奪われることのない喜び

 「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(ヨハネ16:22)

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 この世が与える喜びというのは、大抵のものは一過性のものだと思う。
 結婚にしても、ずっと新婚気分ということはない。

 それとは本質的に異なり、十字架に架かって死んでよみがえったイエスに出会った喜びは、強弱はあってもその人の中で続く。
 「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)というイエスの言葉が現実のものとなる。

 イエスに出会ったその喜びが、私たちの苦難の時を支えもする。
 つまり、私たちの忍耐はカラ元気なのではなく、復活のイエスに出会ったというしっかりとした根拠に基づいている。

 そういうことが起こるためには、イエスは一度極刑に死んで人類の肉を処理するわざを行わなくてはならない。
 イエスに出会う前、確かに私たちには哀しみ多き者であった。
 だが、復活のイエスに出会って罪赦され生きる根拠をいただき、奪われることのない喜びに満ちている。

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聖霊は栄光の管

 「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
 御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。」(ヨハネ16:13-15)

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 「やがて起ころうとしていることをあなたがたに示す」という訳出は、ちょっと分からない。
 「(既に)起こったこと」を示すのであれば、意味はすんなりと通る。

 よく聖霊降誕と言われるが、おそらくそのこと「自体」には意味はないような気がする。
 聖霊が降誕したとして、その聖霊を通してイエスが私たちに何を明らかにしてくれるのか、それが大切なことだろう。

 「通りよき管」という言葉があるが、ここでいう聖霊とは正に通りよき管のようだ。
 復活のイエスと私たちとの間をつないで十字架と復活、すなわち既に起こったこととその意味を知らせてくださる。
 そういう管なので、聖霊は「自分から語るのではなく、聞くままを話」すのである。

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世の誤りについて

 「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
 また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」(ヨハネ16:7-11)

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 しばしば、イエスはあわれみ深いお方でという語られ方がされたり讃美されたりする。
 だが、イエスのそういった性質についてどうこうというのは、フォーカスがかなりボけているような気がする。
 イエスのありがたみは、なんといっても「わたしが去って行くこと」、つまり、十字架そして復活にある。
 罪なき肉である神の子イエスが、その肉の処罰のために十字架に架かり、そのことがよしとされて復活する。
 そのイエスに預かるとき、イエス同様、よみがえって肉の罪から解放される。そのことを、助け主がしてくださる。
 イエスはそのような罪の赦し、肉からの解放のために来られたのだから、そのイエスがあわれみ深いかどうかというのは本質的ではないと個人的には思うのである。
 世に来たイエスが世から去ることこそが、私たちにとっての利益になる。
 
 助け主が来ると、「罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせ」るという。
 つまり、恵みによって助け主が遣わされた人は、罪を罪と悟り、罪が分かるので義と認められ、そして肉から救われて来たるべきさばきから救われたことを知る。
 それらは、世で言われているそれらのこととは、大分違っていることだろう。
 イエスが世にいたとき、罪はパリサイ人がそうと決めつけるものだった。

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つまずくことのないために

 「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。
 人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。
 彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。
 しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。」(ヨハネ16:1-4)

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 会堂というのはシナゴーグ、すなわち、コミュニティーそのもの。
 そのコミュニティーから追放されるであろう、そうイエスはそう話す。
 神も神の子も分からない闇は、そうではない光を放逐することこそ良いことだと思っているのである。

 コミュニティーからの追放というのは、大きな逆境だ。
 だがそれでも、光がつまずくことはない。
 何故なら、イエスからあらかじめ知らされていたことが起こったというだけのことだからである。
 いわば予定の範囲内なのであるから、光は、ますます光としての確信を強める。
 このように、イエスと出会って「いのち」をいただいた人が、「いのち」からつまずくことはない。
 闇と比べて、「いのち」、解放された肉があまりにも素晴らしいものだからである。

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[付記]
 本日の記事は、2009年5月24日付記事に加筆を施したものです。

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弁解の余地

 「もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪(註:罪責)はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。
 わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです。
  もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行なわなかったのなら、彼らには罪(註:罪責)がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。」(ヨハネ15:22-24)

