イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
信仰に至る型
「すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。
しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。」(マタイ15:22-28)
---
救いの型について。
カナン人の女はイエスに食らい続け、ついにイエスに「あなたの信仰はりっぱです」と言わしめる。
では、カナン人の女の信仰は、どういうところがりっぱなのだろう。
「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」という、機知、頓知の類に、イエスが感じるところがあったのだろうか。そうではない。
めげずにどこまでもイエスを信じて求め続けたこと、これが信仰に至る型なのである。
「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7:7)とあるとおりであり、しかも彼女は異邦人であるから当初は無視されてすら、なりふり構わず求め続けた。
このようにどこまでも求め続ければ、むしろ救いの方からやってくるものだ。
---
[一版]2016年 5月 4日
[二版]2018年 4月30日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。
しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。」(マタイ15:22-28)
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救いの型について。
カナン人の女はイエスに食らい続け、ついにイエスに「あなたの信仰はりっぱです」と言わしめる。
では、カナン人の女の信仰は、どういうところがりっぱなのだろう。
「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」という、機知、頓知の類に、イエスが感じるところがあったのだろうか。そうではない。
めげずにどこまでもイエスを信じて求め続けたこと、これが信仰に至る型なのである。
「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7:7)とあるとおりであり、しかも彼女は異邦人であるから当初は無視されてすら、なりふり構わず求め続けた。
このようにどこまでも求め続ければ、むしろ救いの方からやってくるものだ。
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[一版]2016年 5月 4日
[二版]2018年 4月30日(本日)
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神を信じるのか、神を利用するのか
「すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。」(マタイ14:25-33)
---
イエスはペテロに、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」と言う。
では、ペテロは何を疑ったのだろうか。
水の上を歩くことなどできやしないという疑いだろうか。
もちろんそのことも含まれるが、ペテロはイエスを神の子とはまるで信じていなかった。
そのことが、この件で図らずも明らかになったのである。
ペテロはイエスの「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」ということばでは納得せず、かえって「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」と言い出す。
これを言い換えると、イエスだったら証拠を見せろと試しているのであるから、一番弟子ペテロはイエスのことなどちっとも信じていないではないか。
主よ主よ、と言い寄る者ほど単に助け出して欲しいだけで、神を神そのものとは認めていない。自分にもそういう時期は短くなかった。
神が行う奇跡の部分だけを取り出して、その取り出した部分にだけすがっている。
それは神を信じているのとは違う。神を利用としているだけで、ご利益宗教の形になる。
そもそも、人が神を信じることはできない。神が分からないから、信じようがない。
そうではなく、神が人に信仰を与えるのである。復活のイエスが会いに来てくださるのだ。
だから、信仰とは、あるかないかのどちらかしかない。
イエスは「信仰の薄い人だな」と言うが、知恵のある言い方だと思う。
では、信仰のない者が信仰を持つ者になるには、どうしたらよいのだろうか。
誤解されることを承知の上で書くと、罪の重荷に苦しみ果てることのように思う。
罪とは神の律法を守れないことである。言い換えると神の敵とでもいおうか。
自分が神の敵であることに苦しみ続けていると、やがて十字架と復活の主がその人の元を訪れ、神を神そのものと分かってこの神との和解に至る。
もしも神が御利益の神だとしたら、なぜ律法というものがあるのだろうか。
神に、水の上を歩かせてくれることをもっぱら求めるのであれば、その人は神を神としてとらえていないし、罪に苦しむ過程もまたないだろう。
もっともペテロは単にお調子者だったので、それで「水の上」を言い出しただけかもしれない。
---
健やかな一日をお祈りします!
弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。」(マタイ14:25-33)
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イエスはペテロに、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」と言う。
では、ペテロは何を疑ったのだろうか。
水の上を歩くことなどできやしないという疑いだろうか。
もちろんそのことも含まれるが、ペテロはイエスを神の子とはまるで信じていなかった。
そのことが、この件で図らずも明らかになったのである。
ペテロはイエスの「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」ということばでは納得せず、かえって「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」と言い出す。
これを言い換えると、イエスだったら証拠を見せろと試しているのであるから、一番弟子ペテロはイエスのことなどちっとも信じていないではないか。
主よ主よ、と言い寄る者ほど単に助け出して欲しいだけで、神を神そのものとは認めていない。自分にもそういう時期は短くなかった。
神が行う奇跡の部分だけを取り出して、その取り出した部分にだけすがっている。
それは神を信じているのとは違う。神を利用としているだけで、ご利益宗教の形になる。
そもそも、人が神を信じることはできない。神が分からないから、信じようがない。
そうではなく、神が人に信仰を与えるのである。復活のイエスが会いに来てくださるのだ。
だから、信仰とは、あるかないかのどちらかしかない。
イエスは「信仰の薄い人だな」と言うが、知恵のある言い方だと思う。
では、信仰のない者が信仰を持つ者になるには、どうしたらよいのだろうか。
誤解されることを承知の上で書くと、罪の重荷に苦しみ果てることのように思う。
罪とは神の律法を守れないことである。言い換えると神の敵とでもいおうか。
自分が神の敵であることに苦しみ続けていると、やがて十字架と復活の主がその人の元を訪れ、神を神そのものと分かってこの神との和解に至る。
もしも神が御利益の神だとしたら、なぜ律法というものがあるのだろうか。
神に、水の上を歩かせてくれることをもっぱら求めるのであれば、その人は神を神としてとらえていないし、罪に苦しむ過程もまたないだろう。
もっともペテロは単にお調子者だったので、それで「水の上」を言い出しただけかもしれない。
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健やかな一日をお祈りします!
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満腹するやあっさり帰る群集について
「そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。
食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。」(マタイ14:19-22)
---
前々から不思議なのだが、どこまでもイエスを追いかけてきた群集は、給食の奇跡によって満腹するや実にあっさりとイエスから離れてくれる。
四千人の給食(マタイ15:32-39)でも、全く同様に、満腹するや、あっさりイエスから離れる。
イエスが与えたいものは「いのちのパン」(ヨハネ6:48)であって、マナのような、それを食べていっときの空腹はしのげても死からは逃れることのできない(ヨハネ6:49)ようなものではない。
次から次へと飛び出るパンには喜んでも、「いのちのパン」を与えてくれるイエスの、このしるしの意味には全く目が行かない。
この群集は、イエスを便利な存在としかとらえておらず、それでは単なるご利益宗教にすぎないのではないか。
もっとも、それも無理はない。
私たちにはイエスがどのような存在なのか、わからないのだ。それも、まったく分かっていない。
しかし、復活のイエスの方から戸を叩いてやってくる時が来る(黙3:20)。
その時イエスは「いのちのパン」を与えてくれ、私たちもイエスがどのような存在であるのかをはっきりと了解するのである。
---
[一版]2007年 7月22日
[二版]2010年 7月13日
[三版]2012年 4月28日
[四版]2013年11月24日
[五版]2016年 4月17日
[六版]2018年 4月22日(本日)
---
健やかな一日をお祈りします!
人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。
食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。」(マタイ14:19-22)
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前々から不思議なのだが、どこまでもイエスを追いかけてきた群集は、給食の奇跡によって満腹するや実にあっさりとイエスから離れてくれる。
四千人の給食(マタイ15:32-39)でも、全く同様に、満腹するや、あっさりイエスから離れる。
イエスが与えたいものは「いのちのパン」(ヨハネ6:48)であって、マナのような、それを食べていっときの空腹はしのげても死からは逃れることのできない(ヨハネ6:49)ようなものではない。
次から次へと飛び出るパンには喜んでも、「いのちのパン」を与えてくれるイエスの、このしるしの意味には全く目が行かない。
この群集は、イエスを便利な存在としかとらえておらず、それでは単なるご利益宗教にすぎないのではないか。
もっとも、それも無理はない。
私たちにはイエスがどのような存在なのか、わからないのだ。それも、まったく分かっていない。
しかし、復活のイエスの方から戸を叩いてやってくる時が来る(黙3:20)。
その時イエスは「いのちのパン」を与えてくれ、私たちもイエスがどのような存在であるのかをはっきりと了解するのである。
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[一版]2007年 7月22日
[二版]2010年 7月13日
[三版]2012年 4月28日
[四版]2013年11月24日
[五版]2016年 4月17日
[六版]2018年 4月22日(本日)
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健やかな一日をお祈りします!
