キリストの無謬と十字架について

 「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(1ペテロ2:19-25)

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 「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした」。
 それはイエスが忍耐を重ねていたからだろうか。
 そうではない。
 罪とか偽り、善とか悪の基準は、まさに神の御子キリストにあるからである。律法を御父が定めたのと同じだ。
 いいかえると、キリストは忍耐していたというより、自然な立ち振る舞いであった。

 大切なことは、その罪のない御子イエスが極刑の十字架に架かったということだ。
 善悪の基準、罪の基準である神が極刑を受ける。
 このキリストの十字架という極刑は、本来私たちが御父から課せられるべき極刑であったものをすべて身代わりしてくれたもので、罪を犯す肉という存在そのものへの処罰である。
 アダムの違反以来長い間御父との断絶が続いていた私たちは、その十字架それから復活というキリストの御業を通して、その御父と和解することができた。
 「自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った」のである。
 依然として罪深い肉を宿すこの身であっても、この牧者のもとで心安らぐことがかなっている。

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光の中

 「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」(1ペテロ2:9-10)

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 私たちはみずから「光の中」に入ることができたのではない。
 招かれて、それでこの「光の中」に入れてもらえた。
 「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」とさせていただいた。
 では、私たちはなぜ招いていただいたのだろう。
 それはわざではなく、恵みなのである。
 言い換えると、神にあわれまれる必要がある。
 それには、神のあわれみに対する飢え乾き、救いへの飢え乾きが欠かせない。

 「神の所有とされた民」とさせていただいたからといって、平生の生活が楽になるということはない。考え方や性格その他もなんら変わらない。
 この平生の塗炭の苦しみ、それを受け止められるだけの何かが据わるのである。
 「光の中」に招かれると、このような根源的なコアの部分がくるりと変わる。
 そうであるから、信仰はあるかないかだけであり、また信仰からいわば脱落するようなこともない。コアが変わったかどうかであり、また、メッキのようにはげ落ちたりはしない。

 この「光の中」への道筋をつけてくれたのがイエス・キリストであり、みわざとはその十字架と復活のことである。もっといえば、十字架から復活へと至る道のりこそ「光の中」への道のりである。

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ことば/神のことば

 「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」(1ペテロ1:23-25)

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 神のことばについて。

 ここでペテロが書く「生ける、いつまでも変わることのない、神のことば」は、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)に同じ。
 つまり、聖書は一貫して「神のことば」ということに触れている。
 「神のことば」なのであり、「ことば」とは異なる。

 私たちは聖書を「ことば」として読み、受け取り、取り扱い続ける。言い換えると、教育を受けた上での理解の仕方をする。
 しかし、それでは聖書は単なることばの連なりにすぎず、字面での意味を理解できたというのとどまる。
 「草はしおれ、花は散る」ところのものと変わるところはない。
 そして私たちは、聖書を「神のことば」として取り扱うすべを持っていない。そんな教育はどこからも受けていない。

 ところが、「神のことば」とは、恵みによって上から与えられるものなのである。わざではない。
 長く理不尽に思われる苦しみの果てに、突如この「神の言葉」が与えられる。
 ここで、この大きな苦しみとはイエスの十字架の苦しみと同じものであり、「神のことば」が与えられてイエス同様復活する。
 こうして与えられた「神のことば」はすなわち「いのち」であり、その人の一番奥底の部分が変わるということなので、それが取り去られることはない。

 そのように上から与えられたときには、聖書のことばは今までとは全く異なる「神のことば」として輝きを放つのである。

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