註:新改訳第二版の注釈より。
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 イエスは律法について、つまり肉の罪についての人々の誤りを認めさせようと、話したり、あるいは、神の子であることの証明としてのわざを行ったりもした。
 罪を罪として認めない限り、父との和解という救いはないからだ。
 もしこのイエスが来ていなかったとしたら、自分の罪について知らなかったのだという弁解もできただろう。

 神の律法が罪のリトマス試験紙であり、すべての試験をクリアできる義人はいない(参/ローマ3:10)。
 ところがパリサイ人はこの律法を守れるとして種々行ない、のみならず他人にまで押しつける。
 イエスが来ても、自分に罪があるなどとはつゆだに思わない。
 そんな彼らに弁解の余地はないのであり、そのことはイエス以来のほぼ全ての肉がそうである。
 バプテスマを受けに来たのは、むしろ取税人や遊女たちであった。

 だから救われるためには、イエスに聴いて罪を罪と分かることにある。
 それはもっぱら、恵みによる。

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もし世があなたがたを憎むなら

 「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。
 もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」(ヨハネ15:18-19)

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 これから罵声を浴び、むち打たれ、そして十字架に架かるイエス。
 それ以前からも、イエスは幾度石を投げられて殺されそうになったことか。
 人としてのイエスの人生は、多くの人から憎まれ続けた人生だったといえる。
 それは「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。」(ヨハネ3:19)とあるように、光と世とが対立するからである。
 光は世に、救いの手を差し伸べた。
 イエスが人間の肉をまとって世に来られたというのが、その救いの手である。
 しかし、世は「光よりもやみを愛」する、もっと言えば、闇を愛し光を憎む性質を持っている。

 世に属する人は、その世から愛される。
 だが、イエスの選びによって、この闇の世から選び出されて光の側に連れてこられる人がいる。
 イエスによって闇から救われた人である。
 その人は、罪赦され、自分を縛り付けていた肉から解放される。

 闇を愛し光を憎む世は、当然に救われた人を憎む。
 光がまぶしいからかも知れないし、闇がないので鬱陶しいからかも知れない。
 だが、「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。」とイエスは仰るのである。

 神の子イエスがとうに体験していることと同じ道を歩む、救い出された人はこのことを覚悟する必要がある。
 そしてそのことゆえに、救われた喜びは更に大きくなるのである。

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[付記]
 本日の記事は、2009年5月23日付記事を大幅に修正したものです。タイトルも変えました。

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整合性

「酒気帯び運転容疑で牧師を逮捕


 埼玉県警浦和署は11日、道交法違反(酒気帯び)の現行犯で、さいたま市南区根岸、牧師、○○○○容疑者(48)を逮捕した。

 浦和署の調べでは、○○容疑者は11日午後8時15分ごろ、さいたま市浦和区岸町の県道で、酒気を帯びて乗用車を運転した。○○容疑者は道路脇の街灯に衝突、駆けつけた警察官が検査したところ、呼気1リットル当たり0・3ミリグラムのアルコールが検知された。

 浦和署によると、○○容疑者は「自宅で酒を飲んだ」と供述している。○○容疑者は自宅からさまざまな教会へ牧師として派遣されていたという。」

(MSN産経ニュース 2011.4.12 10:54)

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 この牧師は飲酒していて、運悪くおまわりに見つかってしまった。
 私はそのこと自体は、特にどうとは思わない。
(量が多すぎるとは思う。)
 ただそれは、聖書と飲酒とが整合することをこの牧師が信者に教えている限りにおいて、である。
 飲酒はいけませんとか信徒に言っていたならば、その整合性の無さ、ちぐはぐさを問われるだろう。激しく問われるだろう。

 それはおそらく、聖書とは何か、という問題だろう。
 聖書をルール集として読むとしたら、それは飲酒はアウトだろう。
 一方私は聖書を、いのちを与える書物としてとらえている。
 イエスの十字架と復活が明らかにされている書物なのだ。
 これが私たちの罪深い肉に救いを与える。
 何故私たちの肉が罪深いのかを嫌と言うほど分からせようと、神はたくさんの律法を与えておられる。
 私たちはこの神から遙か遠く、これらの律法を守り通せることが到底できない。
 そういう存在であっても、復活のイエスを信じてのみ、御父につながることができる。これが「いのち」である。
 私たちは、既に律法に死んでいるのである。律法に死んで、恵みに生きている。