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知っているから知らないということ
「それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。
この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。
妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」
こうして、彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」(マタイ13:54-57)
---
公生涯をはじめたイエスとそのイエスの家族たちとの接触。
家族達は、はじめからイエスを知っていたので、公生涯のイエスに驚いている。
おそらくは、別人のように映っただろう。
じっさい別人なのである。同じなのだが別人なのだ。
家族達は、イエスを知っていたがゆえに、イエスを知りようがなかった。
聖書による救いとは、このイエス、すなわち十字架と復活のイエスに出会えるかどうかということにかかっている。
フォークギターを弾きながら「我が王イェスー」と歌っていた教会の若い人たちを思い出すのだが(もう随分前のことになった)、彼らはイエスを知っているといいながらイエスをまだ知らないことに気付いていただろうか。
このことはもっと一般的なことで、イエスを知っていると言う人ほどまだイエスを知らないし、恵みによってイエスに出会った人はイエスに出会ったとは誰にも言えない。そもそも他言のしようがないほどのことが起こったのだ。サウロ(パウロ)の場合と同じである。
このように、イエスを知ることとイエスに出会うこととはまるで違うのである。
---
健やかな一日をお祈りします!
この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。
妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」
こうして、彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」(マタイ13:54-57)
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公生涯をはじめたイエスとそのイエスの家族たちとの接触。
家族達は、はじめからイエスを知っていたので、公生涯のイエスに驚いている。
おそらくは、別人のように映っただろう。
じっさい別人なのである。同じなのだが別人なのだ。
家族達は、イエスを知っていたがゆえに、イエスを知りようがなかった。
聖書による救いとは、このイエス、すなわち十字架と復活のイエスに出会えるかどうかということにかかっている。
フォークギターを弾きながら「我が王イェスー」と歌っていた教会の若い人たちを思い出すのだが(もう随分前のことになった)、彼らはイエスを知っているといいながらイエスをまだ知らないことに気付いていただろうか。
このことはもっと一般的なことで、イエスを知っていると言う人ほどまだイエスを知らないし、恵みによってイエスに出会った人はイエスに出会ったとは誰にも言えない。そもそも他言のしようがないほどのことが起こったのだ。サウロ(パウロ)の場合と同じである。
このように、イエスを知ることとイエスに出会うこととはまるで違うのである。
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健やかな一日をお祈りします!
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隠されていた宝
「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)
---
私はカネを求めていたようで、そうではなかった。
人からの栄誉を求めていたようで、そうではなかった。
ほんとうに求めていたもの、それが実に、聖書にあった。
「わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)
まさしくイエス御自身こそが、いのちのパン、わき出る泉(ヨハネ4:14)、また永遠のいのち(ヨハネ6:27)そのものであったとは!
今の私は、特に何かを失ったわけでもない。
明日も、今まで通り、ごく普通に売り買いするだろう。今まで通りに、怒り、泣き、笑うだろう。ストレスも、依然として大きいだろう。
人としての営みには、さほどの変化があるとは思えない。
けれどもなんといっても、イエス、この宝を見いだした満足感の大きさといったらない。
---
[一版]2006年 9月 2日
[二版]2008年 8月 2日
[三版]2010年 7月12日
[四版]2012年 4月22日
[五版]2013年11月23日
[六版]2016年 4月10日
[七版]2016年 9月 2日
[八版]2018年 4月14日(本日)
[上記2016年9月2日付記事での後書きの再掲]
今日は、上の記事を書いてから丁度10年にあたります。10歳の誕生日といって差し支えないでしょう。
10年前のこの記事を今読んでも、自分の中に違和感がありません。まったくそのとおりです。
ちなみに最近は、周りに恵まれてストレスも当時よりずっと少なくなったと思います。
いろいろ書いてみたのですが、どれも思いつきの域を出ないので消してしまいました。
ああ、あの日から10年経ったのか、という思いが全てです。
求め続ける人には、恵みによってイエスは会ってくださいます。このことは確かなことです。
(再掲おわり)
健やかな一日をお祈りします!
