回心

 「すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:22-25)

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 私たちは、なぜ「神の律法を喜んでいる」のだろう。
 それは、律法が善悪の基準であり、善の行いを明確に指し示すからである。
(世界には他にも数々の善悪の基準があり、たとえばギャング団にも善悪の基準はあるのだが、そのことはここでは措く。)
 では、なぜ善を行いたいのか。
 多分、相手が喜んでくれると自分もうれしいというような、誰しも持っているものを満たしたいからではないだろうか。

 ところが、この基準としての律法は、かえって、人の肉の悪をあぶりだすことになってしまう。
 なぜなら、この神の律法を行おうとすればするほど、それを全うできない肉の罪というものに直面せざるを得なくなるからである。
 そして、これこそが律法の目的とするところである。
 このよいものによって、そのよいことを行おうとする人の罪を自覚させる。
 そしてパウロはうめく。「私は、ほんとうにみじめな人間です。」、ここまで追い込まれてしまう。

 しかし、追い込まれ切った後には何と書かれているだろうか。
 「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」
 十字架と復活のイエスが、憔悴しきったパウロを救ったのである。
 もし、こんな苦しい律法など守る必要がないと短絡的に思うとしたら、それはこのイエスの救いを放棄したのである。
 そして、救われたパウロは「心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えている」という。
 肉の罪が赦されたという実感であり、「罪の律法」、すなわち醜い肉と同居できるのである。

 上の短い聖書箇所には、こうして救われるということが書かれている。
 これ以外のプロセスは、おそらくないだろう。
 よきことを行おうとしたら、実は問題は自分の内側にあった。
 この気づきが最初の一歩なのである。

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[一版]2017年11月22日
[二版]2019年10月27日(本日)

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パラドックス

 「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」(ローマ7:15-20)

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 「自分がしたいと思うこと」とは何かというと、聖なる律法を遵守することである。
 頭ではいつもそう思っている。
 だが、実際にやっていることと言えば「自分が憎むこと」、「自分のしたくないこと」、すなわち律法に反することばかりなのである。
 これは一体、どういうことだろうか。
 律法を遵守したいと頭では願うが、自分の肉が実際にやることは、その律法に照らすと罪にあたってしまう。
 「善をしたいという願い」を持つ私たちの意志にかかわらず、そのことによって私たちの肉は罪を犯すのである。「かえって、したくない悪を行」うことになる。
 こうして、「私には、自分のしていることがわかりません。」という地点に陥ってしまう。

 しかし、この「自分のしていることがわかりません」という地点こそ、あの狭き道への入り口なのである。
 律法を尊ぶとかえって罪深くなる。
 しかし、このパラドックスは予定されていたものであり、この狭き道の先には十字架とよみがえりがある。
 そして、律法を何一つ守ることのできないこの肉が、恵みによって赦されるのである。

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[一版]2011年10月 1日
[二版]2017年11月19日
[三版]2019年10月23日(本日)

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律法は罪なのでしょうか

 「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
 それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。
 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(ローマ7:7-12)

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 「律法は罪なのでしょうか。」というのは、律法によって自責の念にかられるのだから律法こそが悪いのではないか、くらいの意。
 しかし律法に非があるのではなく、かえって、私たちの肉に非があることを律法は指摘してくれているのである。
 律法を知らなかった頃、私たちは自分の好き勝手、したい放題に暮らしていて、そのことを何とも思わなかった。「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう」とあるとおりである。
 そして、その好き勝手ぶりが神の秩序に反し神の怒りを買い続けていること自体、知りもしなかった。
 この神の怒りに気付かせてくれるのが、神の完璧な秩序たる律法である。
 律法という神の基準が、私たちの内に潜む肉の罪をあぶりだす。
 私たちの肉に内在するあらゆる罪が、律法によって容赦なく指弾されて表出する。
 この罪深さの自覚があまりに苦しいので、「律法は罪なのでしょうか。」と口から漏れる。
 まさに「戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺した」のだ。

 神との良好な関係を志そうとする私たち、それによって、神との平和を得て救われたいと願う私たちは、どうしてもこの罪深い肉が処理される必要がある。
 肉の処理、その初穂が、罪なき人であるイエスの十字架であり、私たちはそのあとを恵みによってついていくことになる。復活もまた、イエスに続くことになる。

 律法が私たちに肉の罪深さを自覚させ、そのあまりの罪の重さに苦しんだのちにイエスの死と復活に預かるのであるから、「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いもの」というのは、まさにその通りである。

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[一版]2011年 9月25日
[二版]2015年 5月17日
[三版]2017年11月12日
[四版]2019年10月22日(本日)

