アダムの肉と神の恵み

 「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ5:19-23)

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 ここも有名な箇所で、人によっては「罪のリスト」だとか言う記述。
 個人的な話になるが、私の受洗時、どこかのおやじがこの箇所をひもといて、自分の毎日の行いをこの聖書箇所に従って点検せよという、それはありがたいご指導があった。

 人間は、アダムの肉をまとっている。
 そして、十字架と復活によって、アダムの肉は処罰された。
 すなわち、そのことを信じるならば、救われる。

 「肉の行ないは明白であって、……」と、以後色々と続く。
 例えば、「敵意」、「憤り」、「ねたみ」。
 そして、「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」と終える。

 たしかに、そのようなことを「している」、すなわち行動化してしまうのは問題だろう。
 ただ、行動化してしまったとしても、「神の国を相続することは」ないのであろうか。
 イエスの十字架と復活というのはは、そんなにも脆弱であろうか。

 まず、上のようなことをこころに思うことというのは、この世に生きていてごく自然なことだと思う。
 たとえば「この人に頼りたい」という偶像礼拝的な思いは、誰にだってある。
(実際に頼ってしまうかどうかは別だ。)

 さて、上の聖書箇所には、「しかし、御霊の実は、……」と続く。
 愛、喜び、善意等。
 これらは御霊の実であって、アダムの肉から出るものでは全くない。
 そして、御霊の実とは、キリストの復活が相成った事による神の恵みだ。

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