---
私はカネを求めていたようで、そうではなかった。
人からの栄誉を求めていたようで、そうではなかった。
ほんとうに求めていたもの、それが実に、聖書にあった。
「わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)
まさしくイエス御自身こそが、いのちのパン、わき出る泉(ヨハネ4:14)、また永遠のいのち(ヨハネ6:27)そのものであったとは!
今の私は、特に何かを失ったわけでもない。
明日も、今まで通り、ごく普通に売り買いするだろう。今まで通りに、怒り、泣き、笑うだろう。ストレスも、依然として大きいだろう。
人としての営みには、さほどの変化があるとは思えない。
けれどもなんといっても、イエス、この宝を見いだした満足感の大きさといったらない。
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[一版]2006年 9月 2日
[二版]2008年 8月 2日
[三版]2010年 7月12日
[四版]2012年 4月22日
[五版]2013年11月23日
[六版]2016年 4月10日
[七版]2016年 9月 2日
[八版]2018年 4月14日(本日)
[上記2016年9月2日付記事での後書きの再掲]
今日は、上の記事を書いてから丁度10年にあたります。10歳の誕生日といって差し支えないでしょう。
10年前のこの記事を今読んでも、自分の中に違和感がありません。まったくそのとおりです。
ちなみに最近は、周りに恵まれてストレスも当時よりずっと少なくなったと思います。
いろいろ書いてみたのですが、どれも思いつきの域を出ないので消してしまいました。
ああ、あの日から10年経ったのか、という思いが全てです。
求め続ける人には、恵みによってイエスは会ってくださいます。このことは確かなことです。
(再掲おわり)
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人間の2種類
「ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイ13:18-23)
---
種蒔きのたとえの、イエス自身による謎解き。
ここでは、4種類の人間がたとえられている。
道ばた、岩地、いばら、そして良い地。
もっといえば、人間には2種類しかいない。
実を結ぶ人か、結ばなかった人か、その2種類である。
言い換えると、救われる人か、救われない人か。
聖書には、この2種類についてのたとえ話がとても多い。たとえば五人の愚かな娘についてのたとえ話(マタイ25:1-13)など。
この2種類とは、畢竟、御父の御恵みについてのことで、主権は人間の側になどなく、どこまでも神の側にある。
神が恵もうとされるか、そうとは思われないか。乱暴だが、人間の2種類とはこの区分である。
だから、誰が救われるかなど、誰にもわからない。
では、救いとは確率的なもので、何もやらなくても運が良ければ救われるのであろうか。
それは違う。救われるための準備をしておく必要がある。
具体的には、自分が神の御前に罪人であることを悟ることだ。
そして、罪人であることがわかるためには、神の律法をどこまでも遵守してゆく必要がある。
そのように自分を耕して耕して「良い地」にしていって、罪人が救われるための御恵みを待つのである。
---
[一版]2016年 4月 3日
[二版]2018年 4月 8日(本日)
御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイ13:18-23)
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種蒔きのたとえの、イエス自身による謎解き。
ここでは、4種類の人間がたとえられている。
道ばた、岩地、いばら、そして良い地。
もっといえば、人間には2種類しかいない。
実を結ぶ人か、結ばなかった人か、その2種類である。
言い換えると、救われる人か、救われない人か。
聖書には、この2種類についてのたとえ話がとても多い。たとえば五人の愚かな娘についてのたとえ話(マタイ25:1-13)など。
この2種類とは、畢竟、御父の御恵みについてのことで、主権は人間の側になどなく、どこまでも神の側にある。
神が恵もうとされるか、そうとは思われないか。乱暴だが、人間の2種類とはこの区分である。
だから、誰が救われるかなど、誰にもわからない。
では、救いとは確率的なもので、何もやらなくても運が良ければ救われるのであろうか。
それは違う。救われるための準備をしておく必要がある。
具体的には、自分が神の御前に罪人であることを悟ることだ。
そして、罪人であることがわかるためには、神の律法をどこまでも遵守してゆく必要がある。
そのように自分を耕して耕して「良い地」にしていって、罪人が救われるための御恵みを待つのである。
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[一版]2016年 4月 3日
[二版]2018年 4月 8日(本日)
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まむしのすえたち