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アダムを追い込む律法

 「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。
 しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(ローマ7:5-6)

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 私が聖書を手にしてまもなく、山上の説教での次の聖句を知った。

 「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27-28)

 そのころ入ったコンビニのレジの若い女性が非常に可愛らしく思え、と同時に、上の「すでに心の中で姦淫を犯した」が思い出された。
 そのとき私の心の中には、レジの女性を可愛いと思ってしまうということ自体がいけないことなのかという不安のようなものがふつふつと湧き上がっていった。対人恐怖症の始まりである。
 もし私が聖書を、律法を知る前だったら、そのように不安などかけらも感じることなく、可愛い女の子ラッキー、くらいで済んだと思う。
 このことは、知って間もない律法が私の肉の罪を容赦なく指弾したということにほかならない。

 律法はこのように、肉の罪をその人自身に気付かせる役割がある。
 イエスの山上の説教に至っては、律法は突き詰められ、律法を遵守することなど誰一人できない、ということが説いている。
 上の「姦淫」の箇所もそうだ。
 可愛い子を見たら可愛いと思うし、イケメンを見たらラッキーと思う、このような私たちの肉の性質は、イエスに言わせると姦淫の罪にあたるのである。
 こうして律法群は、私たちの肉を死へと追いやってゆく。

 ではなぜ、律法群は私たちを死へと追いやるのだろうか。
 それは正に、死に至らしめるが為である。
 イエスという初穂は、自らの肉を十字架に架けて処分し、三日目に御父によってよみがえられた。
 そのイエスの歩みと同様に、律法が私たちの肉を殺し、キリストが私たちをよみがえさせる。
 よみがえらせるためには、まず死ぬ必要があり、よみがえったときに「私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだ」、「新しい御霊によって仕えている」こととなる。
 いいかえると、「いのち」に生きるためには、その前に律法という神の掟によって死ななくてはならないのであり、その道を最初に切り開いたのがキリストである。

 今も律法は厳然と存在するが、私たちは律法から解放された。
 というのは、もう既に、律法に死んだからだ。
 今はキリストが下さった「いのち」に生きている。
 ちなみに私は今も対人恐怖症がきれいに治癒したわけではないが、これは言ってみれば「とげ」(2コリント12:7)のようなものであり、そんなものとは比べものにならないものをいただいたと思っている。

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[一版]2009年10月18日
[二版]2011年 9月24日
[三版]2015年 5月10日
[四版]2019年10月21日(本日)

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私の主

 「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」(ローマ6:12-15)

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 私たちは、キリストの十字架の死と同じように死に、キリストの復活と同じようによみがえった。
 もしも私たちがキリストと出会ったのであれば、そうである。
 この出会いの前、私たちは律法に責め立てられて続けて自分の罪に苦しみ抜き、その苦しみたるや、かつてないほどにまでなった。
 しかしそのような私たちは、恵みによってキリストの極刑と共に極刑に処せられ、そして罪赦された者としてよみがえったのだった。

 そうして私たちの内には、「助け主」が与えられる。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(ヨハネ14:16)とあるところのものである。これは、エレミヤ31:33にある、彼らの中に律法を置くということに一致する。私たちの中で預言は成就したのだ。

 この、内にいる「助け主」が、私たちの行ないに深く関わる。
 なにをやっていいか、なにをやるのはいけないのかは、この内から突き上げてくるものによって判断される。
 以前の罪深かったころは、肉の衝動が自分を突き動かし、その行動は常に律法に反していた。
 だから、私たちが罪赦されて神との和解にあるというのは、私たちの主(しゅ、あるじ)が、がらりと変わったのである。
 そういうわけで、「罪を犯そう」とは、そもそもならないのである。

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聖書の要諦

 「死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」(ローマ6:7-8))

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 聖書の要諦であるところの死と復活。
 私たちは律法に照らしてあまりに罪深く、御父の怒りの下にいる存在だった。
 たとえばソドムひとつ挙げるだけでも、そのあまりの罪深さと御父からの乖離が明らかである。
 罪深さ故の心の責めはあまりに大きく救われたい。

 この私たちを救うために、罪がないにもかかわらず極刑の十字架に架かって死んだのがイエス・キリストであり、御父はこのイエスを復活させる。
 死と復活のイエスの道は、こうして初めて切り開かれた。
 私たちは、恵みによってイエスに死ぬ。イエスによって死がやってくる。
 すると、「死んでしまった者は、罪から解放され」、そしてイエス同様復活し、このイエスの道を渡りきる。
 これが聖書の要諦であるところの死と復活である。

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結果的に律法を守っている

 「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」(ローマ6:5-7)

