そのことにイエスの本質がある。

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復活という光

 「イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」
 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」(ヨハネ11:9-10)

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 イエスが世におられたあいだ、イエスは光であり世は昼間だった。
 十字架に架かってそのイエスが死なれると、光は消え世は再び夜に入る。
 今もってそうだ。世は闇で、暗い。
 ところがその中でも、キリストの復活という光を内に宿す人はつまずくことがない。

 何につまずかずに済むのだろうか。
 この世での世渡りにつまずかずに済むという訳ではない。
 復活という光を宿す人は、御国への道につまずくことがないのである。
 この人には、今も十二時間の昼間がある。

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[一版]2009年 3月20日
[二版]2011年 2月19日
[三版]2014年 8月17日(本日)

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イエスの声が聞こえるか

 「それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」
 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。
 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:24-27)

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 イエスは、この人たちを糾弾しているわけではない。
 単に、この人たちは「わたしの羊に属していないから」イエスを信じることはないと言っている。
 では、この頃すでにイエスを信じていた人がいるだろうか。
 いない。
 弟子たちも当時、信じてなどいない。
 外的証拠から確からしいと判断するのは、「信じる」という営みとは全く違う。
 それは証拠認定の手法であり、あたかもイエスを裁判に掛けているかのようだ。

 そうではなく「信じる」とは信じさせられるのであり、内的なものである。
 イエスの声が聞こえるかどうか、それがすべてであり、復活のイエスとの出会いがあったかどうかがすべてである。
 そのとき、私たちは内側から変えられる。瞬時にして変えられる。
 外側が変わるわけではない。内側に「いのち」が宿るのである。これが信心である。
 そして、大牧者イエスの声にしたがってついてゆく。

 このイエスの羊に誰が属しているのかは、御父と御子以外、誰にもわからない。
 だから、誰をもみくびるべきではない。
 第一、救いとはきわめて個人的なものであるから、他人が救われるかどうか、あるいはこいつは救われないだろうというのは、きわめておかどちがいである。
 もっぱら自分の救いを望む必要があるし、第一、自分が神の地点に立ったかのように人を裁いており有益なことが何一つない。

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牧者の声

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
 しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。
 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」(ヨハネ10:1-5)

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 誰が牧者なのかわからない。
 盗人にもついていっただろう。
 まるで迷い出た羊のようなものだ。
 だが、本当の牧者の声をはっきりと聞くときが来る。
 そうなれば、その牧者のあとにのみついてゆき、もう盗人を牧者と間違えることもない。
 救いとは畢竟、牧者の声を聞くということにかかってくる。

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盲目が見え、見える者が盲目に

 「そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:39-41)

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 「目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となる」。

 イエスによる救いとは、見えなかったものが見えるようになることだ。
 イエスを救い主と見ることのできなかった人が、イエスが救い主であったとはっきり見えるようになる、これが救いである。
 十字架と復活が、自分のこととしてはっきりと見えてくる。

 自分は盲目である、無力だ、そうわかることに、この救いの第一歩がある。
 そのようにわかるための「てこ」が、神の秩序・律法である。
 人間の肉は、たとえば十戒のたった一つすら守ることができない、イエスが教えてくれるのはこのことだ。
 このことに思い至った人は、もはや何もできなくなり見通しも立たなくなる。
 だが、この地点こそ救いの第一歩なのである。

 一方、私は見える、という人には、このようなとっかかりがまるでない。
 だから救いについてまったくの盲目となってしまうのであろう。

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[一版]2011年 2月 5日
[二版]2014年 8月 6日(本日)

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気まぐれ

 「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9:1-3)

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 生まれつきの盲人を見かけた一行。

 「神のわざがこの人に現われるためです。」とイエスは宣言して、この人の盲目を癒すのであるが、ほかにも病気を抱えた人は周囲に大勢いただろう。
 なぜ、イエスは特にこの人を癒したのであろうか。

 それは、イエスがこの盲目の人をいやそうと思ったから、これが理由のすべてである。
 この盲目の人がもっとも気の毒そうだったとか、そういうことではなく、たまたま、この人をいやしてあげようとイエスが感じたのである。
 この人、であることに、理由はない。
 この人の病状の重さにも、生まれつきであったことにも、理由はない。
 言ってしまえば、気まぐれなのである。

 だから、神の救いは因果関係ではない。
 善行をどれだけ積んだかとか、断食祈祷をしただとか、施しをしただとか、そういうことが直ちに恵みにつながるわけではない。
 また、本人に罪があるとしても、両親に罪があるとしても、それも直ちに恵まれないことにつながるわけでもない。
 そのような因果関係とは関係がないがゆえに、逆に、誰もが救いに預かる可能性を秘めている。それだから恵みなのである。

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偽り者

 「けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。」(ヨハネ8:55)

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 「この方」とは御父のこと。
 イエスは御父を知っているので、もしも御父を知らないというならば自分は「偽り者」となる、あなた方同様に、そう言っている。

 自分が偽り者だという気付き。
 自分が殺す者だという気付き、等々。
 律法という囲い込みによってそれらの気付きに至るとき(それは例えようのない程の苦しみであるはずだ)、私たちは復活のイエスを介して御父を知ることとなる。
 それはただ、恵みによる。
 修行とか断食とか滝に打たれるとか、そのような自力ではどうにもならない。

 偽り者が、恵みによって偽らない者となるのではない。
 殺す者が、恵みによって全く殺さない者に変えられるのではない。
 偽り者が偽り者として赦され、殺す者が殺す者としてありのまま赦されるのである。
 そのためのスタートラインとして、まず、自分は実は偽り者だと知ることが必要となる。

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[一版]2011年 1月23日
[二版]2014年 8月 4日(本日)

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