「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。
良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。
わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。
あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:34-37)
---
イエスのパリサイ人批判。
だが、「まむしのすえたち」ということばの射程は私たちにも及んでいる。
人はその肉に、よい倉も悪い倉も宿しており、良い物も取り出せれば悪い物も噴き出す。
もし良い物だけが出るとすれば、それは罪なき肉を持つ神の子だけだ。
ともかく私たちの肉は悪い倉を宿している。
ことばによって罪に定められるのならば、その肉ゆえにことばで失敗しない人間などいないのだから、全ての人間が神の御前に有罪なのである。
そのように、まず私たちはその肉ゆえに存在そのものが罪深いのだと気付かされる。
そして、その罪をなくしていって天の御国に適うようになることなど、自力では到底できないということに絶望する。
このときイエスの十字架にはりつけにされてイエスと共に死に、そして復活のイエスと共に復活する。
その過程で私たちは罪に死んだので、依然として罪深い身でありつつもその罪が赦された。
私たちは罪深い者だが、その罪から自由になったのである。
罪を罪とも気付かないパリサイ人の放縦とは、似て非なるものなのである。
だから、イエスが「まむしのすえたち」と言うのを聞いて、それが実は自分を指していると気付くことが救いのスタートラインになる。
---
[一版]2012年 4月 7日
[二版]2013日11月21日
[三版]2016年 3月26日
[四版]2018年 4月 7日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。
わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。
あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:34-37)
---
イエスのパリサイ人批判。
だが、「まむしのすえたち」ということばの射程は私たちにも及んでいる。
人はその肉に、よい倉も悪い倉も宿しており、良い物も取り出せれば悪い物も噴き出す。
もし良い物だけが出るとすれば、それは罪なき肉を持つ神の子だけだ。
ともかく私たちの肉は悪い倉を宿している。
ことばによって罪に定められるのならば、その肉ゆえにことばで失敗しない人間などいないのだから、全ての人間が神の御前に有罪なのである。
そのように、まず私たちはその肉ゆえに存在そのものが罪深いのだと気付かされる。
そして、その罪をなくしていって天の御国に適うようになることなど、自力では到底できないということに絶望する。
このときイエスの十字架にはりつけにされてイエスと共に死に、そして復活のイエスと共に復活する。
その過程で私たちは罪に死んだので、依然として罪深い身でありつつもその罪が赦された。
私たちは罪深い者だが、その罪から自由になったのである。
罪を罪とも気付かないパリサイ人の放縦とは、似て非なるものなのである。
だから、イエスが「まむしのすえたち」と言うのを聞いて、それが実は自分を指していると気付くことが救いのスタートラインになる。
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[一版]2012年 4月 7日
[二版]2013日11月21日
[三版]2016年 3月26日
[四版]2018年 4月 7日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
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律法と法律
「イエスはそこを去って、会堂にはいられた。
そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。」(マタイ12:9-10)
---
いわゆる安息日論争より。
現代に生きる私たちは、たとえば、あなたは窃盗をしたので有罪である、というように法律の条文を適用する。
上の聖書箇所でも、彼ら(パリサイ人)は安息日を破ったとイエスを指弾している。
安息日を守れとは確かに律法に定められたことであるが、しかし、律法は法律とは決定的に異なる点がある。
それは、律法が御父と個人との救いについての契約だということであり、その個人が内面の罪を自覚すること、自分の罪深さが分かるようになることが律法の目的である。一方、法律は、もっぱら人を裁くためにある。
上のパリサイ人は、貶めたい対象であるイエスを貶めたいから安息日のことをイエスに言っているだけだが、これは律法を法律として扱っているからだ。
このパリサイ人は、罪の自覚すなわち救いの入り口に立つことを自ら拒む形になっている。そのことに気付いてもいないだろう。
自分を救うためなのか、他人を裁くためなのかが、ここでは問われている。
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健やかな一日をお祈りします!
そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。」(マタイ12:9-10)
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いわゆる安息日論争より。
現代に生きる私たちは、たとえば、あなたは窃盗をしたので有罪である、というように法律の条文を適用する。
上の聖書箇所でも、彼ら(パリサイ人)は安息日を破ったとイエスを指弾している。
安息日を守れとは確かに律法に定められたことであるが、しかし、律法は法律とは決定的に異なる点がある。
それは、律法が御父と個人との救いについての契約だということであり、その個人が内面の罪を自覚すること、自分の罪深さが分かるようになることが律法の目的である。一方、法律は、もっぱら人を裁くためにある。
上のパリサイ人は、貶めたい対象であるイエスを貶めたいから安息日のことをイエスに言っているだけだが、これは律法を法律として扱っているからだ。
このパリサイ人は、罪の自覚すなわち救いの入り口に立つことを自ら拒む形になっている。そのことに気付いてもいないだろう。
自分を救うためなのか、他人を裁くためなのかが、ここでは問われている。
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健やかな一日をお祈りします!
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たましいに安らぎが来ます
「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:27-30)
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有名な聖書箇所。
イエスはここで、招待をしている。疲れた人、重荷を負っている人を招待している。
「わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
では、どのようにして休ませるのか。
イエスとくびきを共に負うことによってである。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」。
何よりも負いやすいのだろうか。パリサイ人や律法学者のくびきだろうか。それともこの頃の当地の社会というくびきだろうか。この聖書箇所では、はっきりしない。
ともかく、イエスと共にあってイエスとくびきを共に負うことは、他の何かのくびきよりも軽いことには違いない。なにしろイエスが共に居続けてくれるのだ。
そうすると、どうすればイエスのくびきを負うようになるのか、ということに行き着くが、これはイエスが共にいてくれてこそである。
このことは、聖霊の内住とでも、また、上の聖書箇所にあるように父を知らせてもらう(すなわち御父との和解)とでも言うことができる。同じ事をどの角度から見るか、ということで表現が違ってきている。
表現はちがっても、目指すところはその結果である「たましいに安らぎが来ます」というところにある。
イエスは、この地点を視野に入れて、多くの人を招待している。
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健やかな一日をお祈りします!
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:27-30)
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有名な聖書箇所。
イエスはここで、招待をしている。疲れた人、重荷を負っている人を招待している。
「わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
では、どのようにして休ませるのか。
イエスとくびきを共に負うことによってである。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」。
何よりも負いやすいのだろうか。パリサイ人や律法学者のくびきだろうか。それともこの頃の当地の社会というくびきだろうか。この聖書箇所では、はっきりしない。
ともかく、イエスと共にあってイエスとくびきを共に負うことは、他の何かのくびきよりも軽いことには違いない。なにしろイエスが共に居続けてくれるのだ。
そうすると、どうすればイエスのくびきを負うようになるのか、ということに行き着くが、これはイエスが共にいてくれてこそである。
このことは、聖霊の内住とでも、また、上の聖書箇所にあるように父を知らせてもらう(すなわち御父との和解)とでも言うことができる。同じ事をどの角度から見るか、ということで表現が違ってきている。
表現はちがっても、目指すところはその結果である「たましいに安らぎが来ます」というところにある。
イエスは、この地点を視野に入れて、多くの人を招待している。
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健やかな一日をお祈りします!
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