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 前回2019年10月14日付の記事と同じ聖書箇所。
 この記事の中で、「(キリストの復活と同様に)新たにされた私たちにとっても律法は存在し続けるので、私たちは相変わらず罪を犯し続けるが、今や罪赦されて罪から解放されているのである。」と書いたのだが、それとは少し違うのではと気付かされたので書いてみる。

 何に気付いたのかというと、罪を犯し続けるが罪赦されるところもあると思うのだが、それ以上に、そもそも自然と罪を犯さなくなるのではないか、ということである。
 ここに有名な聖句を例示する。

 「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39)

 この聖句がなぜ有名かというと、聖書とは関係のない人からそんなことできるわけないだろうと失笑される箇所だからだ。
 ところが、自分についてふと気付くと、殴られたことこそないが、もう随分、やり返してはいのである。
 いや、本音を言えば悔しいことも少なくないし、あとからぶん殴ってやりたくなることもある。
 だが、もう随分とやり返していない。言い返しすらしない。
 気力がなくなってきたからだろうか。丸くなったからだろうか。それともとろくなったからだろうか。
 どうもそうには思えない。それだけならば陰湿な仕返しをするだろう。だが、そういうことも全くしなくなった。
 であれば、もしかしたら内住の聖霊が仕返しをしないように自分を動かしているのではないか。
 自分の肉はやり返したいのだ。
 だが、霊はやり返すことをとどめる。
 こうして私は、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」という律法を結果的にだが守っていることになるのである。
 私が守っているというより、私の内側のものの働きによるようだ。

 全ての律法を遵守できるとは到底思わない。
 しかし内住の聖霊を宿す私たちは、「あのでくの坊何もやりかえさねーよ」とか罵詈雑言を浴びつつも不思議とやり返すことはなく、御父との平和という世にはない満足感を手がかりにして日々歩んでいくのだと思う。

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罪からの解放

 「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」(ローマ6:5-7)

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 罪とは神の律法に対する違反であり、それはアダムの違反以来人間を拘束し続けてきた。
 私たちは、神のよかれというものを何一つできず、かえってアダムの肉によって不自由にされている。

 「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
 これがたいせつな第一の戒めです。
 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:37-40)

 神を愛し人を愛せよ。
 アダムの肉を持つ人間にとって、これが一体どれほど難しいことか。
 その、あまりに難しいことが、律法の要諦なのである。
 この律法が人間の肉を罪に定めるのであるから、私たちは罪の奴隷となってがんじがらめにならざるを得ない。

 人間のこのみじめな状態を救ってくださったのが、イエス・キリストである。
 キリストの十字架の死と同様、私たちは罪に死に、キリストの復活と同様、私たちは新たにされる。
 聖書は徹頭徹尾、この救いについて記された書物である。
 新たにされた私たちにとっても律法は存在し続けるので、私たちは相変わらず罪を犯し続けるが、今や罪赦されて罪から解放されているのである。

 キリストが与えてくださる救いの本質は、神との和解とそれに由来する罪からの解放にある。

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[一版]2011年 9月17日
[二版]2015年 5月 3日
[三版]2017年10月29日
[四版]2019年10月14日(本日)

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死にあずかるバステスマ

 「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:1-4)

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 上の聖書箇所で書かれている「罪」 ( sin ) は、日本語でいう「罪悪感」とはあまり関係はない。
 「罪悪感」、「悪いこと」には、むしろ guilty が当てはまる。
 一方、聖書で扱っているのは、どこまでも sin としての罪だ。
 つまり、アダムの肉が内在する罪、人が人である以上持っている罪、つまり神が人間を指弾する罪がsinであって、人様から指さされたり手錠を掛けられたりというguiltyとは異なる。
 「罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう」。
 これは、もう悪いことをしてはいけない、という意味とは全く異なる。

 律法によってsin に気付くや、その苦しみに、七転八倒のたうち回る。
 のたうち回った挙げ句に、「死にあずかるバステスマ」によって、私たちはイエスと共に死ぬ。
 「どうして、なおもその中に生きていられるでしょう」とある通りに、 sin は処理された肉と共に埋葬されてしまった。これが「罪に対して死んだ」ということである。
 そして、「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをする」のである。

 共に死んでくださったイエスによって悔い改めた私たちは、復活のイエスと共によみがえって新しい歩みが始まった。
 外見上は、何一つ変わっていない。
 欠点の、たったひとつでも直ったわけでもない。
 しかし、真のバステスマを受けて、私たちのもっとも奥底のところが、がらりと変わったのだ。

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[一版]2007年 6月 3日
[二版]2007年 7月 3日
[三版]2011年 9月10日
[四版]2015年 5月 2日
[五版]2017年10月22日
[六版]2019年10月 6日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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