 そういうわけで、私は牧師が飲酒することそれ自体には無頓着だ。肉を責めるものはないからだ。
 ただ、次のようにある。

 「しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。
 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。」(1コリント8:8-9)

 この牧師はおそらく「弱い人」であり、この弱い人が弱い人に連鎖式につまずきを与えてしまうことになる…、だから私はここで整合性のことを言っている。

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父の戒め、イエスの戒め

 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

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 イエスが言う「わたしの戒め」とは何だろう。
 ヨハネ伝で何度か出てくる「あなたがたは互いに愛し合いなさい」(例えばヨハネ13:34)だろうか。
 しかしこれは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(例えばマタイ22:39)と意味が同じなので、そうすると「父の戒め」すなわち律法をイエスが改めて与えていることになってしまう。

 父の戒めすなわち律法を守ることのできる人は、ただ一人、肉に罪を宿していないイエスだけである。
 私たちはこの神の秩序に何一つ従うことの出来ない罪深き存在にすぎない。
 ところが、罪なき肉が極刑に架かって肉を処罰される。そして、その肉は復活して赦される。
 私たちが罪赦され救われるのは、このイエスを信じるからである。隣人と愛し合うから救われるのではない(それ自体は大切なことだが)。
 だから、イエスが私たちを愛して下さるのは、私たちがイエスを救い主として信じているからなのではないかという気がしてならない。

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聖書のことば

 「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ15:8)

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 ギリシャ語は全く分からないので、正確を期したいときには英語の聖書を付き合わせてみる。
 そうするとこのヨハネ15:8は、

" By this My Father is glorified, that you bear much fruit; so you will be My disciples. " (NKJ)

"My Father's glory is shown by your bearing much fruit; and in this way you become my disciples " (TEV)

となっていて、大意としては「あなたがたの多くの実を(御父に?イエスに?)持ってゆくことで御父は栄光を受ける;そしてあなたがたは私の弟子になる」くらいだろうか(英語も苦手だ)。
 上の新改訳とは、ニュアンスがかなり異なってくる。
 特にイエスとの師弟関係に入るための要件が異なる。
 新改訳は、新共同訳や口語訳とは大差はないので、そうするとこれは日本語訳と英語訳とのニュアンスが異なるという形になる。
 想像でしかないのだが、原典の訳出自体が難しい箇所なのだろう。

 このヨハネ15:8は、多分とても大切な箇所なのだと思うのだが、そういうわけでよくわからないのが残念だ。
 ただ、聖書のことばは、日本語だとか英語だとか原典という文字の上っ面、そういうものをはるか越えて、あるときその人に入ってくる。
 そのようにして聖書のことばが入ってくると、イエスについての全てのことが分かるようになる(参/ヨハネ14:26)
 文字面では分かりづらいこのヨハネ15:8で救われる人も、もちろんたくさんいるはずだ。

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[付記]
 本日の記事は、2009年5月10日付記事を改題したものです。

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イエスが与える平安

 「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)

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 人は、物心着いたときから恐れを抱く生き物なのではないかと思う。
 なんといっても、私たちは死後、どうなるのだろう。どこへいくのだろう。
 死の向こう側は、どうなっているのだろう。
 この恐れが平安をかき乱す原因の全てのような気がする。

 そこで世の中には、平安、安らぎを与える数々のものが存在する。
 音楽、空間、それからお香もそうかも知れない。
 そういった装置を個人的にもよく利用するが、「わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」とイエスは言う。

 十字架に架かって死んで3日目に復活したイエスは、そのイエスを信じる私たちがどうなるのだろうかということを、身をもって教えてくれた。イエスの通りになるのである。
 それでイエスは、私たちから根源的な不安を取り去ってくださる。

 「わたしは、あなたがたに平安を残します」、イエスの与えるこの平安は十字架と復活に由来している。

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